自警録 / 第三章 強き人・いよいよという時に発する強さ
我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を窺うと心底強いものがたくさんある。 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。 知らざりき仏と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは とは光俊朝臣の述懐であるが、歌の「仏」という代りに武士なり丈夫なりの強い人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ威張るものは、古来猪武士と呼ばれている。 これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰然自若として落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従容として船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ業である。平生は威張ったこともなく、おだやかに算盤を弾ける実業家でありながら、かくのごとくなるは実に見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。
書き下し
我々の交われる人々の中にも、つくづくその人物を窺うと心底強いものがたくさんある。 残念なことには我々はそういう人物をつくづく見ることを勤めない。 知らざりき仏と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは とは光俊朝臣の述懐であるが、歌の「仏」という代りに武士なり丈夫なりの強い人格の文字を用いても同じことになる。しかつめらしく具足をつけ威張るものは、古来猪武士と呼ばれている。 これに反し外見はおだやかにして円満に、人と争うことなきも、しかも一旦事あるときは犯すべからざる力を備えた人を真の武士といっている。しかして世にはかくのごとき人がたくさんある。見たところ、吹けば倒れるかと思われる柔しい男にして、いよいよというときには思いがけない力を示すものはたくさんある。この前英国の巨船タイタニック号が大西洋に沈没したときの話を聞くに、最後にいたりながら泰然自若として落着きはらい、死を見ること帰するがごとく、従容として船と共に沈めるもの数十名の多きに達したという。かくのごときは大なる勇気、強き力あるものでなければ出来ぬ業である。平生は威張ったこともなく、おだやかに算盤を弾ける実業家でありながら、かくのごとくなるは実に見上げた人々である。人の強みもここまで来なければならぬ。
現代語訳
私たちが交わる人々の中にも、よくよく人物を見ると、心の底から強い人がたくさんいます。残念なことに、私たちはそうした人物をよく見ようと努めません。 知らざりき仏と共におきふしてあけくらしける我が身なりとは (仏とともに寝起きして日を暮らしていた自分だとは気づかなかった) これは光俊朝臣の述懐ですが、歌の「仏」という代わりに、武士とか丈夫とか、強い人格を表す言葉を入れても同じことです。もったいぶって鎧をつけ、威張る者は、昔から猪武士と呼ばれています。 これに対し、見かけは穏やかで円満、人と争わないのに、いざ事があれば侵しがたい力を備えた人を、真の武士といいます。そして世の中には、そういう人がたくさんいます。見たところ、吹けば倒れそうな優しい男でも、いざというときに思いがけない力を示す者はたくさんいます。先ごろ英国の巨船タイタニック号が大西洋で沈没したときの話を聞くと、最後に及んでもなお泰然自若として落ち着き払い、死を故郷に帰るかのように見て、従容として船とともに沈んだ者が数十名にものぼったといいます。こうしたことは、大きな勇気と強い力のある者でなければできません。ふだんは威張ったこともなく、穏やかにそろばんを弾いていた実業家でありながら、このようにふるまうのは、まことに見上げた人々です。人の強さも、ここまで来なければなりません。
解説

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自警録・第三章 強き人・文明時代の強き力世には、かくのごとき児戯に類した示威運動により怖れたり、またはこれを偉いもののように思う者も多くある。論より証拠、おりおり日比谷の近辺をはじめ諸所に行わるるモッブ騒ぎを見ても分かる。自分から進んで他を威赫したり、あるいは苦しめたりするのは、未開の社会における強さである。もちろん文明の進んだ今日とても、なさけないことには、かくのごとき示威運動の必要なる場合もある。しかしこれは他の手段方法がすでにまったく尽きた最後になすべきことで、未開国ならいざ知らず、法治国においてはかくのごとき方法によりて自己の意志の鞏固なることを示すを必要とする場合ははなはだ少ない。 かつまた人を威して克つのは、みずから恥ずべき下劣なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。 いわゆる強さの形が変化するというは、克の字について前の「説文」にいえるがごとく、重荷を荷うて堪えること、すなわち辛苦艱難に堪える、耐忍の力あることをもってその強さが計られる。他人より侮辱をうけ、カッとなりてこれに手向かいするは、一見極めて勇ましく思われ、第三者より見てにぎやかにおもしろく、見物としては誂え向きである。これに反し打たれても蹴られてもジッとこれに堪えるのは、はなはだ陰気で卑屈のごとく、普通の人にはちょっとその強さを見ることが出来ぬ。韓信が市井の間に股をくぐったことは、非凡の人でなければ、張飛が長板橋上に一人で百万の敵を退けたに比し、その勇気あるを喜ぶものはなかろう。進歩したる人にあらねば真の強さは忍耐にあることを会得し得ぬ。
