一枚起請文 / 三心四修も念仏のうち
但三心四修と申事ノ候ハ皆决定して南無阿彌陀佛にて往生スルゾト思フ内二籠り候也。此外におくふかき事を存ゼバ二尊ノあはれみニハヅレ本願にもれ候べし。
新字:但三心四修と申事ノ候ハ皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルゾト思フ内二籠り候也。此外におくふかき事を存ゼバ二尊ノあはれみニハヅレ本願にもれ候べし。
書き下し
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠り候うなり。 このほかに奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願に漏れ候うべし。
現代語訳
ただし、三心や四修と言われるものがありますが、それはすべて、必ず南無阿弥陀仏で往生するのだと思い定める心の中に含まれております。 これ以外に、何か奥深いことがあると考えるならば、釈迦と阿弥陀仏の二尊の哀れみから外れ、阿弥陀仏の本願からも漏れてしまうでしょう。
解説
三心は至誠心・深心・回向発願心という、念仏の際に備えるべき三つの心、四修は念仏を続けるための四つの心得を指し、善導の説によるものです。法然は、それらを別に学んで備えるものとせず、「必ず往生する」と思い定める一心の中に収まると言います。さらに、これ以外に奥義を求めれば救いから外れると、強い言葉で戒めます。複雑な作法や手順を重ねるうち、本来の目的が見えなくなることは、現代の組織でもよくあります。制度や規則の細部が、核心の代わりになっていないかを見直す手がかりになります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
三心四修決定二尊本願奥義善導
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