法句経 / 第九 悪行の部 一一九・一二〇 果の熟する時
一一九 惡果未だ熟せざる間は惡人も尚ほ幸に遭ふ、惡果の熟する時に至れば(惡人は)惡に遭ふ。 一二〇 善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ惡に遭ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遭ふ。
新字:一一九 悪果未だ熟せざる間は悪人も尚ほ幸に遭ふ、悪果の熟する時に至れば(悪人は)悪に遭ふ。 一二〇 善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ悪に遭ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遭ふ。
書き下し
一一九 悪果未だ熟せざる間は悪人も尚ほ幸に遭ふ、悪果の熟する時に至れば(悪人は)悪に遭ふ。 一二〇 善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ悪に遭ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遭ふ。
現代語訳
悪い行いの果報がまだ熟さないあいだは、悪人でも幸せに出会う。悪い果報が熟す時になれば、(悪人は)悪い報いに出会う。善い行いの果報がまだ熟さないあいだは、善人でも災いに出会う。善い果報が熟す時になれば、(善人は)善い報いに出会う。
解説
業と報いの時間差を果実の熟し方で言い表した対句である。悪人が栄え、善人が不遇をかこつという、いつの時代にもある不条理を、偈は否定しない。むしろ正面から認めている。そのうえで「未だ熟せざる間は」と条件をつける。種を蒔いてもすぐには実らず、熟すまでには時間がかかる。だから目の前の幸不幸だけを見て、行いの善し悪しを判断してはならないという。果実の比喩は、報いが外から与えられる賞罰ではなく、行いそのものが時間をかけて育つものだということを伝えている。業報を信じるかどうかは別として、この偈は短期の結果と長期の結果を分けて見る視点を与える。手を抜いた仕事がすぐに露見するとは限らず、誠実な仕事がすぐに報われるとも限らない。それでも熟す時は来る、と見る目を持てるかどうかである。
関連する章句
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