自警録 / 第四章 外は柔、内は剛・譲られぬところはあくまで固守せよ
譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂げられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して抂ぐべきことでないと思う。僕はどこまでも抂げよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば飽くまでもこれを固守すべきである。 とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。溝の縁までは譲ろう。しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。
書き下し
譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂げられぬこともある。しかしてまたかく大切な事柄については一歩だも決して抂ぐべきことでないと思う。僕はどこまでも抂げよとはいわぬ。出来るだけは譲り譲りして、どうしても譲られぬところに行けば飽くまでもこれを固守すべきである。 とかく人は表面に現れたことのみで測るから、人のために譲ると相手の人は図に乗ってますますつけこみ、ますますその人の権利までも犯すことが折々ある。右へ十歩譲ればもう二十歩、もう三十歩とだんだんに押し出す。ハイハイといって押されたままに譲って行くと、ついには溝の中に叩き込まれんとする。溝の縁までは譲ろう。しかし溝に叩き込まれんとする時は、ドッコイ、いかぬぞ、これより先は一歩も半歩も譲ることが出来ぬ。この場合に臨みなお譲らせようとするものもあれば、断然御免を蒙って、あべこべに溝に叩き込むのが至当である。しかしてこの場合にいたり真の強みが発揮される。
現代語訳
譲って世を渡れと説きますが、事によっては、一歩も曲げられないこともあります。そしてそうした大切なことについては、一歩たりとも決して曲げてはならないと思います。私はどこまでも曲げよと言うのではありません。できるだけは譲りに譲って、どうしても譲れないところまで行ったら、あくまでそれを固く守るべきです。 とかく人は表面に現れたことだけで人を測るので、人のために譲ると相手はつけあがり、ますますつけこんで、その人の権利までも侵すことがときどきあります。右へ十歩譲れば、もう二十歩、もう三十歩とだんだん押し出してきます。ハイハイと言って、押されるままに譲っていくと、しまいには溝の中に叩き込まれそうになります。溝の縁までは譲りましょう。しかし溝に叩き込まれそうになったときは、「どっこい、いかんぞ、これより先は一歩も半歩も譲れない」と言うのです。この場面になってなお譲らせようとする者がいれば、断固お断りして、逆にその者を溝に叩き込むのが当然です。そしてこの場面に至ってこそ、真の強さが発揮されるのです。
解説

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自警録・第四章 外は柔、内は剛・世の中には譲って差支えないことが多い柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に脆く服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱き謂でない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世には抂げてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄介者である。たとえば衣を着るにも、縞柄から縫い方から着ようにいたるまで一々明白した意思を表示し、かつこれを貫かんとすれば、たいていの仕立屋または細君は必ず手に余すであろう。三度食う飯さえも強い柔かいがある。この浮世を渡るに飯の炊きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにも鮭でも鰌でもよい、沢庵でも菜葉でもよく、また味噌汁の実にしても芋でも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば来客とか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行するも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無頓着というは語弊もあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数多ある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以である。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・剛柔、分を守りて人格が円満さて心の剛柔とは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、頑固となり、意気地となる。柔に過ぐれば木偶となり、薄志弱行となる。極端に失すればいずれも悪しくなるが、度に過ぎぬ以上は、すべからく剛毅でなければならぬ。 自分の所信を貫徹するためには、一たび固めた決心を抂げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を借さずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔が能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・やわらかく握るところに人生の真味ありたびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡船のごときものである。人とともにこの世を渡るには、おだやかに意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する『菜根譚』には、 「径路窄きところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋味濃かなるものは、三分を減じて人に譲りて嗜ましむ、これは是れ、世を渉る一の極安楽法なり」と。 