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碧巌録 / 第八十則

然雖恁麼。更須跳出窠窟始得。豈不見。教中道。第八不動地菩薩。以無功用智。於一微塵中。轉大法輪。於一切時中。行住坐臥。不拘得失。任運流入薩婆若海。衲僧家。到這裏。亦不可執著。但隨時自在。遇茶喫茶遇飯喫飯。這箇向上事著箇定字也不得。著箇不定字也不得。石室善道和尚示眾云。汝不見小兒出胎時。何曾道我會看教。當恁麼時。亦不知有佛性義。無佛性義。及至長大。便學種種知解出來。便道我能我解。不知是客塵煩惱。十六觀行中。嬰兒行為最。哆哆啝啝時。喻學道之人離分別取捨心。故讚歎嬰兒。可況喻取之。若謂嬰兒是道。今時人錯會。

新字:然雖恁麼。更須跳出窠窟始得。豈不見。教中道。第八不動地菩薩。以無功用智。於一微塵中。転大法輪。於一切時中。行住坐臥。不拘得失。任運流入薩婆若海。衲僧家。到這裏。亦不可執著。但随時自在。遇茶喫茶遇飯喫飯。這箇向上事著箇定字也不得。著箇不定字也不得。石室善道和尚示衆云。汝不見小児出胎時。何曽道我会看教。当恁麼時。亦不知有仏性義。無仏性義。及至長大。便学種種知解出来。便道我能我解。不知是客塵煩悩。十六観行中。嬰児行為最。哆哆啝啝時。喩学道之人離分別取捨心。故讃嘆嬰児。可況喩取之。若謂嬰児是道。今時人錯会。

書き下し

然も恁麼なりと雖も、更に須らく窠窟を跳出して始めて得べし。豈に見ずや、教中に道ふ、「第八不動地の菩薩は、無功用智を以て、一微塵の中に於て大法輪を転ず。一切時の中に於て、行住坐臥、得失に拘はらず、任運に薩婆若海に流入す」と。衲僧家、這裏に到つて、亦た執著すべからず。但だ時に随つて自在にして、茶に遇うては茶を喫し、飯に遇うては飯を喫す。這箇向上の事は、箇の定の字を著くることも也た得ず、箇の不定の字を著くることも也た得ず。石室善道和尚、衆に示して云く、「汝見ずや、小児胎を出づる時、何ぞ曾て我れ教を看ることを会すと道はん。恁麼の時に当たつて、亦た仏性の義・無仏性の義有ることを知らず。長大なるに及至んで、便ち種種の知解を学び出だし来たつて、便ち我れ能くし我れ解すと道ふ。知らず是れ客塵煩悩なることを」と。十六観行の中、嬰児行を最と為す。哆哆啝啝たる時、学道の人の分別取捨の心を離るるに喩ふ。故に嬰児を讃歎す、況へて喩へて之を取るべし。若し嬰児是れ道なりと謂はば、今時の人錯り会す。

現代語訳

しかしそうであっても、さらにその巣穴から跳び出してこそよいのである。経典の中にこう言うのを見たことがないか。「第八の不動地の菩薩は、功を用いない智慧によって、一つの微塵の中で大いなる法輪を転じる。あらゆる時に、行くも止まるも坐るも臥すも、得失にとらわれず、おのずから一切智の海に流れ込む」と。禅僧はここに至っても、なおそれに執着してはならない。ただ時に従って自在であり、茶に出会えば茶を飲み、飯に出会えば飯を食べるだけである。この向上の事柄には、「定」という字を付けることもできず、「不定」という字を付けることもできない。石室善道和尚は修行僧たちに示して言った。「おまえたちは見たことがないか。幼子が母の胎を出るとき、わたしは経典を読めるなどと言ったことがあろうか。そのときには、仏性があるという説も仏性がないという説も知らない。成長するにつれて、さまざまな知識や理解を学んで、わたしはできる、わたしはわかると言うようになる。それが外から来た塵のような煩悩であることを知らないのだ」と。十六観行の中では嬰児行が最上とされる。赤子がばぶばぶと声を出しているときのありさまを、道を学ぶ人が分別や取捨の心を離れていることにたとえたのである。だから赤子を讃えるのであり、たとえとして取るべきである。もし赤子そのものが道だと言うなら、今の人は取り違えている。

解説

圜悟の評唱の中ほどで、赤子のような無心の境地にさえ安住するなと戒めている。経典の不動地の菩薩を引きつつ、禅僧はそこにも執着せず、茶が来れば茶を飲み飯が来れば飯を食う自在さを求められるという。石室善道の示衆では、人は成長とともに知識を覚えて「わかった」と言い出すが、それこそ外から来た煩悩だと語られる。ただし圜悟は、赤子はあくまでたとえであり、赤子そのものが道だと取るのは誤りだと念を押す。知識を積んだ人ほど「わかったつもり」に陥りやすい。素直さに立ち返ることと幼さに戻ることは別物だと心得たい。

この章句が説くこと

嬰児行石室善道自在知解執着平常心

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