碧巌録 / 第四十五則
一日僧問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。僧云。和尚莫將境示人。州云。老僧不曾將境示人。看他恁麼向極則轉不得處轉得。自然蓋天蓋地。若轉不得。觸途成滯。且道他有佛法商量也無。若道他有佛法。他又何曾說心說性。說玄說妙。若道他無佛法旨趣。他又不曾辜負爾問頭。豈不見。僧問木平和尚。如何是佛法大意。平云。這箇冬瓜如許大。又僧問古德。深山懸崖逈絕無人處。還有佛法也無。古德云。有。僧云。如何是深山裏佛法。古德云。石頭大底大小底小。看這般公案。誵訛在什麼處。雪竇知他落處。故打開義路。與爾頌出。
新字:一日僧問趙州。如何是祖師西来意。州云。庭前柏樹子。僧云。和尚莫将境示人。州云。老僧不曽将境示人。看他恁麼向極則転不得処転得。自然蓋天蓋地。若転不得。触途成滞。且道他有仏法商量也無。若道他有仏法。他又何曽説心説性。説玄説妙。若道他無仏法旨趣。他又不曽辜負爾問頭。豈不見。僧問木平和尚。如何是仏法大意。平云。這箇冬瓜如許大。又僧問古徳。深山懸崖逈絶無人処。還有仏法也無。古徳云。有。僧云。如何是深山裏仏法。古徳云。石頭大底大小底小。看這般公案。誵訛在什麼処。雪竇知他落処。故打開義路。与爾頌出。
書き下し
一日、僧、趙州に問ふ、「如何なるか是れ祖師西来の意」。州云く、「庭前の柏樹子」。僧云く、「和尚、境を将つて人に示すこと莫かれ」。州云く、「老僧曾て境を将つて人に示さず」。看よ他の恁麼に極則の転じ得ざる処に向かつて転じ得て、自然に蓋天蓋地なることを。若し転じ得ずんば、触途成滞す。且く道へ、他に仏法の商量有りや也た無しや。若し他に仏法有りと道はば、他又何ぞ曾て心を説き性を説き、玄を説き妙を説かん。若し他に仏法の旨趣無しと道はば、他又曾て汝が問頭に辜負せず。豈に見ずや、僧、木平和尚に問ふ、「如何なるか是れ仏法の大意」。平云く、「這箇の冬瓜、如許大なり」。又僧、古徳に問ふ、「深山懸崖、逈絶して人無き処、還つて仏法有りや也た無しや」。古徳云く、「有り」。僧云く、「如何なるか是れ深山裏の仏法」。古徳云く、「石頭の大なる底は大、小なる底は小」。看よ這般の公案、誵訛什麼の処にか在る。雪竇他の落処を知つて、故に義路を打開して汝が与に頌出す。
現代語訳
ある日、ある僧が趙州に問うた。「祖師が西から来た意とは何か」。趙州は言った。「庭先の柏の木だ」。僧は言った。「和尚、外の景色で人に示さないでください」。趙州は言った。「老僧はかつて景色で人に示したことはない」。見よ、彼がこのように、究極の転じようのないところで転じることができて、自然に天を覆い地を覆っていることを。もし転じることができなければ、行く先々で滞ってしまう。さあ言ってみよ、彼に仏法の議論はあるか、ないか。もし彼に仏法があると言うなら、彼はいつ心を説き性を説き、玄を説き妙を説いたか。もし彼に仏法の趣旨がないと言うなら、彼はお前の問いに背いたことがない。見なかったか、ある僧が木平和尚に「仏法の大意とは何か」と問うと、木平は「この冬瓜はこんなに大きい」と言った。またある僧が古徳に「深い山の切り立った崖の、人里離れて誰もいない所にも、仏法はあるか」と問うと、古徳は「ある」と言った。僧が「深い山の中の仏法とは何か」と言うと、古徳は「石の大きいものは大きく、小さいものは小さい」と言った。見よ、こうした公案の紛らわしいところはどこにあるか。雪竇はその落ち着きどころを知っていたので、道理の筋道を開いてお前たちのために頌に詠んだのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第四十五則若し一撃に便ち行く処に向かつて会し去らば、天下の老和尚の鼻孔、一時に穿却せられて、汝を奈何ともせず、自然に水到つて渠成らん。苟或し躊躇せば、老僧汝が脚跟下に在り。仏法の省要の処は、言多きに在らず、語繁きに在らず。只だ這の僧の趙州に問ふ、「万法一に帰す、一何れの処にか帰す」が如き、他却つて答へて道ふ、「我れ青州に在つて一領の布衫を作る、重きこと七斤」。若し語句上に向かつて弁ぜば、定盤星を錯認す。語句上に向かつて弁ぜずんば、争奈せん却つて恁麼に道ふことを。這箇の公案、見難しと雖も却つて会し易く、会し易しと雖も却つて見難し。難きときは則ち銀山鉄壁、易きときは則ち直下に惺惺たり。汝が是非を計較する処無し。此の話は普化の「来日大悲院裏に斎有り」と道ふ話と、更に両般無し。
