碧巌録 / 第八十七則
舉。雲門示眾云。藥病相治盡大地是藥那箇是自己治。
新字:舉。雲門示衆云。薬病相治尽大地是薬那箇是自己治。
書き下し
挙す。雲門、衆に示して云く、「薬病相ひ治す。尽大地是れ薬、那箇か是れ自己」。〔治〕
現代語訳
取り上げる。雲門が修行僧たちに示して言った。「薬と病とは互いに治め合う。大地じゅうがことごとく薬である。では、どれが自己なのか」。(末尾の「治」は字音の注の見出し字である。)
解説
本則は雲門文偃の示衆である。薬と病は互いに治め合うと言い、さらに大地じゅうが薬だとすれば、自己とはどれかと問う。仏の教えはみな病に応じて与えられる薬だが、すべてが薬になってしまえば、それを服する自己はどこにも立つ瀬がない。薬で治すべき病も、治される自分も見当たらなくなるのである。雲門はそこで自己を問う。外から与えられる処方や手法に囲まれていると、それを使う自分が何者かを見失うことがある。研修やノウハウを重ねるほど、それを生きる自己を問い直すことが欠かせない。
この章句が説くこと
公案自己薬病応機雲門尽大地
関連する章句
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『碧巌録』第八十七則雲門道ふ、「薬病相ひ治す。尽大地是れ薬、那箇か是れ自己」と。諸人還た出身の処有りや。二六時中、管取す壁立千仞なることを。徳山の棒は雨点の如く、臨済の喝は雷の奔るに似たることは則ち且く致く。釈迦は自ら釈迦、弥勒は自ら弥勒。未だ落処を知らざる者は、往往に喚んで薬病相投ずと作して会し去る。世尊四十九年、三百余会、機に応じて教を設く、皆な是れ病に応じて薬を与ふ。蜜果を将て苦葫蘆に換ふるが如くに相似たり。既に汝諸人の業根を淘ひ、灑灑落落たらしむ。尽大地是れ薬、爾什麼の処に向つてか嘴を插まん。若し嘴を插み得ば、爾に転身吐気の処有ることを許し、便ち親しく雲門を見ん。爾若し回顧躊躇せば、管取す嘴を插み得ざることを。雲門は爾が脚跟底に在り。薬病相ひ治すとは、也た只だ是れ尋常の語論なり。爾若し有に著せば、爾が与に無を説き、爾若し無に著せば、爾が与に有を説き、爾若し不有不無に著せば、爾が与に糞掃堆上に去いて丈六の金身を現じ、頭出頭没す。只だ如今の尽大地、森羅万象、乃至自己の如き、一時に是れ薬なり。恁麼の時に当たつて、却つて那箇をか喚んで是れ自己と作す。爾一向に喚んで薬と作さば、弥勒仏下生するも、也た未だ雲門を夢見ざること在り。畢竟如何。鉤頭の意を識取せよ、定盤星を認むること莫れ。
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『碧巌録』第八十七則尽大地是れ薬、古今何ぞ太だ錯れる。門を閉ぢて車を造らず、通途自ら寥廓たり。錯、錯。鼻孔遼天、亦た穿却す。尽大地是れ薬、古今何ぞ太だ錯れる。爾若し喚んで薬と作して会せば、古より今に至るまで、一時に錯り了れり。雪竇云く、「有般の漢、太梅の脚跟を截断することを解せず、只管に道ふ、程を貪ること太だ速しと」。他は雲門の脚跟を截つことを解す。雲門の這の一句、天下の人を惑乱するが為なり。雲門云く、「拄杖子是れ浪、爾に七縦八横を許す。尽大地是れ浪、爾が頭出頭没を看ん」と。門を閉ぢて車を造らず、通途自ら寥廓たり。雪竇道ふ、爾が為に一線の路を通ず。爾若し門を閉ぢて車を造り、門を出でて轍に合はば、箇の甚事をか済さん。我が這裏は門を閉ぢて也た車を造らず、門を出づれば自然に寥廓たり。他は這裏に略ぼ些子の縫罅を露はして人をして見せしめ、又た連忙に却つて道ふ、「錯、錯」と。前頭も也た錯、後頭も也た錯。誰か知らん、雪竇一線の路を開くも也た是れ錯なることを。既然に鼻孔遼天ならば、什麼と為てか也た穿却す。会せんと要すや。且く参ずること三十年。爾に拄杖子有らば、我れ爾に拄杖子を与へん。爾若し拄杖子無くんば、人に鼻孔を穿却せらるることを免れず。
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『碧巌録』第八十七則文殊一日、善財をして去いて薬を採らしめて云く、「是れ薬ならざる者を採り将ち来れ」。善財遍く採るに、是れ薬ならざるは無し。却り来つて白して云く、「是れ薬ならざる者無し」。文殊云く、「是れ薬なる者を採り将ち来れ」。善財乃ち一枝の草を拈じて文殊に度与す。文殊提起して衆に示して云く、「此の薬、亦た能く人を殺し、亦た能く人を活かす」。此の薬病相ひ治すの話、最も看難し。雲門室中に尋常用ゐて人に接す。金鵝長老、一日雪竇を訪ふ。他は是れ箇の作家、乃ち臨済下の尊宿なり。雪竇と此の薬病相治の話を論じ、一夜天光に至つて、方に能く善を尽くす。這裏に到つては、学解思量計較、総に使ひ著かず。雪竇後に頌有りて他を送りて道ふ、「薬病相ひ治すこと、見ること最も難し。万重の関鎖太だ端無し。金鵝の道者来りて相ひ訪ひ、学海の波瀾一夜にして乾く」と。雪竇後面に頌し得て最も工夫有り。他の意も亦た賓に在り亦た主に在り、自ら見る可し。頌に云く、
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『碧巌録』第八十七則垂示に云く、明眼の漢は窠臼没し。有る時は孤峯頂上に草漫漫、有る時は鬧市裏頭に赤灑灑。忽若し忿怒の那吒ならば、三頭六臂を現じ、忽若し日面月面ならば、普摂の慈光を放つ。一塵に於て一切身を現じ、類に随ふ人の為に泥に和し水に合す。忽若し向上の竅を撥著せば、仏眼も也た覻不著。設使ひ千聖出頭し来るも、也た須らく倒退三千里すべし。還た同じく得、同じく証する者有りや。試みに挙す、看よ。
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