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驢鞍橋 / 卷上

亦佛を信するにも二科有り、深く佛恩を信して、身命を抛ちて禮し奉り、業障を盡し、我を盡すは可也。佛を敬つて其代に佛に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念佛申すにも二科有り、念佛を申し佛に成らんと思ふは輪廻の業也。實には念佛を以て、一切の煩惱を申し消すを正理とす。其故は總して今佛に成る物にあらず、煩惱をさへ申し消せば本自ら佛也。然るに死して後佛に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に隨つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。惡き我を盡せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間萬事を放下して、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と息を引切り引切り常に死習ひて安樂に死ぬる外なし。只强く念佛すべし、沈み念佛申すべからす。總して强き機には病か付かぬ物也。

新字:亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。

書き下し

亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。

現代語訳

また、仏を信じるにも二通りある。深く仏の恩を信じて、身命を投げ出して礼拝し、業障を尽くし、我を尽くすのはよい。仏を敬って、その代わりに仏になろうと思うのは、輪廻の業である。また念仏を申すにも二通りある。念仏を申して仏になろうと思うのは輪廻の業である。本当は、念仏によって一切の煩悩を申し消すのを正しい道理とする。そのわけは、おおよそ今、仏になるものではない。煩悩さえ申し消せば、本来おのずから仏なのである。ところが、死んだ後に仏になろうなどと思うのは、みな死後への欲の渇きである。もっとも、機に応じて、死後への欲によって娑婆の欲を奪う方便がないわけではない。死後への欲と生への欲は取り替えたものだが、輪廻の業となることは同じである。悪い我を尽くしても、かえって善い我を打ち立ててしまうのである。とにかく、後で良くなろうと思って勤めるのは、みな輪廻の業である。だから万事を放り出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と息を引き切り引き切り、常に死に習って、安楽に死ぬほかはない。ただ強く念仏しなさい。沈んだ念仏を申してはならない。おおよそ強い気迫には病がつかないものである、と。

解説

信仰や念仏にも、見返りを求める心が入り込む、と正三は続ける。仏を敬う代わりに仏になりたい、念仏して極楽へ行きたいと思うのは、形を変えた欲である。悪い我を削っても、今度は善い我を打ち立ててしまう、という指摘は鋭い。立派になろうとする努力そのものが、新しい我執になる。自己啓発に熱心なほど、理想の自分という新しい執着にとらわれていないか、を考えさせる深い条である。

この章句が説くこと

我執念仏輪廻見返り自己啓発煩悩

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