法華経 / 安樂行品第十四(2)
「文殊師利,又菩薩摩訶薩不應於女人身,取能生欲想相,而為說法,亦不樂見。若入他家,不與小女、處女、寡女等共語。亦復不近五種不男之人、以為親厚,不獨入他家,若有因緣、須獨入時,但一心念佛。若為女人說法,不露齒笑,不現胸臆,乃至為法、猶不親厚,況復餘事。不樂畜年少弟子、沙彌、小兒,亦不樂與同師。常好坐禪,在於閑處、修攝其心。文殊師利,是名初親近處。」 「復次,菩薩摩訶薩觀一切法空,如實相,不顛倒,不動,不退,不轉,如虛空,無所有性。一切語言道斷,不生、不出、不起,無名、無相,實無所有,無量、無邊,無礙、無障,但以因緣有,從顛倒生,故說。常樂觀如是法相,是名菩薩摩訶薩第二親近處。」 爾時世尊欲重宣此義,而說偈言:
新字:「文殊師利,又菩薩摩訶薩不応於女人身,取能生欲想相,而為説法,亦不楽見。若入他家,不与小女、処女、寡女等共語。亦復不近五種不男之人、以為親厚,不独入他家,若有因縁、須独入時,但一心念仏。若為女人説法,不露歯笑,不現胸臆,乃至為法、猶不親厚,況復余事。不楽畜年少弟子、沙弥、小児,亦不楽与同師。常好坐禅,在於閑処、修摂其心。文殊師利,是名初親近処。」 「復次,菩薩摩訶薩観一切法空,如実相,不顛倒,不動,不退,不転,如虚空,無所有性。一切語言道断,不生、不出、不起,無名、無相,実無所有,無量、無辺,無礙、無障,但以因縁有,従顛倒生,故説。常楽観如是法相,是名菩薩摩訶薩第二親近処。」 爾時世尊欲重宣此義,而説偈言:
書き下し
「文殊師利よ、又、菩薩摩訶薩は、女人の身に於いて、能く欲想を生ずる相を取って、為に法を説くべからず、亦た見ることを楽わず。若し他の家に入らば、小女・処女・寡女等と共に語らず。亦復た五種の不男の人に近づいて、以て親厚と為さず。独り他の家に入らず、若し因縁有りて、独り入るを須いる時は、但だ一心に仏を念ず。若し女人の為に法を説かば、歯を露わして笑わず、胸臆を現わさず、乃至、法の為にすら、猶お親厚ならず、況んや復た余の事をや。年少の弟子・沙弥・小児を畜うことを楽わず、亦た同じ師を与にすることを楽わず。常に坐禅を好み、閑処に在りて、其の心を修摂す。文殊師利よ、是れを初の親近処と名づく。」 「復た次に、菩薩摩訶薩は、一切法は空にして、如実の相なり、顛倒せず、動ぜず、退せず、転ぜず、虚空の如く、所有の性無しと観ず。一切の語言の道断え、不生・不出・不起、無名・無相にして、実に所有無く、無量・無辺、無礙・無障なり。但だ因縁を以て有り、顛倒より生ずるが故に説くと。常に是の如き法相を観ずることを楽う、是れを菩薩摩訶薩の第二の親近処と名づく。」 爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
現代語訳
「文殊師利よ、また、菩薩は、女人の身について、欲情を起こさせるような姿に目を向けて法を説いてはならず、見ることを好んでもなりません。他人の家に入るときは、少女、未婚の女性、寡婦などと一緒に語り合いません。また五種類の男性としての機能を欠く人々に近づいて、親しくしてはなりません。一人で他人の家に入らず、もし事情があって一人で入らなければならないときは、ただ一心に仏を念じます。もし女性のために法を説くなら、歯を見せて笑わず、胸を見せず、法のためでさえ親しくなりすぎず、まして他のことでは言うまでもありません。年少の弟子、沙弥、幼い子を飼い置くことを好まず、同じ師に就くことも好みません。常に坐禅を好み、静かな所でその心を修め整えます。文殊師利よ、これを第一の親しみ近づく範囲と呼びます。」 「さらに、菩薩は、あらゆる法は空であり、真実の姿であり、顛倒せず、動かず、退かず、転じず、虚空のようで、実体としての性質がないと観ます。あらゆる言葉の道は断たれ、生じず、出ず、起こらず、名もなく相もなく、実に何も存在せず、量りがなく、果てがなく、妨げがなく、障りがありません。ただ縁によって存在し、顛倒から生じるので説くのです、と。常にこのような法のありようを観ることを好みます。これを菩薩の第二の親しみ近づく範囲と呼びます。」 そのとき世尊は、この意味を重ねて述べようとして、偈を説かれました。
解説

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法華経・安樂行品第十四(4)是れ則ち名づけて行処・近処と為す。この二処を以て、能く安楽に説く。又復た上・中・下の法、有為・無為、実・不実の法を行ぜず、 亦た是れ男、是れ女と分別せず、諸法を得ず、知らず見ず。是れ則ち名づけて菩薩の行処と為す。一切の諸法は、空にして所有無く、 常住有ること無く、亦た起滅無し。是れを智者の親近する所の処と名づく。顛倒して分別す、諸法の有無、是れ実、非実、是れ生、非生と。 閑処に在りて、其の心を修摂し、安住して動ぜざること、須弥山の如くせよ。一切の法を観ずるに、皆所有無く、猶お虚空の如く、堅固なること有ること無し。 不生不出、不動不退にして、常に一相に住す。是れを近処と名づく。