抱朴子外篇 / 自敘
洪祖父學無不涉,究測精微,文藝之高,一時莫倫。有經國之才,仁吳,歷宰海鹽。臨安。山陰三縣。入為吏部待郎,禦史中丞,廬陵太守,吏部尚書,太子少傅,中書,大鴻臚,侍中,光祿勛,輔吳將軍,封吳壽縣侯。洪父以孝友聞,行為士表,方冊所載,罔不窮覽。仕吳五官郎,中正,建城、南昌二縣令,中書郎,廷尉,平中護軍,會稽太守。未辭而晉軍順流,西境不守,博簡秉文經武之才,朝野之論,僉然推君。於是轉為五郡赴警。大都督給親兵五千,總統徵軍,戍遏疆場。天之所壞,人不能支,故主欽若,九有同賓,君以故官,赴除郎中。稍遷至大中大夫,歷位大中正,肥鄉令。縣戶二萬,舉州最治,德化尤異,恩洽刑清,野有頌聲,路無奸跡,不佃公田,越界如市。秋毫之贈,不入於門;紙筆之用,皆出於私財。刑厝而禁止,不言而化行。以疾去官,發詔見用為吳王郎中令。正色弼違,進可替不,舉善彈枉,軍國肅雍。遷邵陵太守,卒於官。
新字:洪祖父学無不渉,究測精微,文芸之高,一時莫倫。有経国之才,仁呉,歴宰海塩。臨安。山陰三県。入為吏部待郎,禦史中丞,廬陵太守,吏部尚書,太子少傅,中書,大鴻臚,侍中,光禄勛,輔呉将軍,封呉寿県侯。洪父以孝友聞,行為士表,方冊所載,罔不窮覧。仕呉五官郎,中正,建城、南昌二県令,中書郎,廷尉,平中護軍,会稽太守。未辞而晋軍順流,西境不守,博簡秉文経武之才,朝野之論,僉然推君。於是転為五郡赴警。大都督給親兵五千,総統徴軍,戍遏疆場。天之所壊,人不能支,故主欽若,九有同賓,君以故官,赴除郎中。稍遷至大中大夫,歴位大中正,肥郷令。県戸二万,舉州最治,徳化尤異,恩洽刑清,野有頌声,路無奸跡,不佃公田,越界如市。秋毫之贈,不入於門;紙筆之用,皆出於私財。刑厝而禁止,不言而化行。以疾去官,発詔見用為呉王郎中令。正色弼違,進可替不,舉善弾枉,軍国粛雍。遷邵陵太守,卒於官。
書き下し
洪の祖父は学び涉らざる無く、精微を究め測り、文芸の高きこと、一時に倫する莫し。経国の才有り、呉に仁え、歴て海塩・臨安・山陰の三県を宰む。入りて吏部待郎、御史中丞、廬陵太守、吏部尚書、太子少傅、中書、大鴻臚、侍中、光禄勲、輔呉将軍と為り、呉寿県侯に封ぜらる。洪の父は孝友を以て聞こえ、行いは士の表と為り、方冊に載する所、窮め覧ざる罔し。呉に仕えて五官郎、中正、建城・南昌二県の令、中書郎、廷尉、平中護軍、会稽太守たり。未だ辞せざるに晋軍は流れに順い、西境は守られず、博く秉文経武の才を簡ぶに、朝野の論は僉然として君を推す。是に於いて転じて五郡の赴警と為る。大都督は親兵五千を給し、徴軍を総統して、疆場を戍遏せしむ。天の壊す所は、人の支うる能わず。故に主は欽若し、九有は同賓す。君は故官を以て、除かれて郎中に赴く。稍遷りて大中大夫に至り、大中正、肥郷令を歴たり。県戸は二万、挙州の最治にして、徳化は尤も異に、恩は洽く刑は清く、野には頌声有り、路には奸跡無く、公田を佃せず、界を越ゆること市の如し。秋毫の贈りも、門に入らず。紙筆の用も、皆私財に出づ。刑は厝かれて禁は止み、言わずして化は行わる。疾を以て官を去り、詔を発して見用せられて呉王の郎中令と為る。色を正して違を弼け、進みては不を替え可し、善を挙げ枉を弾じ、軍国は粛雍たり。邵陵太守に遷り、官に卒す。
現代語訳
私の祖父は学ばないものがなく、精微を究め測り、文芸の高さは当時並ぶ者がなかった。国を経営する才があり、呉に仕え、海塩・臨安・山陰の三県を歴任して治めた。朝に入っては吏部待郎、御史中丞、廬陵太守、吏部尚書、太子少傅、中書、大鴻臚、侍中、光禄勲、輔呉将軍となり、呉寿県侯に封じられた。私の父は孝行と友愛で知られ、行いは士の模範となり、書物に載るものは読み尽くさないものはなかった。呉に仕えて五官郎、中正、建城・南昌二県の令、中書郎、廷尉、平中護軍、会稽太守となった。まだ辞めないうちに晋軍が長江を下り、西の国境は守れなくなった。広く文武を兼ねる人材を選ぶと、朝野の議論は一致して父を推した。