碧巌録 / 第六十八則
雙收雙放若為宗 騎虎由來要絕功笑罷不知何處去只應千古動悲風雙收雙放若為宗。放行互為賓主。仰山云。汝名什麼。聖云。我名惠寂是雙放。仰山云。惠寂是我。聖云。我名惠然是雙收。其實是互換之機。收則大家收。放則大家放。雪竇一時頌盡了也。他意道。若不放收。若不互換。爾是爾我是我。都來只四箇字。因甚却於裏頭。出沒卷舒。古人道。爾若立我便坐。爾若坐我便立。若也同坐同立。二俱瞎漢。此是雙收雙放。可以為宗要。騎虎由來要絕功。有如此之高風最上之機要。要騎便騎。要下便下。據虎頭亦得。收虎尾亦得。三聖仰山。二俱有此之風。笑罷不知何處去。且道他笑箇什麼。直得清風凜凜為什麼。末後却道。只應千古動悲風。也是死而不弔。一時與爾注解了也。爭柰天下人啗啄不入。不知落處。縱是山僧。也不知落處。諸人還知麼。
新字:双収双放若為宗 騎虎由来要絶功笑罷不知何処去只応千古動悲風双収双放若為宗。放行互為賓主。仰山云。汝名什麼。聖云。我名恵寂是双放。仰山云。恵寂是我。聖云。我名恵然是双収。其実是互換之機。収則大家収。放則大家放。雪竇一時頌尽了也。他意道。若不放収。若不互換。爾是爾我是我。都来只四箇字。因甚却於裏頭。出没巻舒。古人道。爾若立我便坐。爾若坐我便立。若也同坐同立。二倶瞎漢。此是双収双放。可以為宗要。騎虎由来要絶功。有如此之高風最上之機要。要騎便騎。要下便下。拠虎頭亦得。収虎尾亦得。三聖仰山。二倶有此之風。笑罷不知何処去。且道他笑箇什麼。直得清風凜凜為什麼。末後却道。只応千古動悲風。也是死而不弔。一時与爾注解了也。争柰天下人啗啄不入。不知落処。縦是山僧。也不知落処。諸人還知麼。
書き下し
双収双放若為か宗とせん、虎に騎ることは由来絶功を要す。笑ひ罷んで何処にか去るを知らず、只だ応に千古悲風を動かすべし。「双収双放若為か宗とせん」。放行して互ひに賓主と為る。仰山云く、「汝の名は什麼ぞ」。聖云く、「我が名は恵寂」、是れ双放なり。仰山云く、「恵寂は是れ我」。聖云く、「我が名は恵然」、是れ双収なり。其の実は是れ互換の機なり。収むれば則ち大家収め、放てば則ち大家放つ。雪竇一時に頌し尽くせり。他の意に道ふ、若し放収せず、若し互換せずんば、爾は是れ爾、我は是れ我。都来只だ四箇の字なるに、甚に因りてか却つて裏頭に於いて出没巻舒する。古人道ふ、「爾若し立てば我便ち坐し、爾若し坐せば我便ち立つ。若也し同じく坐し同じく立たば、二り倶に瞎漢なり」と。此れは是れ双収双放、以て宗要と為すべし。「虎に騎ることは由来絶功を要す」、此の如きの高風、最上の機要有り。騎らんと要すれば便ち騎り、下りんと要すれば便ち下る。虎頭に拠るも亦得、虎尾を収むるも亦得。三聖・仰山、二り倶に此の風有り。「笑ひ罷んで何処にか去るを知らず」、且く道へ他は箇の什麼をか笑ふ。直に清風凜凜たることを得るは什麼の為ぞ。末後に却つて道ふ、「只だ応に千古悲風を動かすべし」と。也た是れ死して弔はず。一時に爾が与に注解し了れり。争奈せん天下の人啗啄不入にして、落処を知らざることを。縦ひ是れ山僧も也た落処を知らず。諸人還た知るや。
現代語訳
ともに収めともに放つ、それを宗とするとはどういうことか。虎に乗るには、もとより並外れた手腕が要る。笑い終えてどこへ去ったか知らない。ただ千古に悲しい風を起こすばかりだ。「ともに収めともに放つ、それを宗とするとはどういうことか」。放ってやって互いに主客となる。仰山「お前の名は何か」。三聖「私の名は恵寂です」、これは双放である。仰山「恵寂は私だ」。三聖「私の名は恵然です」、これは双収である。実は互いに入れ替わる機なのだ。収めるときは双方とも収め、放つときは双方とも放つ。雪竇は一度に頌し尽くした。彼の意はこうだ。もし放ったり収めたりせず、入れ替わらなければ、お前はお前、私は私である。もともとただ四つの字にすぎないのに、なぜその中で現れたり隠れたり、巻いたり広げたりするのか。古人は言う。「お前が立てば私は座り、お前が座れば私は立つ。