碧巌録 / 第八十七則
雲門道。藥病相治。盡大地是藥那箇是自己。諸人還有出身處麼。二六時中。管取壁立千仞。德山棒如雨點。臨濟喝似雷奔。則且致。釋迦自釋迦。彌勒自彌勒。未知落處者。往往喚作藥病相投會去。世尊四十九年。三百餘會。應機設教。皆是應病與藥。如將蜜果換苦葫蘆相似。既淘汝諸人業根。令灑灑落落。盡大地是藥。爾向什麼處插嘴。若插得嘴。許爾有轉身吐氣處。便親見雲門。爾若回顧躊躇。管取插嘴不得。雲門在爾脚跟底。藥病相治。也只是尋常語論。爾若著有。與爾說無。爾若著無。與爾說有。爾若著不有不無。與爾去糞掃堆上。現丈六金身。頭出頭沒。只如今盡大地森羅萬象乃至自己。一時是藥。當恁麼時。却喚那箇是自己。爾一向喚作藥。彌勒佛下生。也未夢見雲門在。畢竟如何。識取鉤頭意。莫認定盤星。
新字:雲門道。薬病相治。尽大地是薬那箇是自己。諸人還有出身処麼。二六時中。管取壁立千仞。徳山棒如雨点。臨済喝似雷奔。則且致。釈迦自釈迦。弥勒自弥勒。未知落処者。往往喚作薬病相投会去。世尊四十九年。三百余会。応機設教。皆是応病与薬。如将蜜果換苦葫蘆相似。既淘汝諸人業根。令灑灑落落。尽大地是薬。爾向什麼処挿嘴。若挿得嘴。許爾有転身吐気処。便親見雲門。爾若回顧躊躇。管取挿嘴不得。雲門在爾脚跟底。薬病相治。也只是尋常語論。爾若著有。与爾説無。爾若著無。与爾説有。爾若著不有不無。与爾去糞掃堆上。現丈六金身。頭出頭没。只如今尽大地森羅万象乃至自己。一時是薬。当恁麼時。却喚那箇是自己。爾一向喚作薬。弥勒仏下生。也未夢見雲門在。畢竟如何。識取鉤頭意。莫認定盤星。
書き下し
雲門道ふ、「薬病相ひ治す。尽大地是れ薬、那箇か是れ自己」と。諸人還た出身の処有りや。二六時中、管取す壁立千仞なることを。徳山の棒は雨点の如く、臨済の喝は雷の奔るに似たることは則ち且く致く。釈迦は自ら釈迦、弥勒は自ら弥勒。未だ落処を知らざる者は、往往に喚んで薬病相投ずと作して会し去る。世尊四十九年、三百余会、機に応じて教を設く、皆な是れ病に応じて薬を与ふ。蜜果を将て苦葫蘆に換ふるが如くに相似たり。既に汝諸人の業根を淘ひ、灑灑落落たらしむ。尽大地是れ薬、爾什麼の処に向つてか嘴を插まん。若し嘴を插み得ば、爾に転身吐気の処有ることを許し、便ち親しく雲門を見ん。爾若し回顧躊躇せば、管取す嘴を插み得ざることを。雲門は爾が脚跟底に在り。薬病相ひ治すとは、也た只だ是れ尋常の語論なり。爾若し有に著せば、爾が与に無を説き、爾若し無に著せば、爾が与に有を説き、爾若し不有不無に著せば、爾が与に糞掃堆上に去いて丈六の金身を現じ、頭出頭没す。只だ如今の尽大地、森羅万象、乃至自己の如き、一時に是れ薬なり。恁麼の時に当たつて、却つて那箇をか喚んで是れ自己と作す。爾一向に喚んで薬と作さば、弥勒仏下生するも、也た未だ雲門を夢見ざること在り。畢竟如何。鉤頭の意を識取せよ、定盤星を認むること莫れ。
現代語訳
雲門は「薬と病とは互いに治め合う。大地じゅうがことごとく薬である。では、どれが自己なのか」と言った。君たちに身を抜け出る処はあるか。一日じゅう、きっと千仞の壁のようにそそり立っているのだ。徳山の棒が雨粒のように降り、臨済の喝が雷のようにとどろくことは、ひとまず置いておく。釈迦は釈迦、弥勒は弥勒である。落ち着き処を知らない者は、しばしば薬と病がぴたりと合うことだと理解してしまう。世尊は四十九年、三百余回の説法で、機に応じて教えを設けたが、みな病に応じて薬を与えたのである。