そこで五郡の赴警に任じられ、大都督は親兵五千を与え、徴発された軍を総統して、国境を守らせた。天が壊すものは人が支えられない。こうして主君は降伏し、天下は同じ賓客となった。父は旧官のまま、任じられて郎中に就いた。次第に昇進して大中大夫に至り、大中正、肥郷令を歴任した。県は二万戸で、州内で最も治まり、徳化は特にすぐれ、恩は広く行き渡り刑は清く、野には頌える声があり、道には悪事の跡がなく、公田を耕さず、境を越えるのは市のようにたやすかった。わずかな贈り物も門に入れず、紙や筆も私財から出した。刑は置かれて禁は止み、言わずして教化が行われた。病で官を去り、詔により用いられて呉王の郎中令となった。顔色を正して過ちを正し、進んでは非を替え、善を挙げ曲がったものを弾劾し、軍も国も粛然として和らいだ。邵陵太守に遷り、在官のまま亡くなった。
解説
この章句が説くこと
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抱朴子外篇・自敘抱朴子は、姓は葛、名は洪、字は稚川。丹陽句容の人なり。其の先は葛天氏、蓋し古の天下を有つ者なり。後に降りて列国と為り、因りて以て姓と為せり。洪の曩祖は荊州刺史と為り、王莽の簒うや、君は国賊に事うるを恥じ、官を棄てて帰り、東郡太守翟義と共に兵を起こす。将に以て莽を誅せんとして、莽に敗られ、赦に遇いて禍を免れ、遂に疾と称して自ら世を絶つ。莽は君の宗強を以て、終に変有らんことを慮り、乃ち君を琅邪に徙す。君の子の浦廬は、兵を起こして以て光武を佐け、大功有り。光武祚を践むや、廬を以て車騎と為す。又た驃騎大将軍に遷し、下邳僮県侯に封じ、食邑五千戸なり。
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抱朴子外篇・自敘洪は少くして定志有り、決して身を出ださず、毎に巣許・子州・北人石戸・二姜・両袁・法真・子龍の伝を覧て、嘗て書を廃し席に前みて、其の為人を慕う。念うに五経を精治し、一部の子書を著し、後世をして其の文儒たるのみなるを知らしめんと。後に州郡及び車騎大将軍の辟あるも、皆な就かず。名を琅邪王丞相府に薦められ、昔義兵を起こすも、賊平らぐの後、了に名を修めて府に詣らず、功を論ずる主者に、永く賞報の冀い無し。晋王は天に応じ人に順い、乱を撥め正に反し、皇綱の絶えんとするを結び、宗廟の廃祀を修め、先朝の滞賞を念い、並びに報ゆる無くして以て来る者を勧む。洪は例に随いて彼に就き、庚寅、詔書もて爵関中侯を賜り、句容の邑二百戸を食む。竊かに謂えらく、賊を討ちて以て桑梓を救うは、労は録するに足らず、金紫の命は、其の始願に非ずと。本より遠くは魯連を慕い、近くは田疇を引き、上書して固く辞し、以て微志を遂げんと欲す。適たま大例有り、同じく許されず。昔、仲由は受くるに応じて賜を譲り、為善を沮む。醜虜未だ夷らがず、天下多事にして、国家は方に賞を明らかにし罰を必にして、以て憲典を彰かにせんと欲す。小子豈に敢えて苟くも区区たる懦志を潔くして、私通の大制を距まんや。故に遂に意を息めて恭しく詔命を承く。
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抱朴子外篇・自敘洪は、君の第三子なり。生まれ晩く、二親に嬌饒せられ、早くは督して書史に見えず。年十有三にして、慈父背かる。夙に庭訓を失い、飢寒困瘁し、躬ら耕穡を執り、星を承け草を履み、密勿として疇襲す。又た累しば兵火に遭い、先人の典籍は蕩尽す。農隙の暇に読む所無く、乃ち笈を負い徒歩して行き借る。又た一家に卒き、少しく全部の書を得れば、益ます功日を破り薪を伐りて以て紙筆に給し、田園を営む処に就きて、柴火を以て書を写す。此の故に坐して、早くは芸文に涉るを得ず。常に紙乏しく、写す所毎に、反覆して字有り、人は能く読むこと鮮し。
