法句経 / 第九 悪行の部 一二一・一二二
一二一 彼れ我に報い來らざるべしと想ひて惡を輕んずる勿れ、水の點滴能く水瓶を盈たす、(惡は)少しづつ積むと雖も愚者は惡にて盈つ。 一二二 彼れ我に報い來らざるべしと想ひて善を輕んずる勿れ、水の點滴能く水瓶を盈たす、(善は)少しづつ積むと雖も賢人は善にて盈つ。
新字:一二一 彼れ我に報い来らざるべしと想ひて悪を軽んずる勿れ、水の点滴能く水瓶を盈たす、(悪は)少しづつ積むと雖も愚者は悪にて盈つ。 一二二 彼れ我に報い来らざるべしと想ひて善を軽んずる勿れ、水の点滴能く水瓶を盈たす、(善は)少しづつ積むと雖も賢人は善にて盈つ。
書き下し
一二一 彼れ我に報い来らざるべしと想ひて悪を軽んずる勿れ、水の点滴能く水瓶を盈たす、(悪は)少しづつ積むと雖も愚者は悪にて盈つ。 一二二 彼れ我に報い来らざるべしと想ひて善を軽んずる勿れ、水の点滴能く水瓶を盈たす、(善は)少しづつ積むと雖も賢人は善にて盈つ。
現代語訳
「あれは自分に報いとして返っては来まい」と思って悪を軽んじるな。水の一滴一滴がよく水瓶を満たす。悪は少しずつ積まれるとはいえ、愚かな者は悪で満ちる。「あれは自分に報いとして返っては来まい」と思って善を軽んじるな。水の一滴一滴がよく水瓶を満たす。善は少しずつ積まれるとはいえ、賢い人は善で満ちる。
解説
水滴と水瓶の比喩で、悪と善をまったく同じ形で語る。一滴では何も起きない。だから軽んじる。しかし瓶は必ず満ちる。ここで効いているのは、悪と善に同じ言葉を使っている点だ。悪が積もるのが怖いという話だけなら警告で終わるが、善も同じように積もると言われると、話が反転する。一回の親切に効果がないように見えるのも、一滴だからにすぎない。「彼れ我に報い來らざるべしと想ひて」——返ってこないだろうと思う、という心理の描写も的確である。人が小さな悪を犯すときも、小さな善を怠るときも、理由はたいてい「これくらいでは何も変わらない」だ。変わらないのではなく、まだ満ちていないだけだという。
この章句が説くこと
水の点滴水瓶を盈たす悪を軽んずる勿れ積み重ね因果応報
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