甘い果物を苦いひょうたんと取り替えるようなものだ。君たちの業の根を洗い流して、さっぱりとさせてしまえば、大地じゅうが薬である。君はどこに口を挟むのか。もし口を挟めたなら、身を翻して息をつく処があると認め、すぐさま親しく雲門に会えるだろう。もし振り返ってためらうなら、きっと口を挟めない。雲門は君の足もとにいる。薬と病とが互いに治め合うというのも、ふだんの言葉にすぎない。君が有にとらわれれば無を説き、無にとらわれれば有を説き、有でも無でもないことにとらわれれば、ごみ溜めの上で一丈六尺の金色の仏身を現して、浮き沈みして見せる。いま大地じゅう、ありとあらゆるもの、そして自己までもが、一度に薬である。その時、どれを自己と呼ぶのか。君がひたすら薬と呼ぶなら、弥勒仏が下生しても、まだ雲門を夢にも見ないだろう。結局どうか。秤の鉤の意を知れ、目盛りの星を見誤るな。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第八十七則挙す。雲門、衆に示して云く、「薬病相ひ治す。尽大地是れ薬、那箇か是れ自己」。〔治〕
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『碧巌録』第八十七則尽大地是れ薬、古今何ぞ太だ錯れる。門を閉ぢて車を造らず、通途自ら寥廓たり。錯、錯。鼻孔遼天、亦た穿却す。尽大地是れ薬、古今何ぞ太だ錯れる。爾若し喚んで薬と作して会せば、古より今に至るまで、一時に錯り了れり。雪竇云く、「有般の漢、太梅の脚跟を截断することを解せず、只管に道ふ、程を貪ること太だ速しと」。他は雲門の脚跟を截つことを解す。雲門の這の一句、天下の人を惑乱するが為なり。雲門云く、「拄杖子是れ浪、爾に七縦八横を許す。尽大地是れ浪、爾が頭出頭没を看ん」と。門を閉ぢて車を造らず、通途自ら寥廓たり。雪竇道ふ、爾が為に一線の路を通ず。爾若し門を閉ぢて車を造り、門を出でて轍に合はば、箇の甚事をか済さん。我が這裏は門を閉ぢて也た車を造らず、門を出づれば自然に寥廓たり。他は這裏に略ぼ些子の縫罅を露はして人をして見せしめ、又た連忙に却つて道ふ、「錯、錯」と。前頭も也た錯、後頭も也た錯。誰か知らん、雪竇一線の路を開くも也た是れ錯なることを。既然に鼻孔遼天ならば、什麼と為てか也た穿却す。会せんと要すや。且く参ずること三十年。爾に拄杖子有らば、我れ爾に拄杖子を与へん。爾若し拄杖子無くんば、人に鼻孔を穿却せらるることを免れず。
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『碧巌録』第八十七則文殊一日、善財をして去いて薬を採らしめて云く、「是れ薬ならざる者を採り将ち来れ」。善財遍く採るに、是れ薬ならざるは無し。却り来つて白して云く、「是れ薬ならざる者無し」。文殊云く、「是れ薬なる者を採り将ち来れ」。善財乃ち一枝の草を拈じて文殊に度与す。文殊提起して衆に示して云く、「此の薬、亦た能く人を殺し、亦た能く人を活かす」。此の薬病相ひ治すの話、最も看難し。雲門室中に尋常用ゐて人に接す。金鵝長老、一日雪竇を訪ふ。他は是れ箇の作家、乃ち臨済下の尊宿なり。雪竇と此の薬病相治の話を論じ、一夜天光に至つて、方に能く善を尽くす。這裏に到つては、学解思量計較、総に使ひ著かず。雪竇後に頌有りて他を送りて道ふ、「薬病相ひ治すこと、見ること最も難し。万重の関鎖太だ端無し。金鵝の道者来りて相ひ訪ひ、学海の波瀾一夜にして乾く」と。雪竇後面に頌し得て最も工夫有り。他の意も亦た賓に在り亦た主に在り、自ら見る可し。頌に云く、