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自警録・第三章 強き人・外に強き人と内に強き人僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛然たること、いわゆる強いことに何もかも忘れて震い上がるごとく感ずることがある。しかるに『新約聖書』を見ると、その説くところはなはだ柔和にして強みがさらになきにかかわらず、読んで行くあいだに犯すべからざる力を感ずる。百万人が襲来しても、毫も動かざる心の強みを与うること、『英雄列伝』の遠く及ぶところでない。もっともこれは誰れしもかく感ずるとは断言することを憚るし、あるいはわが輩一人の所感であるかも知れぬけれども、同感の人も必ずあろうと思う。わが輩の信ずるところによれば、いわゆる世人の強いと称する匹夫的の勇と、霊的に強い沈勇とのあいだには大なる差違がある。 絵草紙や講談師の筆記にある木村長門守が茶坊主のために辱を受けたとき、起ってこれを斬り捨つることは、なんらのめんどう手数もなかったであろうし、また女子供らの喝采を博するためには、たちどころにこれを切り捨てたほうが勇ましくも思われたであろう。しかるに彼の精神を酌み得るものは、彼が眉間に傷をうけ、しかもそれを茶坊主輩の手よりうけながら、なお泰然自若としていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。
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自警録・第一章 男一匹・男は強かるべし強がるべからず女子の保護者たる役目を全うするには猛勇では叶わぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊達は決して威張り一方では用をなさぬ。内心剛くして外部に柔らかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて曰く、 「人剛を好めば我柔をもってこれに勝つ」 と、また曰く、 「柔能く剛を制す、赤子に遇うて賁育その勇を失う」と。 男子は須らく強かるべし、しかし強がるべからず。外弱きがごとくして内強かるべし。 負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり とは、真の男子の態度であろう。男もこの点まで思慮が進むと、先きに述べたる宗教の訓うる趣旨に叶うてきて、深沈重厚の資と磊落雄豪の質との撞着が消えてくる。かくなると羊のようにおとなしい性と虎のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮」というのがあって、外面虎皮をかぶりて虚勢を張り、内心卑怯きわまる偽物を指す成語としてあり、楊雄(前五八―後一八)の文に、 「羊質にして虎皮、草を見て悦び、豺を見て戦く、其の皮の虎なるを忘るるなり」 とあるが、草を見て悦ぶになんの悪きことがない。悪きことは豺を見て戦く臆病心にあるのだから、その温順寡慾なる羊質をもちながら、なお虎の驍悍勁厲なる質を修めたら、すなわち廉毅忠果の性格となりてこれに超ゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰く、 The bravest are the tenderest, ―― The loving are the daring. (勇深なる者は温柔なる者、愛情深き者は大胆なる者なり)
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自警録・第三章 強き人・「克つ」に含まれた二種の考え克つといえば誰しもただちに強い、すなわち力の有るという思想と連関して考える。しかして強いあるいは有力というについてただちに起こる考えは少なくとも二種ある。一つは人に負けぬこと、一つは人に勝つことである。ゆえに克つことについても、この二種の考えが含まれている。字引を見ると、克の字はもと家を支うる材木の意味であり、したがって人の場合には重荷を荷って堪える意を含ませてあると聞くが、これはいわゆる勝つ所以を最もよく表したものと思う。 克つ人といえばとかく外部の敵に勝つように思わるるが、その外に障害物を一掃する人、もしくは破壊する人と思われる。また野蛮人の社会においては、破壊する人が一番の強者として尊敬される。ひとり野蛮人のみならず、進歩したる今日の社会においても、ややもすれば乱暴に破壊する力を逞しゅうする者が最も強いように信ぜられ、何かぶちこわすことが偉いことにされている。わが輩が往年塾にあったとき、食堂で茶碗類をこわすものがあると、人に強い奴と思われ、自分もまたそう思うらしく、あるいは洋燈でも叩きこわすと、強い奴と賞め讃えられた時代もあった。これはあたかも茶碗やランプを相手にする者は力あるものと信じ、取りも直さず器具に克つことをもって偉いこととみなすのである。
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自警録・第三章 強き人・戦場における日露兵の比較かつてある軍人に満州の戦場において日露両国兵の優劣如何を問いしに、その人の言に、 「ロシア人は死するも活くるも神の力により、働くも働かぬも神のためなりと、こう考えていたらしい。ゆえに卑怯者もたくさんあったが、何ごとなりとも命令を受くると、人が居ろうと居るまいとを問わず、神のためと思ってその任務を果たすことにつとめた。しかるに日本兵は煽てなければ働かない。決死隊と称するものも、何人か彼らの花のごとく散るありさまを目撃する者がなければ、ことに将校が現場に居る場合でなければ、士気はなはだ振わなかった」 と物語ったが、あるいはそうであったかも知れぬ。いまだ一般民衆の中には強いという観念ははなはだ幼稚である。むしろ猛獣的の一見して人が己れを怖れるとか、あるいはいつでも人に噛みつかんとする気が顕われねば強いと思わぬものもあるが、これがそもそも人を弱からしめる手段ではあるまいかと思う。議論をしても、理屈を述ぶるよりは声の高いほうが勝つと思い、あるいは悪口でも吐くを元気と思うごとき世の中では、真の強さはちょっと解りかねるであろう。
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自警録・第六章 怖気の矯正・怖気に処する二種の考えその後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。