もし一緒に座り一緒に立つなら、二人とも盲目の男だ」と。これが双収双放であり、宗要とすべきものである。「虎に乗るには、もとより並外れた手腕が要る」。このような高い風格、最上の機要がある。乗ろうと思えば乗り、下りようと思えば下りる。虎の頭に拠るのもよく、虎の尾を収めるのもよい。三聖と仰山は、二人ともこの風格を持っている。「笑い終えてどこへ去ったか知らない」。さて言ってみよ、彼は何を笑ったのか。ただちに清風が凛々と吹くのは何のためか。最後にかえって「ただ千古に悲しい風を起こすばかりだ」と言う。これもまた、死んでも弔わないということだ。一度にあなたのために注解してしまった。だが、天下の人が歯も立たず、落ち着き所を知らないのをどうしようもない。たとえ私でも落ち着き所を知らない。皆さんはわかるか。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第六十八則只だ仰山の三聖に「汝の名は什麼ぞ」と問ふが如き、他は其の名を知らざるべからず。何が故にか更に恁麼に問ふ。所以に作家は人を験して子細を知り得んことを要す。只だ等閑に似て、問うて云く、「汝の名は什麼ぞ」と。更に計較無しと道ふ。何が故にか三聖は恵然と云はずして、却つて恵寂と道ふ。看よ他の具眼の漢、自然に同じからず。三聖の恁麼なる、又是れ顛にあらず。一向に旗を攙り鼓を奪ふ。意は仰山の語外に在り。此の語は常情に堕せず、摸索を為し難し。這般の漢の手段、却つて人を活かし得。所以に道ふ、「他は活句に参じて死句に参ぜず」と。若し常情に順はば、則ち人を歇め得ず。看よ他の古人の道を念ふこと此の如く、精神を用ゐ尽くして始めて能く大悟す。既に悟り了りて用ゐる時は、還た未だ悟らざる時の人と相似たり。随分の一言半句も常情に落つることを得ず。三聖は他の仰山の落処を知りて、便ち他に向かつて道ふ、「我が名は恵寂」と。仰山は三聖を収めんと要するに、三聖倒つて仰山を収む。仰山只だ身に就いて打劫して道ふことを得たり、「恵寂は是れ我」と。是れ放行の処なり。三聖云く、「我が名は恵然」と。亦是れ放行なり。所以に雪竇後面に頌して云く、「双収双放若為か宗とせん」と。只だ一句の内に一時に頌し了れり。仰山呵呵大笑す。也た権有り実有り、也た照有り用有り。他の八面玲瓏なるが為に、所以に用処大自在を得。這箇の笑は巌頭の笑と同じからず。巌頭の笑には毒薬有り。這箇の笑は千古万古、清風凜凜地なり。雪竇頌して云く、
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『碧巌録』第六十八則挙す。仰山、三聖に問ふ、「汝の名は什麼ぞ」。聖云く、「恵寂」。仰山云く、「恵寂は是れ我」。聖云く、「我が名は恵然」。仰山呵呵大笑す。
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『碧巌録』第七十五則看よ他の作家の相見ゆること、始終賓主分明にして、断じて能く続く。其の実は也た只だ是れ互換の機なり。他は這裏に到つて、亦た箇の互換の処有りとも道はず。自ら是れ他の古人、情塵意想を絶して、彼此作家なり。亦た得有り失有りとも道はず。是れ一期間の語言なりと雖も、両個活鱍鱍地にして、都て血脈針線有り。若し能く此に於て見得せば、亦乃ち十二時中に向かつて歴歴分明ならん。其の僧便ち出づるは是れ双放、已下は是れ双収、之を互換と謂ふ。雪竇正に恁麼地に頌出す。
