碧巌録 / 第八十則
此六識。教家立為正本。山河大地。日月星辰。因其所以生。來為先鋒。去為殿後。古人道。三界唯心。萬法唯識。若證佛地。以八識。轉為四智。教家謂之改名不改體。根塵識是三。前塵元不會分別。勝義根能發生識。識能顯色分別。即是第六意識。第七識末那識。能去執持世間一切影事。令人煩惱。不得自由自在。皆是第七識。到第八識。亦謂之阿賴耶識。亦謂之含藏識。含藏一切善惡種子。這僧知教意。故將來問趙州道。初生孩子。還具六識也無。初生孩兒。雖具六識眼能見耳能聞。然未曾分別六塵。好惡長短。是非得失。他恁麼時總不知。學道之人要復如嬰孩。榮辱功名。逆情順境。都動他不得。眼見色與盲等。耳聞聲與聾等。如癡似兀。其心不動。如須彌山。這箇是衲僧家。真實得力處。
新字:此六識。教家立為正本。山河大地。日月星辰。因其所以生。来為先鋒。去為殿後。古人道。三界唯心。万法唯識。若証仏地。以八識。転為四智。教家謂之改名不改体。根塵識是三。前塵元不会分別。勝義根能発生識。識能顕色分別。即是第六意識。第七識末那識。能去執持世間一切影事。令人煩悩。不得自由自在。皆是第七識。到第八識。亦謂之阿頼耶識。亦謂之含蔵識。含蔵一切善悪種子。這僧知教意。故将来問趙州道。初生孩子。還具六識也無。初生孩児。雖具六識眼能見耳能聞。然未曽分別六塵。好悪長短。是非得失。他恁麼時総不知。学道之人要復如嬰孩。栄辱功名。逆情順境。都動他不得。眼見色与盲等。耳聞声与聾等。如痴似兀。其心不動。如須弥山。這箇是衲僧家。真実得力処。
書き下し
此の六識、教家立てて正本と為す。山河大地、日月星辰、其れに因つて生ずる所以なり。来たれば先鋒と為り、去れば殿後と為る。古人道ふ、「三界唯心、万法唯識」と。若し仏地を証せば、八識を以て転じて四智と為す。教家之を名を改めて体を改めずと謂ふ。根・塵・識是れ三なり。前塵は元より分別することを会せず、勝義根能く識を発生し、識能く色を顕はして分別す、即ち是れ第六意識なり。第七識は末那識、能く世間一切の影事を去きて執持し、人をして煩悩せしめ、自由自在なることを得ざらしむ、皆是れ第七識なり。第八識に到りては、亦た之を阿頼耶識と謂ひ、亦た之を含蔵識と謂ふ。一切の善悪の種子を含蔵す。這の僧教意を知る、故に将ち来たつて趙州に問うて道ふ、「初生の孩子、還た六識を具するや也た無しや」と。初生の孩児は、六識を具して眼能く見、耳能く聞くと雖も、然も未だ曾て六塵の好悪長短、是非得失を分別せず。他恁麼の時総て知らず。学道の人は復た嬰孩の如くならんことを要す。栄辱功名、逆情順境、都て他を動かし得ず。眼に色を見て盲と等しく、耳に声を聞いて聾と等しく、痴の如く兀に似て、其の心動ぜざること須弥山の如し。這箇は是れ衲僧家の真実得力の処なり。
現代語訳
この六識を、教学の学者たちは根本として立てる。山河大地や日月星辰も、これによって生じるのである。来るときには先鋒となり、去るときにはしんがりとなる。古人は「三界はただ心、万法はただ識」と言った。もし仏の境地を証すれば、八識が転じて四智となる。教学の学者はこれを「名を改めて体を改めず」と言う。感官と対象と認識、これが三つである。目の前の対象そのものはもともと分別などしない。すぐれた感官が識を生じさせ、識が色かたちを現して分別する、これがすなわち第六の意識である。第七識は末那識で、世の中のあらゆる影のような事柄をつかんで離さず、人を煩悩させ、自由自在でいられなくする、それはみな第七識のしわざである。第八識に至っては、これを阿頼耶識とも含蔵識とも言い、一切の善悪の種子を蔵している。この僧は教学の趣旨を知っていたので、それを持ち出して趙州に「生まれたばかりの赤子にも六識は具わっていますか」と問うたのである。生まれたばかりの赤子は、六識を具えて目は見え耳は聞こえるけれども、まだ六つの対象の好き嫌い、長い短い、是非や得失を分別したことがない。そのときには何も知らないのである。道を学ぶ人は、もう一度赤子のようになることが必要である。栄誉も恥辱も功名も、意に逆らう境遇も順う境遇も、まったくその人を動かすことができない。目に色を見ても盲人と同じ、耳に声を聞いても聾者と同じで、愚か者のように、また切り株のようで、その心は須弥山のように動かない。これこそ禅僧が本当に力を得るところである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第八十則挙す。僧、趙州に問ふ、「初生の孩子、還た六識を具するや也た無しや」。趙州云く、「急水上に毬子を打す」。僧、復た投子に問ふ、「急水上に毬子を打す、意旨如何」。子云く、「念念流れを停めず」。