若し比丘有りて、我が滅後に於いて、是の行処、及び親近処に入りて、 斯の経を説かん時、怯弱有ること無けん。菩薩有る時は、静室に入り、正憶念を以て、義に随いて法を観ず。禅定より起ちて、諸の国王、 王子・臣民・婆羅門等の為に、開化し演暢して、斯の経典を説かん。其の心安穏にして、怯弱有ること無けん。文殊師利、是れを菩薩、 初めの法に安住して、能く後世に於いて、法華経を説くと名づく。 「又、文殊師利、如来の滅後、末法の中に於いて、是の経を説かんと欲せば、応に安楽行に住すべし。若しは口に宣説し、若しは経を読まん時、人及び経典の過を説くことを楽わず。亦た諸余の法師を軽慢せず、他人の好悪・長短を説かず。声聞の人に於いても、亦た名を称して其の過悪を説かず、亦た名を称して其の美を讃歎せず、又た亦た怨嫌の心を生ぜず。善く是の如き安楽の心を修するが故に、諸の有ゆる聴く者、其の意に逆らわず、難問する所有らば、小乗の法を以て答えず、但だ大乗を以て為に解説し、一切種智を得しむ。」 爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
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法華経・安樂行品第十四(3)若し菩薩有りて、後の悪世に於いて、怖畏の心無く、是の経を説かんと欲せば、応に行処、及び親近処に入るべし。常に国王、及び国王の子、 大臣・官長、凶険の戯れする者、及び旃陀羅、外道・梵志を離れよ。亦た増上慢の人、小乗に貪著する三蔵の学者に親近せざれ。 破戒の比丘、名字の羅漢、及び比丘尼の戯笑を好む者、深く五欲に著して現の滅度を求むる、諸の優婆夷には、皆親近すること勿れ。 若し是の人等、好心を以て、菩薩の所に来たりて、仏道を聞かんが為ならば、菩薩は則ち無所畏の心を以て、希望を懐かずして、為に法を説け。 寡女・処女、及び諸の不男は、皆親近して、以て親厚と為すこと勿れ。亦た屠児・魁膾、畋猟・漁捕の、利の為に殺害するに親近すること莫れ。 肉を販ぎて自活し、女色を炫売する、是の如きの人には、皆親近すること勿れ。凶険の相撲、種種の嬉戯、諸の淫女等には、尽く親近すること勿れ。 独り屏処にて、女の為に法を説くこと莫れ。若し法を説く時は、戯笑すること無かれ。里に入りて乞食するには、一の比丘を将い、若し比丘無くば、一心に仏を念ぜよ。
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法華経・安樂行品第十四(1)爾の時、文殊師利法王子菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、「世尊、是の諸の菩薩は、甚だ稀有と為す。仏に敬順するが故に、大誓願を発して、後の悪世に於いて、是の法華経を護持し読説せん。世尊、菩薩摩訶薩は、後の悪世に於いて、云何が能く是の経を説かん。」仏、文殊師利に告げたまわく、「若し菩薩摩訶薩、後の悪世に於いて、是の経を説かんと欲せば、当に四法に安住すべし。一には、菩薩の行処及び親近処に安住して、能く衆生の為に是の経を演説す。」 「文殊師利よ、云何が菩薩摩訶薩の行処と名づくる。若し菩薩摩訶薩、忍辱の地に住し、柔和善順にして卒暴ならず、心も亦た驚かず、又復た法に於いて行ずる所無くして、諸法の如実の相を観じ、亦た行ぜず、分別せざる、是れを菩薩摩訶薩の行処と名づく。」 「云何が菩薩摩訶薩の親近処と名づくる。菩薩摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せず、諸の外道・梵志・尼犍子等、及び世俗の文筆、讃詠の外書を造る者、及び路伽耶陀・逆路伽耶陀の者に親近せず、亦た諸の凶戯、相叉・相撲、及び那羅等の種種の変現の戯れに親近せず、又、旃陀羅、及び猪・羊・鶏・狗を畜い、畋猟・漁捕する、諸の悪律儀の者に親近せず。是の如き人等、或る時に来たらば、則ち為に法を説いて、希望する所無し。又、声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せず、亦た問訊せず。若しは房中に於いても、若しは経行処に於いても、若しは講堂の中に在りても、共に住止せず。或る時に来たらば、宜しきに随って法を説き、希求する所無かれ。」
