自警録 / 第一章 男一匹・弱者の保護は男一匹の要素
従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快とした。がこの点についても今後両性が相類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤である。 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に鑑みても男子は女子を保護するの義務が天然に備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを弄び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用するのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ護るこそ、生物界における永遠不易の法則である。 むかしの任侠と称する者を見ても、彼らは外見上放蕩三昧に身を持ち崩すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里に踏み込んでも、女子を弄ぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。
書き下し
従来、男は女に比し優等なりしために、男は女を保護するをもってその義務となし、またこれを愉快とした。がこの点についても今後両性が相類似するときは同等となり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうであるが、おそらくはそれは空想にとどまり、動物の例により推測するに、男性はあくまでも女性を保護するものらしい。すなわちある意味において女性はあくまでも弱き地位に立つもので、男は松、女は藤である。 今後、女性の身体の構造にいかなる変化が来たるとするも、男子に乳房が加わる時の来ないあいだは、母たるの役目はいつまでも女子に属する。この一時に鑑みても男子は女子を保護するの義務が天然に備わっていると思われる。ゆえに男一匹に欠くべからざる要素は女性に対して保護者となるにある。女性の弱きに乗じて彼らを弄び、あるいは彼らを苦しめるがごときは、これ男性の権能を濫用するのはなはだしきもの。力ある者が力なきものを養いかつ護るこそ、生物界における永遠不易の法則である。 むかしの任侠と称する者を見ても、彼らは外見上放蕩三昧に身を持ち崩すようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里に踏み込んでも、女子を弄ぶがごときことは少なかったようである。この程度に達せざれば二十世紀における男一匹として世に誇ることはできぬ。
現代語訳
これまで、男は女に比べて優位にあったため、男は女を保護することを義務とし、またそれを愉快としてきました。この点についても、今後男女が似てくれば対等になり、一方が一方を保護する必要がなくなりそうですが、おそらくそれは空想にとどまり、動物の例から推測すれば、男性はあくまでも女性を保護するもののようです。つまり、ある意味で女性はどこまでも弱い立場にあり、男は松、女は藤である、ということです。 今後、女性の身体の構造にどんな変化が起こるとしても、男子に乳房が加わる日が来ないかぎり、母たる役目はいつまでも女子に属します。この一事を考えても、男子には女子を保護する義務が天然に備わっていると思われます。ですから、男一匹に欠かせない要素は、女性に対して保護者となることです。女性の弱さにつけこんで彼女らをもてあそび、あるいは苦しめるようなことは、男性の権能を濫用すること甚だしいものです。力のある者が力のない者を養い、かつ守ることこそ、生物界の永遠不変の法則です。 昔の任侠と呼ばれる者を見ても、彼らは外見上、放蕩三昧で身を持ち崩すようでありながら、女子に対する関係は思いのほか潔白で、遊里に足を踏み入れても、女子をもてあそぶようなことは少なかったようです。この程度に達しなければ、二十世紀における男一匹として世に誇ることはできません。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
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自警録・第一章 男一匹・男一匹には判断実力の力が要る思慮のただ胸中にあるのみにては、まだ男性の資格を充分に発揮したとは言い難い。なんとなれば男性の特性は活動にある。働きかけすなわち能動は男性的にして、女子は受け身である。また男子の働きは外部に現るるを誉とするも、女子の働きは内助にある。しかしてこの内助はただに一家のうちの意味にとどまらずして、心のうちの助けの意味とも解すべきであると思う。 ゆえに一家に事あり、これに処するは男子の任であるが、その動機はあるいは女性に起こることが少なくない。 キングスレーの詩に、 Men must work and women must weep. (かせがにゃならぬ男の身、泣かにゃならぬ女の身) という一句がある。詮じつめれば男子の力は思慮に止まらでこれを判断し、しかしてこれを実行するにある。