碧巌録 / 第六十則
拄杖子吞乾坤 徒說桃花浪奔燒尾者不在拏雲攫霧曝腮者何必喪膽亡魂拈了也聞不聞 直須灑灑落落休更紛紛紜紜七十二棒且輕恕 一百五十難放君師驀拈拄杖下座。大眾一時走散
新字:拄杖子呑乾坤 徒説桃花浪奔焼尾者不在拏雲攫霧曝腮者何必喪胆亡魂拈了也聞不聞 直須灑灑落落休更紛紛紜紜七十二棒且軽恕 一百五十難放君師驀拈拄杖下座。大衆一時走散
書き下し
拄杖子乾坤を呑む、徒らに説く桃花浪奔ると。尾を焼く者は雲を拏み霧を攫むに在らず、腮を曝す者は何ぞ必ずしも胆を喪ひ魂を亡はん。拈じ了れり、聞くや聞かずや。直に須らく灑灑落落たるべし、休めよ更に紛紛紜紜たることを。七十二棒且く軽恕す、一百五十君を放ち難し。師驀に拄杖を拈じて下座す。大衆一時に走散す。
現代語訳
拄杖が天地を呑み込む。桃の花の頃の波がほとばしるなどと説いても空しい。尾を焼かれて竜となった者は、雲をつかみ霧をつかむことにあるのではない。えらを干された者も、どうして肝をつぶし魂を失う必要があろうか。取り上げてしまった、聞こえたか聞こえないか。すっきりとさっぱりしていなければならない。もうこれ以上ごたごたと思い乱れるのはやめよ。七十二棒はひとまず軽く許してやるが、百五十棒は君を放しがたい。師(雪竇)はいきなり拄杖を取り上げて座を下りた。大衆はいっせいに逃げ散った。
解説
雪竇が第六十則に付けた頌である。雪竇は雲門の「化して竜と為る」を削り、ただ「拄杖子乾坤を呑む」とだけ言い、桃花の季節に鯉が禹門の浪を登って竜になるという話を持ち出すのは徒説だと退ける。竜になって雲霧をつかむことも、登りきれずにえらを曝すことも問題ではないと詠み、もう取り上げて示したと言って、さっぱりとせよ、ごたごたするなと迫る。七十二棒は許すが百五十棒は許さないと言い、最後は自ら拄杖を手に座を下り、大衆は散り散りになった。変身や出世の物語に心を奪われず、今の一事を潔く引き受けることを促す一首である。
この章句が説くこと
雪竇頌拄杖禹門執着灑落
関連する章句
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『碧巌録』第六十則雲門は委曲して人の為にし、雪竇は截径に人の為にす。所以に「化して竜と為る」を撥却して、恁麼に道ふことを消ひず、只だ是れ「拄杖子乾坤を呑む」と。雪竇の大意は人の情解を免れしむ。更に道ふ、「徒らに説く桃花浪奔ると」。更に必ずしも化して竜と為らず。蓋し禹門に三級の浪有り、毎に三月に至れば桃花浪漲る。魚能く水に逆らひ、浪を躍り過ぐる者は即ち化して竜と為る。雪竇道ふ、縦ひ化して竜と為るも、亦た是れ徒らに説くのみと。「尾を焼く者は雲を拏み霧を攫むに在らず」。魚禹門を過ぐれば、自ら天火有りて其の尾を焼き、雲を拏み霧を攫んで去る。雪竇の意に道ふ、縦ひ化して竜と為るも、亦た雲を拏み霧を攫むに在らずと。「腮を曝す者は何ぞ必ずしも胆を喪ひ魂を亡はん」。清涼の疏の序に云く、「積行の菩薩すら、尚ほ乃ち腮を竜門に曝す」と。大意は華厳の境界の小徳小智の造詣する所に非ざることを明らむ。猶ほ魚の竜門を過ぐるに透不得なる者の、額に点して回り、死水沙磧の中に困しんで、其の腮を曝すが如し。
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『碧巌録』第六十則雪竇の意に道ふ、既に額に点して回る、必ず胆を喪ひ魂を亡ふと。「拈じ了れり、聞くや聞かずや」。重ねて注脚を下し、一時に爾が与に掃蕩し了れり。諸人直に須らく灑灑落落として去るべし、休めよ更に紛紛紜紜たることを。爾若し更に紛紛紜紜たらば、拄杖子を失却し了らん。「七十二棒且く軽恕す」。雪竇爾が為に重きを捨てて軽きに従ふ。古人道ふ、「七十二棒、翻つて一百五十と成る」と。如今の人錯会して、却つて只だ数目を算じて、「合に是れ七十五棒なるべし、什麼としてか却つて只だ七十二棒なる」と。殊に知らず、古人の意は言外に在ることを。所以に道ふ、此の事は言句の中に在らずと。後人の去いて穿鑿することを免れしめんとして、雪竇所以に引用す。直饒ひ真箇に灑灑落落たるも、正に好し爾に七十二棒を与ふるに、猶ほ是れ軽恕なり。直饒ひ総て此の如くならずんば、「一百五十君を放ち難し」。一時に頌し了り、却つて更に拄杖を拈じて、重重に相為す。恁麼なりと雖も、也た一箇の皮下に血有るもの無し。嵎中の書隠、鼎めて圜悟の碧巌録を刊し、幸ひに已に事を訖ふ。四方の禅友、或いは祖庭事苑・万善同帰録及び禅宗の文字の、世に刊本罕なる者を収め得ば、幸ひに乞ふ示されよ、当に為に梓に繍し、以て禅学を広むべし。此れも亦た方便接引の一端なり。告ぐ、玉を舎つること毋くんば幸甚なり。稟白す。