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『碧巌録』第七十則却つて請ふ和尚道へ、虎頭角を生じて荒草を出づ。十洲春尽きて花凋残す、珊瑚樹林日杲杲たり。此の三人の答処、各各同じからず。也た壁立千仞なる有り、也た照用同時なる有り、也た自救不了なる有り。「却つて請ふ和尚道へ」、雪竇便ち此の一句の中に向かつて機を呈し了れり。更に中に就いて軽軽に拶して、人をして見易からしめて云く、「虎頭角を生じて荒草を出づ」と。溈山の答処、一に猛虎の頭上に角を安くに似たり。什麼の近傍の処か有らん。見ずや、僧、羅山に問ふ、「同生不同死の時如何」。山云く、「牛の角無きが如し」。僧云く、「同生亦同死の時如何」。山云く、「虎の角を戴くが如し」と。雪竇只だ一句に頌し了れり。他は転変の余才有りて、更に云く、「十洲春尽きて花凋残す」と。海上に三山十洲有り、百年を以て一春と為す。雪竇の語は風措を帯び、宛転盤礴たり。春尽くるの際、百千万株の花一時に凋残し、独り珊瑚樹林有りて凋落することを解せず、大陽と相奪ひて、其の光交映す。正当恁麼の時、妨げず奇特なることを。雪竇此れを用ゐて、他の「却つて請ふ和尚道へ」を明かす。
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『碧巌録』第八十五則古人暫時間の拈弄、豈に勝負得失是非等の見有らんや。桐峯は臨済に見ゆ。其の時深山に在りて庵を卓つ。這の僧、彼の中に到つて遂に問ふ、「這裏にて忽ち大虫に逢ふ時、又た作麼生」。峯便ち虎声を作す。也た好し、事に就いて便ち行ず。這の僧も也た錯を将て錯に就くことを会して、便ち怕るる勢を作す。庵主呵呵大笑す。僧云く、「這の老賊」。峯云く、「老僧を争奈何せん」。是なることは則ち是なれども、二俱に了ぜず、千古の下、人の点検に遭ふ。所以に雪竇道ふ、「是なることは則ち是なれども、両箇の悪賊、只だ耳を掩ひて鈴を偷むことを解するのみ」と。他の二人皆な是れ賊なりと雖も、機に当たつて却つて用ゐず、所以に耳を掩ひて鈴を偷む。此の二老、百万の軍陣を排べて、却つて只だ掃箒を闘はすが如し。若し此の事を論ぜば、須らく是れ人を殺して眼を眨かざる底の手脚なるべし。若し一向に縦して擒へず、一向に殺して活かさずんば、人の怪笑に遭ふことを免れず。然も是の如くなりと雖も、他の古人も亦た許多の事無し。看よ他の両箇の恁麼なる、総に是れ機を見て作す。五祖道ふ、「神通遊戯三昧、慧炬三昧、荘厳王三昧」と。自ら是れ後人脚跟地に点かず、只だ去いて古人を点検して便ち道ふ、得有り失有りと。有る底は道ふ、分明に是れ庵主節を落すと。且く没交渉なることを得たり。雪竇道ふ、他の二人相見するに皆な放過の処有りと。其の僧道ふ、「這裏にて忽ち大虫に逢ふ時、又た作麼生」と。峯便ち虎声を作す。此れ便ち是れ放過の処なり。乃至「老僧を争奈何せん」と道ふ、此れも亦た是れ放過の処なり。著著第二機に落在す。雪竇道ふ、用ゐんと要せば便ち用ゐよと。如今の人、恁麼に道ふを聞いて、便ち道ふ、当時好し与に令を行ずべしと。且く盲枷瞎棒すること莫れ。只だ徳山の入門便棒、臨済の入門便喝の如き、且く道へ、古人の意如何。雪竇後面に便ち只だ此の如く頌出す。且く道へ、畢竟作麼生か耳を掩ひて鈴を偷むことを免れ得去らん。頌に云く、
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『碧巌録』第十則人の虎頭に騎るが如きは、須らく是れ手中に刀有り、兼ねて転変有つて始めて得べし。雪竇道ふ、「若し恁麼ならば、二り倶に瞎漢と成る」。雪竇は天に倚る長剣に似て、凜凜として全威あり。若し雪竇の意を会得せば、自然に千処万処一時に会せん。便ち見ん、他の雪竇の後面の頌は、只だ是れ注脚を下すのみなることを。又道ふ、「誰か瞎漢」。且く道へ、是れ賓家瞎か、是れ主家瞎か、是れ賓主一時に瞎なること莫しや。「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」、此れは是れ活処なり。雪竇一時に頌し了れり。什麼としてか却つて道ふ、「拈じ来つて天下に人の与に看せしむ」と。且く道へ、作麼生か看ん。眼を開くも也た著し、眼を合するも也た著す。還つて人の免れ得る有りや。
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