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法句経 / 第二十六 婆羅門の部 四一九〜四二一 無所有無取の人

四一九 一切有情の死と又生とを知り、著なく、幸にして、覺悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。 四二〇 心の穢なき阿羅漢の趣きし處は神も健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四二一 初めにも後にも中にも少しの所有あらず、無所有無取なる彼を我は婆羅門と謂ふ。

新字:四一九 一切有情の死と又生とを知り、著なく、幸にして、覚悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。 四二〇 心の穢なき阿羅漢の趣きし処は神も健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四二一 初めにも後にも中にも少しの所有あらず、無所有無取なる彼を我は婆羅門と謂ふ。

書き下し

四一九 一切有情の死と又生とを知り、著なく、幸にして、覚悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。 四二〇 心の穢なき阿羅漢の趣きし処は神も健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四二一 初めにも後にも中にも少しの所有あらず、無所有無取なる彼を我は婆羅門と謂ふ。

現代語訳

一切の生きものの死と生とを知り、執著なく、幸いにして、目覚めた人を、私は婆羅門と呼ぶ。心の汚れのない阿羅漢(煩悩を尽くした聖者)の行った先は、神々も健闥婆(鬼神の一種)も人間も知ることができない。その人を私は婆羅門と呼ぶ。初めにも、後にも、中ほどにも、わずかの所有もなく、何ものも持たず、何ものにも執著しない人を、私は婆羅門と呼ぶ。

解説

四二〇偈は、阿羅漢の行き先は神も健闥婆も人も知らないと言う。健闥婆はガンダルヴァ、天の音楽を奏でる半神で、荻原は鬼神の一種と注する。人より上の存在すら追えないのは、跡を残さないからである。第七章「阿羅漢の部」にも、空を飛ぶ鳥の跡のように行方を追い難いという偈があった。四二一偈は「初めにも後にも中にも」と、時間の三つの相に分けて所有のなさを言う。過去に積んだものにも、未来に得るものにも、いま手にしているものにも、わずかの所有もない。三九六偈と同じ「無所有無取」がここで繰り返され、この章の骨格が見えてくる。何を得たかではなく何を持っていないかで人を定義する。蓄えることで安心を得ようとする働き方とは、正反対の物差しがここにある。

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