碧巌録 / 第六十二則
有者。只認箇昭昭靈靈為寶。只是不得其用。亦不得其妙。所以動轉不得。開撥不行。古人道。窮則變。變則通。拈燈籠向佛殿裏。若是常情可測度得。將三門來燈籠上。還測度得麼。雲門與爾一時。打破情識意想得失是非了也。雪竇道。我愛韶陽新定機。一生與人抽釘拔楔。又云。曲木據位知幾何。利刃剪却令人愛。他道。拈燈籠向佛殿裏。這一句已截斷了也。又將三門來燈籠上。若論此事。如擊石火。似閃電光。
新字:有者。只認箇昭昭霊霊為宝。只是不得其用。亦不得其妙。所以動転不得。開撥不行。古人道。窮則変。変則通。拈灯籠向仏殿裏。若是常情可測度得。将三門来灯籠上。還測度得麼。雲門与爾一時。打破情識意想得失是非了也。雪竇道。我愛韶陽新定機。一生与人抽釘抜楔。又云。曲木拠位知幾何。利刃剪却令人愛。他道。拈灯籠向仏殿裏。這一句已截断了也。又将三門来灯籠上。若論此事。如撃石火。似閃電光。
書き下し
有る者は只だ箇の昭昭霊霊を認めて宝と為す。只だ是れ其の用を得ず、亦其の妙を得ず。所以に動転不得、開撥不行なり。古人道ふ、「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」と。「灯籠を拈じて仏殿裏に向かふ」、若し是れ常情ならば測度し得べし。「三門を将ち来たりて灯籠上に」、還た測度し得んや。雲門爾が与に一時に情識意想、得失是非を打破し了れり。雪竇道ふ、「我は愛す韶陽の新定の機、一生人の与に釘を抽き楔を抜く」と。又云く、「曲木位に拠ること幾何なるを知らん、利刃剪却して人をして愛せしむ」と。他道ふ、「灯籠を拈じて仏殿裏に向かふ」、這の一句已に截断し了れり。又「三門を将ち来たりて灯籠上に」。若し此の事を論ぜば、石火を撃つが如く、閃電光に似たり。
現代語訳
ある者は、ただあの明々白々とした霊妙なはたらきを認めて宝とする。だがその働きを得ておらず、その妙も得ていない。だから身動きがとれず、開いて押し広げることもできない。古人は言う、「窮まれば変じ、変ずれば通ず」と。「灯籠を取って仏殿の中へ向かう」は、常識でも推し量れよう。「山門を持ってきて灯籠の上に載せる」は、さて推し量れるか。雲門はあなたのために、情識や思量、得失や是非を一度に打ち破ってしまったのである。雪竇は言う、「私は韶陽(雲門)の新たに定めた機を愛する。一生、人のために釘を抜き楔を抜いてやった」と。また言う、「曲がった木が位に拠ってどれほどになるか。鋭い刃で切り捨てて人に愛される」と。雲門が「灯籠を取って仏殿の中へ向かう」と言った、この一句ですでに断ち切ってしまっている。さらに「山門を持ってきて灯籠の上に載せる」と言う。もしこの事を論ずるなら、火打石の火花のよう、稲妻の光のようである。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第六十二則挙す。雲門示衆して云く、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す。灯籠を拈じて仏殿裏に向かひ、三門を将ち来たりて灯籠上に」。
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『碧巌録』第六十二則看よ看よ、古岸何人か釣竿を把る。雲は冉冉、水は漫漫、明月蘆花君自ら看よ。若し雲門の語を識得せば、便ち雪竇の人の為にする処を見ん。他は雲門の示衆の後面の両句に向かつて、便ち爾が与に箇の注脚を下して云く、「看よ看よ」と。爾便ち瞠眉瞠眼の会を作さば、且く没交渉なることを得たり。古人道ふ、「霊光独り耀き、逈かに根塵を脱す。体真常を露はし、文字に拘はらず。心性は染無く、本自ら円成す。但だ妄縁を離るれば、即ち如如仏なり」と。若し只だ瞠眉努眼の処に向かつて坐殺せば、豈に能く根塵を脱得せんや。雪竇道ふ、「看よ看よ」と。雲門は古岸に在りて釣竿を把るが如く相似たり。雲は又冉冉、水は又漫漫、明月蘆花に映じ、蘆花明月に映ず。正当恁麼の時、且く道へ是れ何の境界ぞ。若し便ち直下に見得せば、前後只だ是れ一句に相似たり。瞠。