女子の力は判断するについてははなはだ弱い。しかし思慮するに参考とすべき種々の観察を下し、あるいはこれが材料を集むることは決して男子に劣るものでない。 かつてある学者の言に男子の脳髄は帰納的なるも、女子は演繹的なりとあったが、女子は感情が勝っているから冷静に事物に接することが難い。しかし感情の力をもって事物を観察すれば、理性によりて発見しえざることがらを、往々にして発見することがある。昔の男一匹は動物的に猛勇を揮うを特性としたとはいいながら、なおかつ当時においても女子よりは思慮と判断の力が優れていたであろう。 こんにちの男一匹は、文化の進歩とともに昔時のごとき蛮勇の必要はいちじるしく減少したけれども、思慮と判断力とにおいて多々ますます進むにあらざれば、男一匹として女子に優るの理由を失うにいたる。
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自警録・第一章 男一匹・男女両性の接近し競争する傾向近来、人類の進歩を考うるに、女子の進歩は男子にくらべて速度が早いと思われる。知識上のことはいうまでもなく、その身体のうえにおいてさえも、近時、男子の体格上に起こる変動よりも、女子の体格に起こる変動が多い。 ある学者はかくのごとき有様が続いたならば、世は遠からず蒲柳の美人がなくなるだろうというている。思慮、学問、決断において女子が男子のごとくなれば、身体までも相類似してくる。かくなればもはや男一匹などいうことは決して男子の誇りの言葉でなくなる。昔時の得意を夢み、油断していると、男子はその長所を失うて粗雑な荒くれ男のごときものとなり、さらに一歩を進めて道徳上に退化を来たしたならば、いよいよ一匹の匹が動物的男性なることを示すにいたりはせぬか。 ある人は今後の戦争は女性との対戦ならんといった。もちろんこれは腕力の戦いでなく、経済的の戦いである。この戦いはすでに開始せられ、工場において、学校において、商店において、事務所において、女性は一部男性に代って仕事しつつある。この競争は今後急に終るまいと思うが、今やまた知識上の競争も始まらんとしている。これを思えば男一匹の将来ははなはだ危ぶまるる。この戦争が将来いかに成りゆき、いずれが勝つか、いずれが負けるか、はたまたいずれも勝負なしに円満なる平和をもって解決さるるか、それは未来の事とし、吾人の目下の務めは、男子は男子だけの性質を忌憚なく発揮することにある。 競争とか勝負とかいえば、両性のあいだに利害を異にするように聞こゆるし、また現に経済上の競争においては利害を異にしているが、この利害を異にする関係は永遠に続くものであるか、あるいはまた男女は単に性の相違するのみで、その他の利害はことごとく共通するものではないかという問題も起こってくる。
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自警録・第一章 男一匹・男は強かるべし強がるべからず女子の保護者たる役目を全うするには猛勇では叶わぬ。やはり優しきところ、一見女性的のところがなくてはならぬ。血も涙もあってこそ真の男と称すべし。今後の男伊達は決して威張り一方では用をなさぬ。内心剛くして外部に柔らかくなくてはならぬ。むかしの賢者も教えて曰く、 「人剛を好めば我柔をもってこれに勝つ」 と、また曰く、 「柔能く剛を制す、赤子に遇うて賁育その勇を失う」と。 男子は須らく強かるべし、しかし強がるべからず。外弱きがごとくして内強かるべし。 負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり とは、真の男子の態度であろう。男もこの点まで思慮が進むと、先きに述べたる宗教の訓うる趣旨に叶うてきて、深沈重厚の資と磊落雄豪の質との撞着が消えてくる。かくなると羊のようにおとなしい性と虎のごときたけき質とを兼備する人格が出るであろう。漢学者の使用する一句に、「羊質虎皮」というのがあって、外面虎皮をかぶりて虚勢を張り、内心卑怯きわまる偽物を指す成語としてあり、楊雄(前五八―後一八)の文に、 「羊質にして虎皮、草を見て悦び、豺を見て戦く、其の皮の虎なるを忘るるなり」 とあるが、草を見て悦ぶになんの悪きことがない。悪きことは豺を見て戦く臆病心にあるのだから、その温順寡慾なる羊質をもちながら、なお虎の驍悍勁厲なる質を修めたら、すなわち廉毅忠果の性格となりてこれに超ゆる人格はなかろう。政治家かつ文学者として高名なるバヤード=デーロル氏の詩に曰く、 The bravest are the tenderest, ―― The loving are the daring. (勇深なる者は温柔なる者、愛情深き者は大胆なる者なり)