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法華経・安樂行品第十四(5)菩薩は常に楽って、安穏に法を説く。清浄の地に於いて、床座を施し、油を以て身に塗り、塵穢を澡浴し、新しき浄き衣を著て、内外倶に浄くして、 法座に安処して、問いに随いて為に説け。若し比丘、及び比丘尼、諸の優婆塞、及び優婆夷、国王・王子、群臣・士民有らば、 微妙の義を以て、和顔にして為に説き、若し難問有らば、義に随いて答え、因縁・譬喩もて、敷演し分別し、是の方便を以て、皆発心せしめ、 漸漸に増益して、仏道に入らしめよ。懶惰の意、及び懈怠の想を除き、諸の憂悩を離れ、慈心もて法を説き、昼夜に常に、無上道の教えを説け。 諸の因縁、無量の譬喩を以て、衆生に開示し、咸く歓喜せしめよ。衣服・臥具、飲食・医薬に、而も其の中に於いて、希望する所無く、 但だ一心に、説法の因縁を念じ、仏道を成ぜんことを願い、衆をして亦た爾らしめよ。是れ則ち大利、安楽の供養なり。我が滅度の後、若し比丘有りて、 能く斯の妙法華経を演説せば、心に嫉恚、諸の悩み障礙無く、亦た憂愁、及び罵詈する者無く、又た怖畏、刀杖を加うる等無く、 亦た擯出せらるること無けん。忍に安住するが故に、智者は是の如く、善く其の心を修め、能く安楽に住すること、我が上に説くが如し。其の人の功徳は、千万億劫に、 算数・譬喩もて、説くとも尽くすこと能わず。
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法華経・安樂行品第十四(6)「又、文殊師利菩薩摩訶薩、後の末世、法の滅せんと欲する時に、斯の経典を受持し、読誦せん者は、嫉妬・諂誑の心を懐くこと無く、亦た仏道を学ぶ者を軽罵して、其の長短を求むること勿れ。若しは比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の、声聞を求むる者、辟支仏を求むる者、菩薩道を求むる者には、之を悩まして、其をして疑悔せしむること無かれ。其の人に語りて言うべからず、『汝等は道を去ること甚だ遠し、終に一切種智を得ること能わず。所以は何ん。汝は是れ放逸の人にして、道に於いて懈怠なるが故なり』と。又た亦た諸法を戯論して、諍競する所有るべからず。当に一切衆生に於いて、大悲の想いを起こし、諸の如来に於いて、慈父の想いを起こし、諸の菩薩に於いて、大師の想いを起こし、十方の諸の大菩薩に於いて、常に応に深心もて、恭敬し礼拝すべし。一切衆生に於いて、平等に法を説き、法に順ずるを以ての故に、多からず少なからず、乃至、深く法を愛する者にも、亦た為に多く説かず。」 「文殊師利、是の菩薩摩訶薩、後の末世、法の滅せんと欲する時に、是の第三の安楽行を成就すること有らん者、是の法を説かん時、能く悩乱する者無く、好き同学を得て、共に是の経を読誦し、亦た大衆を得て来りて聴受せん。聴き已りて能く持ち、持ち已りて能く誦し、誦し已りて能く説き、説き已りて能く書き、若しは人をして書かしめ、経巻を供養し、恭敬し、尊重し、讃歎せん。」 爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、 若し是の経を説かんと欲せば、当に嫉・恚・慢、諂誑・邪偽の心を捨てて、常に質直の行を修すべし。人を軽蔑せず、亦た法を戯論せず、他をして疑悔せしめず、汝は仏を得ずと云うこと勿れ。 是の仏子、法を説くに、常に柔和にして能く忍び、一切を慈悲して、懈怠の心を生ぜず、十方の大菩薩は、衆を愍れむが故に道を行ず、応に恭敬の心を生ずべし、是れ則ち我が大師なり。 諸仏世尊に於いて、無上の父の想いを生じ、憍慢の心を破せば、説法に障礙無し。第三の法は是の如し、智者は応に守護すべし、一心に安楽に行ぜば、無量の衆に敬われん。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(6)文殊師利、有疾の菩薩は応に是の如く其の心を調伏して其の中に住せざるべし。亦復た調伏せざる心にも住せず。所以は何ん。若し調伏せざる心に住せば是れ愚人の法なり。若し調伏する心に住せば是れ声聞の法なり。是の故に菩薩は調伏と不調伏の心に住すべからず。此の二法を離るるは是れ菩薩の行なり。生死に在りて污行を為さず、涅槃に住して永く滅度せざるは、是れ菩薩の行なり。凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。垢の行に非ず、浄の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。魔の行を過ぐと雖も、而も衆魔を降すを現ずるは、是れ菩薩の行なり。一切智を求めて非時の求無きは、是れ菩薩の行なり。諸法の不生を観ずと雖も、而も正位に入らざるは、是れ菩薩の行なり。十二縁起を観ずと雖も、而も諸の邪見に入るは、是れ菩薩の行なり。一切衆生を摂すと雖も、而も愛著せざるは、是れ菩薩の行なり。遠離を楽しむと雖も、而も身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。三界を行ずと雖も、而も法性を壊せざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずと雖も、而も衆の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。無作を行ずと雖も、而も受身を現ずるは、是れ菩薩の行なり。無起を行ずと雖も、而も一切の善行を起こすは、是れ菩薩の行なり。六波羅蜜を行ずと雖も、而も遍く衆生の心・心数の法を知るは、是れ菩薩の行なり。