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『碧巌録』第六十二則雲門道ふ、「汝若し相当し去らば、且く箇の入路を覓めよ。微塵の諸仏は爾が脚跟下に在り、三蔵の聖教は爾が舌頭上に在り。悟り去るに如かず。和尚子、妄想すること莫かれ。天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水、僧は是れ僧、俗は是れ俗」。良久して云く、「我が与に面前の案山を拈じ来たれ、看ん」。便ち僧有り出でて問うて云く、「学人、山は是れ山、水は是れ水と見る時如何」。門云く、「三門什麼としてか這裏より過ぐる」。爾が死却せんことを恐れて、遂に手を以て劃一劃して云く、「識得する時は是れ醍醐の上味、若し識不得ならば反つて毒薬と為る」と。所以に道ふ、「了了として了する時、了すべき無し。玄玄たる玄の処、直に須らく呵すべし」と。雪竇又拈じて云く、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す。壁上に掛在す。達磨九年、敢へて正眼に覷著せず。而今衲僧見んと要せば、脊を劈いて便ち棒せん」と。看よ他の本分の宗師、終に実法を将て人を繋綴せず。玄沙云く、「羅籠すれども住まることを肯ぜず、呼喚すれども頭を回らさず」と。恁麼なりと雖然も、也た是れ霊亀の尾を曳くなり。雪竇頌して云く、
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『碧巌録』第八十六則自ら照らして孤明を列ね、君が為に一線を通ず。花謝して樹に影無し、看る時誰か見ざる。見るも見ず、倒に牛に騎つて仏殿に入る。自ら照らして孤明を列ぬとは、自家の脚跟下に本と此の一段の光明有り、只だ是れ尋常用ゐ得て暗し。所以に雲門大師、爾が与に此の光明を羅列して爾が面前に在らしむ。且く作麼生か是れ諸人の光明。厨庫三門。此れは是れ雲門の孤明を列ぬる処なり。盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万像を呑む」と。這箇便ち是れ真常独露なり。然る後に君が与に一線を通ず。亦た人の厨庫三門の処に著在せんことを怕る。厨庫三門は則ち且く従却す。朝花も亦た謝し、樹も亦た影無く、日も又た落ち、月も又た暗く、尽乾坤大地、黒漫漫地なり。諸人還た見るや。看る時誰か見ざる。且く道へ、是れ誰か見ざる。這裏に到つて、明中に当たつて暗有り、暗中に明有り、皆な前後の歩の如く自ら見る可し。雪竇道ふ、「見るも見ず」と。「好事も無きには如かず」を頌す。合に見るべくして又た見ず、合に明らかなるべくして又た明らかならず。倒に牛に騎つて仏殿に入る、黒漆桶裏に入り去るなり。須らく是れ爾自ら牛に騎つて仏殿に入り、看て道ふべし、是れ箇の什麼の道理ぞと。
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『碧巌録』第六十二則見ずや、鏡清、曹山に問ふ、「清虚の理、畢竟無身の時如何」。山云く、「理は即ち是くの如し、事は作麼生」。清云く、「理の如く事の如し」。山云く、「曹山一人を瞞ずることは即ち得たり、諸聖の眼を争奈何せん」。清云く、「若し諸聖の眼無くんば、争でか恁麼ならざることを知らん」。山云く、「官には針をも容れず、私には車馬を通ず」と。所以に道ふ、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」と。大意は人人具足し箇箇円成することを明かす。雲門便ち拈じ来たりて衆に示す。已に是れ十分に現成す。更に座主の相似く爾が与に注解し去るべからず。他は慈悲もて更に爾が与に注脚を下して道ふ、「灯籠を拈じて仏殿裏に向かひ、三門を将ち来たりて灯籠上に」と。且く道へ、雲門恁麼に道ふ、意作麼生。見ずや、古人云く、「無明の実性即ち仏性、幻化の空身即ち法身」と。又云く、「凡心に即して仏心を見る」と。形山とは即ち是れ四大五蘊なり。中に一宝有り、形山に秘在す。所以に道ふ、「諸仏は心頭に在り、迷人は外に向かつて求む。内に無価の宝を懐きて識らず、一生休す」と。又道ふ、「仏性堂堂として顕現すれども、住相の有情は見難し。若し衆生の無我を悟らば、我が面何ぞ仏面に殊ならん。心は是れ本来の心、面は是れ娘生の面。劫石は移動すべきも、箇中は改変無し」と。
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『碧巌録』第六十二則雲門道ふ、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」と。且く道へ、雲門の意は釣竿頭に在りや、意は灯籠上に在りや。此れは乃ち肇法師の宝蔵論の数句なり。雲門拈じ来たりて衆に示す。肇公、時に後秦の逍遥園に於いて論を造る。維摩経を写して、方に荘老の未だ其の妙を尽くさざることを知る。肇乃ち羅什を礼して師と為し、又瓦棺寺の跋陀婆羅菩薩に参ず。西天二十七祖の処より心印を伝へ来たる。肇深く其の堂奥に造る。肇一日難に遭ひ、刑に臨むの時、七日の假を乞ひて宝蔵論を造る。雲門便ち論中の四句を拈じて衆に示す。大意に云く、「如何んぞ無価の宝を以て陰界の中に隠在せしむる」と。論中の語言、皆宗門の説話と相符合す。
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