碧巌録 / 第九十則
他古人答處。無許多事。他只借其意。而答般若光也。雖然恁麼。他意不在言句上。自是後人。去言句上作活計。不見盤山道。心月孤圓光吞萬象。光非照境境亦非存。光境俱亡復是何物。如今人但瞠眼喚作光。只去情上生解。空裏釘橛。古人道。汝等諸人。六根門頭晝夜放大光明。照破山河大地。不只止眼根放光。鼻舌身意亦皆放光也。到這裏直須打疊六根下無一星事。淨裸裸赤灑灑地。方見此話落處。雪竇正恁麼頌出。
新字:他古人答処。無許多事。他只借其意。而答般若光也。雖然恁麼。他意不在言句上。自是後人。去言句上作活計。不見盤山道。心月孤円光呑万象。光非照境境亦非存。光境倶亡復是何物。如今人但瞠眼喚作光。只去情上生解。空裏釘橛。古人道。汝等諸人。六根門頭昼夜放大光明。照破山河大地。不只止眼根放光。鼻舌身意亦皆放光也。到這裏直須打畳六根下無一星事。浄裸裸赤灑灑地。方見此話落処。雪竇正恁麼頌出。
書き下し
他の古人の答処、許多の事無し。他は只だ其の意を借りて般若の光に答ふるなり。然も恁麼なりと雖も、他の意は言句上に在らず。自ら是れ後人、言句上に去いて活計を作す。見ずや、盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境も亦た存するに非ず。光境俱に亡ず、復た是れ何物ぞ」と。如今の人、但だ眼を瞠りて喚んで光と作し、只だ情上に去いて解を生じ、空裏に橛を釘つ。古人道ふ、「汝等諸人、六根の門頭、昼夜に大光明を放ち、山河大地を照破す」と。只だ眼根の光を放つに止まらず、鼻舌身意も亦た皆な光を放つ。這裏に到つて、直に須らく六根を打畳して、下に一星の事も無く、浄裸裸、赤灑灑地にして、方に此の話の落処を見るべし。雪竇正に恁麼に頌出す。
現代語訳
古人の答えには、それほど多くの事はない。ただその意を借りて般若の光に答えたのである。そうではあるが、その意は言葉の上にはない。後の人が自分から言葉の上で暮らしを立てているのである。知らないか、盤山は言った。「心の月はただひとつ円く、その光は万象を呑む。光は対象を照らすのでもなく、対象もまた存在しない。光も対象もともに亡くなったら、それはいったい何か」。いまの人は、ただ目を見開いてそれを光と呼び、感情の上で理解を生じて、虚空に杭を打ち込んでいる。古人は言った。「君たち一人一人の六根の門は、昼も夜も大光明を放ち、山河大地を照らし破っている」。眼が光を放つだけではない。鼻も舌も身も意も、みな光を放っているのである。ここに至っては、六根をすっかり片づけて、その下に星屑ほどの事もなく、すっかり裸にむき出しになってこそ、この話の落ち着き処が見えるのである。雪竇はまさにそのように頌に出した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第八十六則雲門云く、「日裏に来往し、日裏に人を辨ず。忽然として半夜に日月燈光無からんに、曾て到る処は則ち故より是なり、未だ曾て到らざる処にて一件の物を取らば、還た取り得んや」と。参同契に云く、「明中に当たつて暗有り、暗相を以て覩ること勿れ。暗中に当たつて明有り、明相を以て遇ふこと勿れ」と。若し明暗を坐断せば、且く道へ、是れ箇の什麼ぞ。所以に道ふ、「心花発明して十方刹を照らす」と。盤山云く、「光は境を照らすに非ず、境も亦た存するに非ず。光境俱に忘ず、復た是れ何物ぞ」と。又た云く、「即ち此の見聞は見聞に非ず、余の声色の君に呈す可き無し。箇中若し了ずれば全く無事、体用何ぞ分と不分とを妨げん」と。但だ末後の一句を会取し了らば、却つて前頭に去いて遊戯せよ。畢竟裏頭に在つて活計を作さず。古人道ふ、「無住の本を以て一切法を立つ」と。這裏に去いて光影を弄し精魂を弄することを得ざれ。又た無事の会を作すことを得ざれ。古人道ふ、「寧ろ有見を起こすこと須弥山の如くなる可きも、無見を起こすこと芥子許りの如くなる可からず」と。二乗の人、多く偏へに此の見に墜つ。雪竇頌して云く、
-
『碧巌録』第九十則一片虚凝にして謂情を絶す、人天此より空生を見る。蚌は玄兔を含む深深の意、曾て禅家の与に戦争を作す。一片虚凝にして謂情を絶す。雪竇の一句、便ち頌し得て好し。自然に古人の意を見得す。六根湛然たり、是れ箇の什麼ぞ。只だ這の一片虚明凝寂、天上に去いて討ぬることを消ひず、也た別人に向つて求むることを必せず、自然に常光現前し、是の処壁立千仞なり。謂情とは即ち是れ言謂情塵を絶するなり。法眼の円成実性の頌に云く、「理極まつて情謂を忘ず、如何が諭へ斉しきことを得ん。到頭霜夜の月、任運に前渓に落つ。果熟して猿を兼ねて重く、山遥かにして路に迷ふに似たり。頭を挙ぐれば残照在り、元と是れ住居の西」と。所以に道ふ、「心は是れ根、法は是れ塵、両種猶ほ鏡上の痕の如し。塵垢尽くる時光始めて現じ、心法双び忘じて性即ち真なり」と。又た道ふ、「三間の茅屋従来住す、一道の神光万境閑なり。是非を把り来つて我を辨ずること莫れ、浮生の穿鑿相ひ関はらず」と。只だ此の頌も亦た一片虚凝にして謂情を絶することを見る。