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自警録・第一章 男一匹・男一匹になるには推理の力が要るしからば男一匹たるの資格は、勇気の有無のみをもって定むるかというにそうは行かぬ。勇気なるものは目的に達する方法であって目的でも動機でもない。なんのために勇を揮うかといえば、義のためにするのである。義を見てなせばこそ勇と称すれ、不義と知りながら行えば、いかに奮闘してもそれは怯たるを免れぬ。ここにおいて男性として欠くべからざる要素は事の本末物の軽重を分別する力である。テニソンが「女は小さき男なり」といったのは、むろん形の大小を意味したのでなく、知能の多少を指したのである。 わが輩は脳髄において女性が必ずしも男性に劣るとはいわぬ。女性にして学者や芸術家や宗教家を出しているに見れば、両性のあいだにおいて脳髄の作用が種類を異にするとは思わぬ。今までは西洋においても女性は男性ほどに教育の恩典に与るの便がなかったゆえ、その頭脳もまた思う存分に啓発されなかった。しかし女子教育の便も進みたれば、今後女性の智力の発展は男子のそれに比べてますます大なるものであろう。もっとも普通に女子は男子に劣るという言葉のうちには、腕力の差違を含めることはいうまでもないが、思慮において男子の女子に優越なることを述べたのである。 「女賢うして牛売り損なう」「女の鼻の先思案」 などいうは、こんにちの女子に対してははなはだ侮辱の言に聞こゆるも、女学校の設置なかりし時代においてはさもありしなるべしと思われる。否、女学校に通う学生のあいだにおいてさえも、なお往々にしてこの謗りを免れないものもある。わが輩のいう思慮とはいわゆる「ロジカル・マインド」で、推理の力の謂である。かくすればかくなると直接に起こる因果の関係は何ぴとでも測りやすきことであるが、その先は? なおその先は?と先の先までも推論を下して遠き慮を凝らす力は、今日では(将来はいざ知らず)なお男子の特長(もちろん男子にも無思慮の者多きはいうまでもなけれど、女子に比すれば少なかるべく)とも称すべきものであって、男一匹と誇るものはものごとの利害、曲直について篤と思慮する要素を備えねばならぬ。
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自警録・第一章 男一匹・男一匹とは何を意味するかしからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅とか、あるいは大胆不敵、あるいは果断勇猛、あるいは任侠というような一種の印象を惹起す。 「天川屋儀兵衛は男でござる」 と一喝すれば捕手の者も閉息する。 男一匹なる句は一種爽快なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱せるかの疑惑を促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛とか任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補い、豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。 右のごとく考え来たれば一匹なる言葉には、やはり幾分か侮辱の意が含まれているごとく思われる。けだし聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣の勇気に類したもので、孟子のいうところの匹夫の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇と称し、深く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕するばかりである。今でも一朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為に出る。沙翁の言に、 「ラッパの音のわが耳に響く時は吾人のまさに騎虎の行動を倣うの時なり」 と。暴虎馮河の徒には孔子は与せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服する。昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫の勇以上に昇らずとも、それが尊かった。しかして男子として褒むべきはこの種の勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直を判別する時代にいたっても、依然としてなお匹夫の勇が尊ばれ、男を褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。
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自警録・第一章 男一匹・女なる言葉に含まれた道徳的意味(1)この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。 たとえば、 「女子と小人は養い難し」 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺を見ても、 「どうせ女の事だもの」 「家の乱は女から」 「七人の子は生すとも女に心を許すな」 「大蛇を見るとも女人を見るべからず」 などと女に関する悪口がたくさんある。畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を揷んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。