碧巌録 / 第四十七則
雲門道。六不收。直是難搆。若向朕兆未分時搆得。已是第二頭。若向朕兆已生後薦得。又落第三首。若向言句上辨明。卒摸索不著。且畢竟以何為法身。若是作家底。聊聞舉著。剔起便行。苟或佇思停機。伏聽處分。太原孚上座本為講師。一日登座講次。說法身云。竪窮三際。橫亘十方。有一禪客。在座下聞之失笑。孚下座云。某甲適來有甚短處。願禪者為說看。禪者云。座主只講得法身量邊事。不見法身。孚云。畢竟如何即是。禪者云。可暫罷講於靜室中坐。必得自見。孚如其言。一夜靜坐。忽聞打五更鐘。忽然大悟。遂敲禪者門云。我會也。禪者云。爾試道看。孚云。我從今日去。更不將父母所生鼻孔扭揑也。
新字:雲門道。六不収。直是難搆。若向朕兆未分時搆得。已是第二頭。若向朕兆已生後薦得。又落第三首。若向言句上弁明。卒摸索不著。且畢竟以何為法身。若是作家底。聊聞舉著。剔起便行。苟或佇思停機。伏聴処分。太原孚上座本為講師。一日登座講次。説法身云。竪窮三際。横亘十方。有一禅客。在座下聞之失笑。孚下座云。某甲適来有甚短処。願禅者為説看。禅者云。座主只講得法身量辺事。不見法身。孚云。畢竟如何即是。禅者云。可暫罷講於静室中坐。必得自見。孚如其言。一夜静坐。忽聞打五更鐘。忽然大悟。遂敲禅者門云。我会也。禅者云。爾試道看。孚云。我従今日去。更不将父母所生鼻孔扭揑也。
書き下し
雲門道ふ、「六不収」。直に是れ搆へ難し。若し朕兆未だ分かれざる時に向かつて搆へ得るも、已に是れ第二頭。若し朕兆已に生じて後に向かつて薦め得るも、又第三首に落つ。若し言句上に向かつて弁明せば、卒に摸索不著。且く畢竟何を以てか法身と為す。若し是れ作家底ならば、聊か挙著を聞いて、剔起して便ち行く。苟或し佇思停機せば、伏して処分を聴け。太原の孚上座、本と講師たり。一日座に登つて講ずる次で、法身を説いて云く、「竪に三際を窮め、横に十方に亘る」。一禅客有り、座下に在つて之を聞いて失笑す。孚、座を下りて云く、「某甲適来甚の短処か有る。願はくは禅者為に説き看よ」。禅者云く、「座主只だ法身の量辺の事を講じ得て、法身を見ず」。孚云く、「畢竟如何なるか即ち是なる」。禅者云く、「暫く講を罷めて静室の中に於いて坐すべし、必ず自ら見ることを得ん」。孚其の言の如く、一夜静坐す。忽ち五更の鐘を打つを聞いて、忽然として大悟す。遂に禅者の門を敲いて云く、「我れ会せり」。禅者云く、「汝試みに道ひ看よ」。孚云く、「我れ今日より去つて、更に父母所生の鼻孔を将つて扭揑せず」。
現代語訳
雲門は「六では収まらない」と言った。まったく取りつきにくい。もし兆しがまだ分かれない時に取りついたとしても、すでに二番手である。もし兆しがすでに生じた後に受け取ったとしても、さらに三番手に落ちる。もし言葉の上で見分けようとすれば、結局つかみようがない。さて結局のところ、何を法身とするのか。練達の者ならば、取り上げるのを聞いたとたん、さっと身を起こして行ってしまう。もしためらって思案し、機を止めるなら、ひれ伏して処分を待て。太原の孚上座は、もとは経論の講師であった。ある日、座に登って講義をしていて、法身を説いて「縦には過去・現在・未来の三際を窮め、横には十方にわたる」と言った。一人の禅僧が座の下でこれを聞いて、思わず笑った。孚は座を下りて言った。「私に先ほど何か至らないところがあったでしょうか。どうか禅者よ、私のために説いてください」。禅僧は言った。「講師はただ法身の量の側の事を講じることができるだけで、法身を見ていない」。孚は言った。