秘本玉くしげ / 上 武士に農作を
武士はおほくは町人などにくらぶれば、內內は花美とはいはれぬが如くなれども、それも世につれておのづから何事も花美になれる也。武士奢れば、金銀のほしきままにおのづから非義をも行ひ、又至りて困窮する時は、おのづから肝心の武備をも闕ことあり。よくよく心得べき事也。それに付て思ふに、當時役用のしげくもなき家中衆は、大小上下共に隨分多く農作をさせ、家內婦人は女工を出精せられて宜しかるべきにや。其中に輕き人人は、隨分なるべきだけは自身鋤鑊をとりて働き、又自身はさすがそれほどにはたらく事も成がたきほどの人人も、隨分かけまはりて指圖手傳等なして、惣体多くつくりをせらるるやうにあらまほしき也。さやうにするときは、さし當りてまづ內證用脚の助けにもなるべく、又武士の筋骨身体つよくなりて、第一武事の働きのためにも甚宜しかるべき也。
新字:武士はおほくは町人などにくらぶれば、内内は花美とはいはれぬが如くなれども、それも世につれておのづから何事も花美になれる也。武士奢れば、金銀のほしきままにおのづから非義をも行ひ、又至りて困窮する時は、おのづから肝心の武備をも闕ことあり。よくよく心得べき事也。それに付て思ふに、当時役用のしげくもなき家中衆は、大小上下共に随分多く農作をさせ、家内婦人は女工を出精せられて宜しかるべきにや。其中に軽き人人は、随分なるべきだけは自身鋤鑊をとりて働き、又自身はさすがそれほどにはたらく事も成がたきほどの人人も、随分かけまはりて指図手伝等なして、惣体多くつくりをせらるるやうにあらまほしき也。さやうにするときは、さし当りてまづ内証用脚の助けにもなるべく、又武士の筋骨身体つよくなりて、第一武事の働きのためにも甚宜しかるべき也。
書き下し
武士はおほくは町人などにくらぶれば、内内は花美とはいはれぬが如くなれども、それも世につれておのづから何事も花美になれる也。武士奢れば、金銀のほしきままにおのづから非義をも行ひ、又至りて困窮する時は、おのづから肝心の武備をも闕ことあり。よくよく心得べき事也。それに付て思ふに、当時役用のしげくもなき家中衆は、大小上下共に随分多く農作をさせ、家内婦人は女工を出精せられて宜しかるべきにや。其中に軽き人人は、随分なるべきだけは自身鋤鑊をとりて働き、又自身はさすがそれほどにはたらく事も成がたきほどの人人も、随分かけまはりて指図手伝等なして、惣体多くつくりをせらるるやうにあらまほしき也。さやうにするときは、さし当りてまづ内證用脚の助けにもなるべく、又武士の筋骨身体つよくなりて、第一武事の働きのためにも甚宜しかるべき也。
現代語訳
武士は多くは町人などに比べれば、内々は華美とは言えないようであるが、それも世につれて自然と何事も華美になったのである。武士が奢れば、金銀が欲しいままに自然と不義をも行い、またひどく困窮するときは、自然と肝心の武備をも欠くことがある。よくよく心得るべきことである。それについて思うに、今、役目の用事が繁くもない家中の衆は、大小上下ともに十分に多く農作をさせ、家内の婦人は女の手仕事に精を出されるのがよいのではないか。その中で身分の軽い人々は、できるだけ自身で鋤や鍬をとって働き、また自身ではさすがにそれほど働くこともできないほどの人々も、十分に駆け回って指図や手伝いなどをして、総じて多く耕作をされるようにありたいものである。そのようにするときは、さしあたってまず家計の費用の助けにもなるだろうし、また武士の筋骨・身体が強くなって、第一に武事の働きのためにもたいへんよいはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 筋骨を丈夫に惣体武士はつねづね身をおもおもしく安佚に持ならひては、身体柔弱になりて、肝心のはたらきの時大に苦しむべき事なれば、つねづね是を心がけて、筋骨を丈夫にあらせまほしきこと也。
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『秘本玉くしげ』上 定まれる禄惣体大名の御身分のあまりおもおもしきにつきて、御物入のおびただしきは勿論の事にて、又これによりて国政の妨となる事何につけてもおほし。そのわけは其所所に申すべし。抑下民は定まれる禄なければ、困窮に及ぶ者多きも道理なるが、武士は定まれる禄あれば、其分限相応にさへくらさば逼迫することは有まじき道理也。大名方もをりをり凶事水損などありて御収納の減ずる事もあれ共、これらは古へよりある事にて今始まりたることにあらざれば、常常その御手当はなくてかなはぬ事。又公儀の御手伝などに過分の御物入ある、是も定まりたる事なれば、常にその手当も有べき事なり。又凶年などに御領内の民をば随分丈夫に救ひ玉ひて、一人も飢寒に至らぬやうに取計ひ玉ふべきはづ、是も定まれる事也。さて御軍用のたくはへは申すにも及ばぬ事。