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『碧巌録』第二十八則若し是れ具眼の漢ならば、分明に験取せよ。且く道へ、作麼生か他を験さん。看よ雪竇頌出して云く、「祖仏従来人の為にせず、衲僧今古頭を競って走る。明鏡台に当たって列像殊なり、一一南に面して北斗を看よ。斗柄垂れて討ぬるに処無し、鼻孔を拈得して口を失却す」。釈迦老子出世して四十九年、未だ曾て一字をも説かず。光耀土より始まり、終に跋提河に至るまで、是の二の中間に於て、未だ嘗て一字をも説かず。恁麼に道ふ、且く道へ、是れ説くか是れ説かざるか。如今竜宮に満ち海蔵に盈つ。且く作麼生か是れ説かざる。豈に見ずや、修山主道ふ、「諸仏出世せずして、四十九年説く。達磨西来せずして、少林に妙訣有り」と。又道ふ、「諸仏曾て出世せず、亦一法の人に与ふる無し。但だ能く衆生の心を観じて、機に随って病に応じ、薬を与へ方を施す。遂に三乗十二分教有り」と。其の実、祖仏は古より今に至るまで、曾て人の為に説かず。只だ這の人の為にせざる、正に好し参詳するに。
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『碧巌録』第六十二則雲門道ふ、「汝若し相当し去らば、且く箇の入路を覓めよ。微塵の諸仏は爾が脚跟下に在り、三蔵の聖教は爾が舌頭上に在り。悟り去るに如かず。和尚子、妄想すること莫かれ。天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水、僧は是れ僧、俗は是れ俗」。良久して云く、「我が与に面前の案山を拈じ来たれ、看ん」。便ち僧有り出でて問うて云く、「学人、山は是れ山、水は是れ水と見る時如何」。門云く、「三門什麼としてか這裏より過ぐる」。爾が死却せんことを恐れて、遂に手を以て劃一劃して云く、「識得する時は是れ醍醐の上味、若し識不得ならば反つて毒薬と為る」と。所以に道ふ、「了了として了する時、了すべき無し。玄玄たる玄の処、直に須らく呵すべし」と。雪竇又拈じて云く、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す。壁上に掛在す。達磨九年、敢へて正眼に覷著せず。而今衲僧見んと要せば、脊を劈いて便ち棒せん」と。看よ他の本分の宗師、終に実法を将て人を繋綴せず。玄沙云く、「羅籠すれども住まることを肯ぜず、呼喚すれども頭を回らさず」と。恁麼なりと雖然も、也た是れ霊亀の尾を曳くなり。雪竇頌して云く、
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『碧巌録』第八十七則垂示に云く、明眼の漢は窠臼没し。有る時は孤峯頂上に草漫漫、有る時は鬧市裏頭に赤灑灑。忽若し忿怒の那吒ならば、三頭六臂を現じ、忽若し日面月面ならば、普摂の慈光を放つ。一塵に於て一切身を現じ、類に随ふ人の為に泥に和し水に合す。忽若し向上の竅を撥著せば、仏眼も也た覻不著。設使ひ千聖出頭し来るも、也た須らく倒退三千里すべし。還た同じく得、同じく証する者有りや。試みに挙す、看よ。
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