「結局どうであれば正しいのですか」。禅僧は言った。「しばらく講義をやめて静かな部屋で坐りなさい。必ず自分で見ることができるだろう」。孚はその言葉どおりに一晩静坐した。ふと五更の鐘を打つのを聞いて、たちまち大悟した。そこで禅僧の門を叩いて言った。「私は会得しました」。禅僧は言った。「試みに言ってみよ」。孚は言った。「私は今日からもう、父母から生まれたこの鼻の穴をひねくり回したりしません」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第四十七則又教中に道ふ、「仏の真法身は猶ほ虚空の若し、物に応じて形を現ずること、水中の月の如し」。又僧、夾山に問ふ、「如何なるか是れ法身」。山云く、「法身は無相」。「如何なるか是れ法眼」。山云く、「法眼は無瑕」。雲門道ふ、「六不収」。此の公案、有る者道ふ、「只だ是れ六根・六塵・六識、此の六は皆法身より生ず。六根も他を収め得ず」。若し恁麼に情解せば、且喜すらくは没交渉、更に雲門を帯累す。見んと要せば便ち見よ、汝が穿鑿する処無し。見ずや教中に道ふ、「是の法は思量分別の能く解する所に非ず」。他の答話は多く人の情解を惹く。所以に一句の中に、須らく三句を具すべし。更に汝が問頭に辜負せず。時に応じ節に応じて、一言一句、一点一画、妨げず出身の処有ることを。所以に道ふ、「一句透れば、千句万句一時に透る」。且く道へ、是れ法身か、是れ祖師か。汝に三十棒を放す。雪竇頌して云く。
-
『碧巌録』第四十七則垂示に云く、天何をか言ふや、四時行はる。地何をか言ふや、万物生ず。四時の行はるる処に向かつて、以て体を見るべし。万物の生ずる処に於いて、以て用を見るべし。且く道へ、什麼の処に向かつてか衲僧を見得せん。言語・動用・行住坐臥を離却し、咽喉唇吻を併却して、還つて弁得すや。挙す。僧、雲門に問ふ、「如何なるか是れ法身」。門云く、「六不収」。
-
『碧巌録』第九十九則孚曰く、「既然に是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし」。典座曰く、「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室の中に於て端然として静慮し、心を収め念を摂め、善悪の諸縁を一時に放却して、自ら窮究し看よ」。孚一に言ふ所に依りて、初夜より五更に至り、鼓角の鳴るを聞きて、忽然として契悟す。便ち去きて禅者の門を叩く。典座曰く、「阿誰ぞ」。孚曰く、「某甲」。典座咄して曰く、「汝をして大教を伝持し、仏に代りて法を説かしむ。夜半什麼と為てか、酒に酔ひて街に臥す」。孚曰く、「自来経を講じて、生身の父母の鼻孔を将て扭揑す。今日より已後、更に敢へて是の如くならじ」。看よ他の奇特の漢、豈に只だ去きて箇の昭昭霊霊を認めて、驢前馬後に落在せんや。須らく是れ業識を打破して、一糸毫頭の得べき無かるべし。猶ほ只だ一半を得るのみ在り。古人道ふ、「繊毫の修学の心を起さず、無相の光中常に自在なり」。但だ常寂滅底を識りて、声色を認むること莫れ。但だ霊知を識りて、妄想を認むること莫れ。所以に道ふ、「仮使ひ鉄輪頂上に旋るも、定慧円明にして終に失せず」。達磨二祖に問ふ、「汝雪に立ち臂を断つ、当に何事の為ぞ」。祖曰く、「某甲心未だ安からず、乞ふ師安心せしめよ」。磨云く、「心を将ち来れ、汝が与に安んぜん」。祖曰く、「心を覓むるに了に不可得なり」。磨曰く、「汝が与に安心し竟んぬ」。二祖忽然として領悟す。且く道へ、正当恁麼の時、法身什麼の処にか在る。