-
『碧巌録』第八十六則自ら照らして孤明を列ね、君が為に一線を通ず。花謝して樹に影無し、看る時誰か見ざる。見るも見ず、倒に牛に騎つて仏殿に入る。自ら照らして孤明を列ぬとは、自家の脚跟下に本と此の一段の光明有り、只だ是れ尋常用ゐ得て暗し。所以に雲門大師、爾が与に此の光明を羅列して爾が面前に在らしむ。且く作麼生か是れ諸人の光明。厨庫三門。此れは是れ雲門の孤明を列ぬる処なり。盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万像を呑む」と。這箇便ち是れ真常独露なり。然る後に君が与に一線を通ず。亦た人の厨庫三門の処に著在せんことを怕る。厨庫三門は則ち且く従却す。朝花も亦た謝し、樹も亦た影無く、日も又た落ち、月も又た暗く、尽乾坤大地、黒漫漫地なり。諸人還た見るや。看る時誰か見ざる。且く道へ、是れ誰か見ざる。這裏に到つて、明中に当たつて暗有り、暗中に明有り、皆な前後の歩の如く自ら見る可し。雪竇道ふ、「見るも見ず」と。「好事も無きには如かず」を頌す。合に見るべくして又た見ず、合に明らかなるべくして又た明らかならず。倒に牛に騎つて仏殿に入る、黒漆桶裏に入り去るなり。須らく是れ爾自ら牛に騎つて仏殿に入り、看て道ふべし、是れ箇の什麼の道理ぞと。
-
『碧巌録』第九十則智門道ふ、「蚌、明月を含む」、「兔子、胎を懐む」と。都て中秋の意を用ふ。然も此の如くなりと雖も、古人の意は却つて蚌兔の上に在らず。他は是れ雲門会下の尊宿なり。一句に須らく三句を具すべし。所謂函蓋乾坤の句、截断衆流の句、随波逐浪の句なり。亦た安排することを消ひず、自然に恰好なり。便ち嶮処に去いて這の僧の話に答へ、略ぼ些子の鋒鋩を露はす、妨げず奇特なることを。然も恁麼なりと雖も、他の古人は終に光影を弄するに去かず、只だ爾が与に些かの路頭を指して人をして見せしむ。這の僧問ふ、「如何なるか是れ般若の体」。智門云く、「蚌、明月を含む」。漢江に蚌を出だす、蚌中に明珠有り。中秋に到つて月出づれば、蚌、水面に浮かび、口を開いて月光を含み、感じて珠を産む。合浦の珠是れなり。若し中秋に月有れば則ち珠多く、月無ければ則ち珠少なし。如何なるか是れ般若の用。門云く、「兔子、胎を懐む」。此の意も亦た異なること無し。兔は陰に属す。中秋に月生ずれば、口を開いて其の光を呑み、便ち乃ち胎を懐み、口中より児を産む。亦た是れ月有れば則ち多く、月無ければ則ち少なし。
-
『碧巌録』第六十二則看よ看よ、古岸何人か釣竿を把る。雲は冉冉、水は漫漫、明月蘆花君自ら看よ。若し雲門の語を識得せば、便ち雪竇の人の為にする処を見ん。他は雲門の示衆の後面の両句に向かつて、便ち爾が与に箇の注脚を下して云く、「看よ看よ」と。爾便ち瞠眉瞠眼の会を作さば、且く没交渉なることを得たり。古人道ふ、「霊光独り耀き、逈かに根塵を脱す。体真常を露はし、文字に拘はらず。心性は染無く、本自ら円成す。但だ妄縁を離るれば、即ち如如仏なり」と。若し只だ瞠眉努眼の処に向かつて坐殺せば、豈に能く根塵を脱得せんや。雪竇道ふ、「看よ看よ」と。雲門は古岸に在りて釣竿を把るが如く相似たり。雲は又冉冉、水は又漫漫、明月蘆花に映じ、蘆花明月に映ず。正当恁麼の時、且く道へ是れ何の境界ぞ。若し便ち直下に見得せば、前後只だ是れ一句に相似たり。瞠。
-
『碧巌録』第八十九則且く道へ、遍身是なる底が是か、通身是なる底が是か。爛泥に似たりと雖も却つて脱灑なり。如今の人、多く去いて情解を作して道ふ、「遍身底は是ならず、通身底は是なり」と。只管に他の古人の言句を咬み、古人の言下に於て死し了る。殊に知らず、古人の意は言句上に在らず、此れ皆な是れ事已むことを獲ずして之を用ゐることを。如今注脚を下し、格を立てて則ち道ふ、「若し此の公案を透得せば、便ち罷参の会を作す」と。手を以て渾身を摸り、灯籠露柱を摸りて、尽く通身の話の会を作す。若し恁麼に会せば、他の古人を壊ること少なからず。所以に道ふ、他は活句に参じて死句に参ぜずと。須らく是れ情塵意想を絶し、浄裸裸、赤灑灑地にして、方に大悲の話を見得す可し。見ずや、曹山、僧に問ふ、「物に応じて形を現ずること水中の月の如き時如何」。僧云く、「驢の井を覰るが如し」。山云く、「道ふことは即ち殺だ道へども、只だ八成を道ひ得たり」。僧云く、「和尚又た作麼生」。山云く、「井の驢を覷るが如し」。便ち此の意に同じ。爾若し語上に去いて見ば、総に道吾・雲巌の圏繢を出で得ず。雪竇は作家、更に句下に向つて死せず、直に頭上に向つて行く。頌に云く、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る