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『秘本玉くしげ』上 分限相応町人はこれによりて多くの利を得る、それだけ武家に損ある事は目に見えたれども、困窮の節など、さしあたりて便宜なるによりて、損をば知ながら皆申付る事也。然れども、これはみな富者のうけたまはりてする事なれば、ますます富を重ねさせて、武家には損あることなれば、なるべきだけは無用にせまほしき事也。人は何事も、その身の分際相応にするがよき也。分限に過て奢るがわろき事は申すに及ばず、又あまり降して軽くするも正道にはあらず。大名は大名相応に御身を持玉ふよし。質素がよきとて、下下の武士の如く御身を持玉ふべきにもあらず。次に其下にたつ武士も、又その相応相応がよし。百姓町人も、又その身上相応に身を持が宜しき也。すべて事を軽くするがよろしとても、又あまり身持かろがろしければ、それに応じておのづから心も万の行ひも、いやしく軽軽しくなりて、上にたつ人などは殊によからぬ事多きもの也。
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『秘本玉くしげ』上 勝手逼迫の因既に近来、諸大名の家家用脚足らず、多くは御勝手大に逼迫するは、全く此故也。昔は諸大名何れも年年に大さうなる軍役抔を勤められし時すら、今の如く逼迫する事は無して豊かなりしに、今の世は竟に軍役抔は勤め玉ふ事もなく、知行の物成は新田抔も出来て多くこそなりつれ、昔より減じたる事はなきに、却て御勝手の甚逼迫するはいかなる事ぞや。全く是世上次第に華美になり、いつとなく自然に御身分の余り重重敷成て、何に付ても御物入の昔よりは格別に多きが故也。然りとて、目に見えては先例と格別に變りたる事も有まじけれ共、只目に見えざる事共に大に變り来ぬる事多かるべし。扨、御身分の重重敷によりて次第に御物入の多くなれる訳は、先眼前には飲食衣服、扨は調度抔なれ共、是らは大名の御身上にては何程の事にもあらず。
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『秘本玉くしげ』上 半減はかなわぬさて今の世は、いづれの国にもせよ、仁徳深くおはします領主有て、右の子細をよく考へ弁へ玉ひ、百姓を不便に思召て、年貢を半減にも改めまほしく思召す御志ありても、是は決してかなひがたきこと也。其故は、戦国以来諸大名の武士をおびただしく扶持せらるること、おのづから定まりと成て久しく年代を経来りたる事なるに、其武士を過分に減ぜられては、公儀の御軍役も勤まりがたく、又あまたの武士の俄に難義に及ばるることにて、是を減ずること成がたければ、年貢も今更俄に減ずることは決してなりがたき御事也。
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『秘本玉くしげ』上 重々しすぎる身分惣体上中下の人人の身分の持やう、各その分際に相応のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相応のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ実は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡してこれを案ずるに、今の世の人人の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重重しきに過たり。まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重重しさは、上古の天子、中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、万事重重しき也。それに准じて中下の人人もみな同じ事にて、たとへば今の世に千石もとる武士は、昔一万石乃至四五万石を取し人ほどの重重しさ也。百石とる人は、むかし千石四五千石もとりしほどの人に同じ。かくのごとく上中下おしなべて身持殊の外に重重しき故に、それに准じて分際不相応に心持も重重敷身分の様にて、昔は大名の自身にせし程の働きをも、今は百石五十石位取程の人も、皆下なる者に云付働かせて、自身はせぬ事の様になれり。
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