また、 「世に処するには一歩を譲るを高しとなす、歩を退くるは即ち歩を進むるの張本」 といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰り返してあるが、実にその通り。自分の権利を最大限度に要求することははなはだ卑劣に陥る所以と思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。沙翁の言にも、 「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」 と、昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。これはむろん攫む工合いにもよりけりであるが、ここに述べたのは粟とか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世における幸福なるものは粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に攫み得るものではあるまいか。権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度でなるべく人に譲るをもって人生の真味を味わい得るものと思う。 前にいった宗教家なる知人が、おとなし過ぎて惜しいと批評を受けたのも、もっともなことである。基督教のごとく、柔和を旨とする宗教にては、はでなことがはなはだ少ない、喧嘩も少なければ、議論も少ない。ドラマチックのことがはなはだ稀なるゆえ、世の見物人より喝采を受けることなくして世を過ごすが、しかしなお華麗に世を渡るよりはこの方がかえって人生の真味を味わわれると思う。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・こういう強みを処世上に持ちたいこれは婦人などによく見ることである。柔和にして他のいうことを聴き容れ、いくら無理をいうてもハイハイと忍ぶ。どこまでもそれに付け込んで彼女の名誉や生命にまで関渉せんとするときには、どっこい、それは不可と毅然としてこれを斥ける。 むかし袈裟が遠藤盛遠に挑まれたときには、無理を忍んでハイハイと返事し、もって母の危急を防いだが、いよいよ最後の守らねばならぬ点にいたっては、身を殺してまでも毅然として自己を操持した。この点にいたると婦人は侮るべからざる強いところがある。日ごろは一つの柔しき飾りに過ぎぬ「簪も逆手に持てば恐ろしい」。こういう強味は世に処する上において、どうしてももたなくてはならぬ。 僕は種々なる人のなすところを見るに、とかく表面には剛毅を装うているものが、何か事に当たると、たちまち脆く倒れる、松の木が風に折れると同じである。これに反し風のまにまに動く柳は動きながらも本性を失わず、かつ折れることなくして、その一生を完うする。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・身を処するには剛柔がおのおの必要先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも亀もあれば海月もあり、植物にも栗もあれば苺もあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、強いて俺はこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天賦の性質を矯め、束縛することはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂行することも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。 人間の体躯も骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂肪もある、腹や股が柔であるから、人体は柔であるといえぬ。爪や歯牙があるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・柔和なる者はこの世を嗣ぐ「憎まれ子世にはびこる」という俗諺があるが、これは原因と結果とを顛倒したことである。世にはびこるものは憎まれる、はびこらずに謙遜に柔順なるこそ真に世に処する妙法である。かつこれが持久の基と思う。聖書に、 「柔和なる者はこの世を嗣ぐべし」 とある。この世を承けて引き継ぐ者は柔和なる者なりとは、柔順なる人は永久にこの世の継続者である。 換言すれば柔順は永久の徳なり、剛いもの、力をもって世を圧倒するものは、たとえ一時の効はあるとも、永久には継続せぬ。獣を見ても分かる、虎、獅子、熊などのごとき猛獣は年々その数が減じつつある。もし統計を取ることが出来れば、彼らの減少率のはなはだ迅速なることを示すであろう。こんにちの状態にて進行すれば、数年ならずしてこれらの猛獣はこの世に跡を絶つであろうと、動物学者はかえって心配し、彼らの保存法を講じている。 しかるにこれらの猛獣より見れば、卑屈らしく女々しく思わるる牛馬羊のごときはかえって年々増殖する。すなわち柔和なる動物がこの世を継いで、烈しい猛獣は年々歳々にその跡を絶ちつつある。人間においてもまたそうと思う。野蛮時代には武ばる一方で、永久に続くことは出来ぬ。喧嘩して世を渡るものは喧嘩両成敗で共倒れして後がつづかぬ。 武士のけんくゎに後家が二人出来 相互に殺し合うゆえに永続せぬのである。猛烈をもって勇気なりと思う時代はまだまだ野蛮時代たるを免れぬ。武骨で強そうなるをもって武士道の教訓のごとく思うははなはだ幼稚なる武士道である。理想に富める武士はものの哀れを知り、仁の徳に長け、温和に柔順なものである。 かつて英国のある子供が、その父に gentlemanly とはなんの意味かと問うたとき、父は通例の書籍に書いてある文句の切り方は違う、ふつにはジェントルマンとリーとに切る、と思うであろうが、これは文法上正しいだけで、その内容はジェントルで切り、マンリーを加え、柔和で男らしいという意味であると答えたという。