-
『碧巌録』第八十則然も恁麼なりと雖も、更に須らく窠窟を跳出して始めて得べし。豈に見ずや、教中に道ふ、「第八不動地の菩薩は、無功用智を以て、一微塵の中に於て大法輪を転ず。一切時の中に於て、行住坐臥、得失に拘はらず、任運に薩婆若海に流入す」と。衲僧家、這裏に到つて、亦た執著すべからず。但だ時に随つて自在にして、茶に遇うては茶を喫し、飯に遇うては飯を喫す。這箇向上の事は、箇の定の字を著くることも也た得ず、箇の不定の字を著くることも也た得ず。石室善道和尚、衆に示して云く、「汝見ずや、小児胎を出づる時、何ぞ曾て我れ教を看ることを会すと道はん。恁麼の時に当たつて、亦た仏性の義・無仏性の義有ることを知らず。長大なるに及至んで、便ち種種の知解を学び出だし来たつて、便ち我れ能くし我れ解すと道ふ。知らず是れ客塵煩悩なることを」と。十六観行の中、嬰児行を最と為す。哆哆啝啝たる時、学道の人の分別取捨の心を離るるに喩ふ。故に嬰児を讃歎す、況へて喩へて之を取るべし。若し嬰児是れ道なりと謂はば、今時の人錯り会す。
-
『碧巌録』第八十則「六識無功、一問を伸ぶ」。古人の学道、養うて這裏に到る、之を無功の功と謂ふ。嬰児と一般なり。眼耳鼻舌身意有りと雖も、而も六塵を分別すること能はず、蓋し無功用なり。既に這般の田地に到れば、便乃ち竜を降し虎を伏し、坐脱立亡す。如今の人但だ目前の万境を将て一時に歇却せよ、何ぞ必ずしも八地以上にして方に乃ち是の如くならん。無功用の処なりと雖も、依旧として山は是れ山、水は是れ水。雪竇前面に頌して云く、「活中に眼有るも還た死に同じ、薬忌何ぞ須ひん作家を鑒みることを」と。蓋し趙州・投子是れ作家なるが為に、故に云ふ、「作家曾て共に来端を辨ず。茫茫たる急水に毬子を打す」と。投子道ふ、「念念流れを停めず」と。諸人還た落処を知るや。雪竇末後に人をして自ら眼を著けて看しむ。是の故に云ふ、「落処停まらず誰か看ることを解せん」と。此れは是れ雪竇の活句なり。且く道へ、落ちて什麼の処にか在る。
-
『碧巌録』第八十則古人道ふ、「衲被頭を蒙うて万事休す、此の時山僧都て会せず」と。若し能く此の如くならば、方に少分の相応有らん。然も此の如くなりと雖も、争奈せん一点も也た他を瞞じ得ざることを。山は依旧として是れ山、水は依旧として是れ水。造作無く、縁慮無し。日月の太虚に運りて未だ嘗て暫くも止まざるが如く、亦た我に許多の名相有りと道はず。天の普く蓋ふが如く、地の普く擎ぐるに似たり。無心なるが為の故に、所以に万物を長養す。亦た我に許多の功行有りと道はず。天地は無心なるが為の故に、所以に長久なり。若し心有らば則ち限斉有り。得道の人も亦復た是の如し。無功用の中に於て功用を施し、一切の違情順境、皆慈心を以て摂受す。這裏に到つて、古人尚自ほ呵責して道ふ、「了了了たる時了ずべき無し、玄玄玄なる処直に須らく呵すべし」と。又た道ふ、「事事通じ物物明らかなり、達者之を聞いて暗裏に驚く」と。又た云ふ、「聖に入り凡を超えて声を作さず、臥竜長に碧潭の清きを怖る。人生若し長く此の如くなるを得ば、大地那ぞ能く一名を留めん」と。
-
『碧巌録』第九則殊に知らず、祖師未だ来らざる時、那裏にか天を喚んで地と作し、山を喚んで水と作し来る。什麼としてか祖師更に西来する。諸方陞堂入室して、箇の什麼をか説く。尽く是れ情識計較なりや。若し是れ情識計較ならば、情尽きて方に見得透せん。若し見得透せば、旧に依つて天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水。古人道ふ、「心は是れ根、法は是れ塵、両種猶ほ鏡上の痕の如し」。這箇の田地に到つて、自然に浄裸裸赤灑灑たり。若し極則の理論ならば、也た未だ是れ安穏の処にあらざること在り。這裏に到つて、人多く錯り会して、無事界裏に打在して、仏も也た礼せず、香も也た焼かず。似ることは則ち也た似たるも、争奈せん脱体是ならざることを。纔かに問著すれば、却つて是れ極則に相似たるも、纔かに拶著すれば、七花八裂して、空腹高心の処に坐在す。臘月三十日に到るに及んで、手を換へて胸を搥つも、已に是れ遅し。
-
『碧巌録』第八十則雪竇頌して云く、駛。六識無功、一問を伸ぶ、作家曾て共に来端を辨ず。茫茫たる急水に毬子を打す、落処停まらず誰か看ることを解せん。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る