-
『碧巌録』第九十九則十身調御とは、即ち是れ十種の他受用身なり。法報化の三身は、即ち法身なり。何が故ぞ、報化は真仏に非ず、亦た説法者に非ず。法身に拠らば、則ち一片虚凝にして、霊明寂照なり。太原の孚上座、揚州の光孝寺に在りて涅槃経を講ず。游方の僧有り、即ち夾山の典座なり、寺に在りて雪に阻まる。因みに往きて講を聴く。講じて三因仏性、三徳法身に至りて、広く法身の妙理を談ず。典座忽然として失笑す。孚乃ち目顧す。講罷りて禅者を請ぜしめて問ひて云く、「某素より智狭劣にして、文に依りて義を解す。適来講ずる次で、上人の失笑するを見る。某必ず短乏する処有らん。請ふ上人説け」。典座云く、「座主問はずんば、即ち敢へて説かず。座主既に問ふ、則ち言はざるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ふ」。孚云く、「此の如く解説す、何れの処か是ならざる」。典座云く、「請ふ座主更に一遍説け」。孚曰く、「法身の理は、猶ほ太虚の若し。竪に三際を窮め、横に十方に亘り、八極を弥綸し、二儀を包括す。縁に随ひ感に赴きて、周遍せざること靡し」。典座曰く、「座主の説の是ならずとは道はず、只だ法身の量辺の事を識得するのみにして、実に未だ法身を識らざること在り」。
-
『碧巌録』第六十二則見ずや、鏡清、曹山に問ふ、「清虚の理、畢竟無身の時如何」。山云く、「理は即ち是くの如し、事は作麼生」。清云く、「理の如く事の如し」。山云く、「曹山一人を瞞ずることは即ち得たり、諸聖の眼を争奈何せん」。清云く、「若し諸聖の眼無くんば、争でか恁麼ならざることを知らん」。山云く、「官には針をも容れず、私には車馬を通ず」と。所以に道ふ、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」と。大意は人人具足し箇箇円成することを明かす。雲門便ち拈じ来たりて衆に示す。已に是れ十分に現成す。更に座主の相似く爾が与に注解し去るべからず。他は慈悲もて更に爾が与に注脚を下して道ふ、「灯籠を拈じて仏殿裏に向かひ、三門を将ち来たりて灯籠上に」と。且く道へ、雲門恁麼に道ふ、意作麼生。見ずや、古人云く、「無明の実性即ち仏性、幻化の空身即ち法身」と。又云く、「凡心に即して仏心を見る」と。形山とは即ち是れ四大五蘊なり。中に一宝有り、形山に秘在す。所以に道ふ、「諸仏は心頭に在り、迷人は外に向かつて求む。内に無価の宝を懐きて識らず、一生休す」と。又道ふ、「仏性堂堂として顕現すれども、住相の有情は見難し。若し衆生の無我を悟らば、我が面何ぞ仏面に殊ならん。心は是れ本来の心、面は是れ娘生の面。劫石は移動すべきも、箇中は改変無し」と。
-
『碧巌録』第二十一則古人道ふ、「仏性の義を識らんと欲せば、当に時節因縁を観ずべし」と。見ずや、雲門挙す、僧、霊雲に問ふ、「仏未だ出世せざる時如何」。雲、払子を竪起す。僧云く、「出世の後如何」。雲亦払子を竪起す。雲門云く、「前頭は打著し、後頭は打不著」。又云く、「出と不出とを説かず、何処にか伊が問ふ時節有らん」と。古人の一問一答は、時に応じ節に応じて、許多の事無し。爾若し言を尋ね句を逐はば、了に交渉無し。爾若し能く言中に言を透得し、意中に意を透得し、機中に機を透得して、放ちて閑閑地ならしめば、方に智門の答話の処を見ん。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る