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『碧巌録』第六十則挙す。雲門、拄杖を以て衆に示して云く、「拄杖子化して竜と為り、乾坤を呑却し了れり。山河大地甚れの処よりか得来たる」。
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『碧巌録』第六十則只だ雲門の道ふが如き、「拄杖子化して竜と為り、乾坤を呑却し了れり。山河大地甚れの処よりか得来たる」。若し有りと道へば則ち瞎し、若し無しと道へば則ち死す。還た雲門の人の為にする処を見るや。我に拄杖子を還し来たれ。如今の人は他の雲門の独露の処を会せず、却つて道ふ、「色に即して心を明らめ、物に附して理を顕す」と。且く釈迦老子四十九年の説法の如き、此の議論を知らざるべからず。何が故ぞ、更に拈花を用ひ、迦葉微笑す。這の老漢便ち搽胡して道ふ、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶大迦葉に分付す」と。更に何ぞ必ずしも心印を単伝せん。諸人既に是れ祖師門下の客、還た単伝底の心を明らめ得たりや。胸中若し一物有らば、山河大地、摐然として現前す。胸中若し一物無くんば、外は則ち了に糸毫も無し。什麼の理と智と冥し、境と神と会すとか説かん。何が故ぞ。一会一切会、一明一切明。長沙道ふ、「学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。無量劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」と。忽若し陰界を打破せば、身心一如、身外に余り無きも、猶ほ未だ一半を得ざること在り。什麼の色に即して心を明らめ、物に附して理を顕すとか説かん。
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『碧巌録』第六十則古人道ふ、「一塵纔かに起これば、大地全く収まる」と。且く道へ、是れ那箇の一塵ぞ。若し這の一塵を識得せば、便ち拄杖子を識得せん。纔かに拄杖子を拈起すれば、便ち縦横の妙用を見る。恁麼に説話するも、早く是れ葛藤し了れり。何ぞ況んや更に化して竜と為るをや。慶蔵主云く、「五千四十八巻、還た曽て恁麼の説話有りや」。雲門毎に拄杖の処に向かつて全機大用を拈掇し、活潑潑地に人の為にす。芭蕉衆に示して云く、「衲僧の巴鼻、尽く拄杖頭上に在り」。永嘉も亦た云く、「是れ形を標して虚しく事褫するにあらず、如来の宝杖親しく蹤跡す」と。如来昔然灯仏の時に於て、髪を布いて泥を掩ひ、以て彼の仏を待つ。然灯曰く、「此の処に当に梵刹を建つべし」。時に一天子有り、遂に一茎草を標して云く、「梵刹を建て竟んぬ」。諸人且く道へ、這箇の消息、那裏より得来たる。祖師道ふ、「棒頭に証を取り、喝下に承当す」と。且く道へ、箇の什麼をか承当す。忽ち人有りて問ふ、「如何なるか是れ拄杖子」。打筋斗すること莫しや、撫掌一下すること莫しや。総に是れ精魂を弄す。且喜すらくは没交渉。雪竇頌して云く。
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『碧巌録』第六則一を去却し、七を拈得す。上下四維等匹無し。徐ろに行いて踏断す流水の声、縦に観て写出す飛禽の跡。草茸茸、煙羃羃。空生巌畔花狼籍。弾指して悲しむに堪へたり舜若多。動著すること莫れ。動著せば三十棒。
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