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抱朴子外篇・自敘事平らぎ、洪は戈を投じ甲を釈きて、径ちに洛陽に詣り、広く異書を尋ねんと欲し、了に戦功を論ぜず。竊かに魯連の聊城の金を受けざる、包胥の存楚の賞を納れざる、功を成して処らざるの義を慕う。正に上国の大乱に遇い、北道通ぜず。而して陳敏又た江東に反き、帰途は隔塞す。会たま故人の譙国の嵇君道有り、用いられて広州刺史と為る。乃ち表して洪を請いて参軍と為さしむ。楽しむ所に非ずと雖も、然れども利は地を南に避く可くして、故に黽勉して就く。遣わされて先行して兵を催し、而るに君道は後に害に遇い、遂に広州に停まる。頻りに節将に邀えられ用いらるるも、皆な就かず。永く惟うに、富貴は以て漸く得可くして頓に合う可からず、其の間は屑屑として、亦た以て人を労するに足る。且つ栄位勢利は、譬えば寄客の如く、既に常の物に非ず、又た其の去るも留む可からず。隆隆たる者は絶え、赫赫たる者は滅ぶ。春華の如く有りて、須臾にして凋落し、之を得るも喜ばず、之を失うも安んぞ悲しまん。悔吝は百端、憂懼して兢戦し、勝げて言う可からず。為す可からざるなり。且つ自ら度るに、性は篤く懶にして、才は至って短し。篤懶を以て短才を御せば、肩を翕め膝を屈して、風塵に趨走すと雖も、猶お必ず大致を名位に辦じて患累を免れざらん、況んや能わざるをや。
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抱朴子外篇・自敘洪は有識より以て将に老いんとするに逮ぶまで、口は人の非に及ばず、人の私を説かざるは、乃ち自然なり。僕豎に其の短き所、羞ずる所の事有りと雖も、以て之を戯れず。未だ嘗て人物の優劣を論評せず、人交の好悪を訶譴するを喜ばず。或いは尊長に逼り問われ、辞するも獲ざるに、其の人を論ずるや、則ち独り彼の体中の勝事を挙ぐるのみ。其の文を論ずるや、則ち其の得たる所の佳なる者を撮りて、其の病累を指摘せず。故に毀誉の怨み無し。貴人の時に或いは官吏民の甲乙は何如と問う。其の清高閑能なる者は、洪は其の快事を指説す。其の貪暴暗塞なる者は、対うるに偶たま識悉せずを以てす。洪は此に由りて頗る譏責せらるるも、顧護すること太だ多く、臧否を明弁して皂白を区分せしむる能わずとするも、洪は終に敢えて改めず。毎に世人の好んで人物を論ずる者の、比方倫匹、未だ必ずしも当允ならず、而して褒貶与奪、或いは準格を失うを見る。誉めらるる者は自ら己が分と謂い、未だ必ずしも徳を信ぜず。侵さるる者は則ち之を恨むこと骨に入り、血讐より劇し。洪は益ます以て戒めと為し、遂に復た士人に言及せず。門宗の子弟と雖も、其の称は両ながら皆な邦族に付し、軽々しく其の価数を為さず。
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抱朴子外篇・自敘至りて近人の、或いは其の長ずる所を恃みて人の短き所を軽んずるを患う。洪は忝くも儒者の末と為り、人と言う毎に、常に其の知る所を度りて之を論じ、強いて之を引きて彼の聞かざる所に造らしめず。学士と弁識する所有るに及びては、毎に綱領を挙ぐ。若し短きを惜しみて、心義を解し難きに値えば、但だ粗ぼ意の向く所を説き、以て発悟せしむるに足らしむるのみにして、理を苦しめて、彼をして率ね自ら還るを得ざらしめず。彼の静心なる者は、詳らかに存して之を思えば、則ち多く自ら覚りて之を得る者あり。与に言う可からずと度るものは、或いは問うこと有りと雖も、常に辞するに知らざるを以てし、以て辞を費やすの過ちを免る。洪は性深く官長を乾煩するを好まず。少きより長ずるに及ぶまで、曾て知己の抑えらるる者数人を救い、已むを得ずして、位に在る者に言う有るも、然れども其の人は皆洪の恤えるを知らず。其の非理に陥るを見るに忍びず、密かに自ら之を営むのみ。其の余は親至の者と雖も、事を在り勢を秉りて、洪と惜しむ無き者は、終に片言半字を以て、少しも之を累わさざるなり。
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