-
『無門関』第三十七則 庭前柏樹趙州、僧の問ふに因る、「如何なるか是れ祖師西來意」。州云く、「庭前の柏樹子(はくじゅし)」。
-
『碧巌録』第四十五則十八問の中、此れを編辟問と謂ふ。雪竇道ふ、「編辟曾て挨す老古錐」。万法を編辟して、教へて一致に帰せしむ。這の僧、他の趙州を挨拶せんと要す。州も也た妨げず作家なることを。転じ得ざる処に向かつて出身の路有り。敢へて大口を開いて便ち道ふ、「我れ青州に在つて一領の布衫を作る、重きこと七斤」。雪竇道ふ、「這箇の七斤の布衫、能く幾人か知ること有る」。「如今拋擲す西湖の裏」。万法一に帰す、一も亦た要せず、七斤の布衫も亦た要せず、一時に西湖の裏に拋在す。雪竇は洞庭の翠峰に住す、西湖有り。「下載の清風誰にか付与せん」。此れは是れ趙州の示衆なり。「汝若し北に向かつて来たらば、汝が与に上載せん。汝若し南に向かつて来たらば、汝が与に下載せん。汝若し雪峰・雲居より来たらば、也た是れ箇の担板漢」。雪竇道ふ、「此くの如き清風、阿誰にか付するに堪へん」。上載とは、汝が与に心を説き性を説き、玄を説き妙を説き、種種の方便す。若し是れ下載ならば、更に許多の義理玄妙無し。有る底は一担の禅を担うて趙州の処に到れば、一点も也た使ひ著けず、一時に他が与に打畳して、灑灑落落として一星の事無からしむ。之を悟り了つて還つて未だ悟らざる時に同じと謂ふ。
-
『無門関』第三十七則 庭前柏樹無門曰く、若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く、後に弥勒無し。頌に曰く、言、事を展ぶること無く、語、機に投ぜず。言を承くる者は喪(うしな)ひ、句に滞る者は迷ふ。
-
『碧巌録』第二則這の僧出で来る、也た妨げず奇特なることを。趙州の空処を捉へて、便ち去いて他を拶す、「既に明白裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん」。趙州更に棒を行ぜず喝を行ぜず、只だ道ふ、「我も亦た知らず」。若し是れ這の老漢にあらずんば、他に拶著せられて、往往に前を忘れ後を失せん。頼に是れ這の老漢、転身自在の処有り、所以に此の如く他に答ふ。如今の禅和子、問著すれば也た道ふ、「我も亦た知らず、不会」と。争奈せん途を同じうして轍を同じうせざることを。這の僧奇特の処有り、方に始めて問ふことを会す、「和尚既に知らずんば、什麼と為てか却つて明白裏に在らずと道ふ」。更に好き一拶なり。若し是れ別人ならば、往往に分疏不下ならん。趙州は是れ作家、只だ他に向つて道ふ、「事を問ふことは即ち得たり。礼拝し了つて退け」。這の僧依旧として這の老漢を奈何ともすること無く、只だ気を飲み声を呑むことを得たり。此れは是れ大手の宗師、爾と玄を論じ妙を論じ、機を論じ境を論ぜず、一向に本分の事を以て人を接す。所以に道ふ、「相罵らば爾が嘴を接ぐに饒し、相唾せば爾が水を潑ぐに饒す」。殊に知らず、這の老漢、平生棒喝を以て人を接せず、只だ平常の言語を以てすることを。只だ是れ天下の人奈何ともせず。蓋し他の平生許多の計較無きが為に、所以に横拈倒用、逆行順行、大自在を得たり。如今の人理会し得ず、只管に道ふ、「趙州答話せず、人の為に説かず」と。殊に知らず、当面に蹉過することを。
-
『碧巌録』第二則雪竇他の落処を知る、所以に此の如く頌す。「至道無難」、便ち後に随つて道ふ、「言端語端」。一隅を挙ぐるに三隅を以て反さず。雪竇道ふ、「一に多種有り、二に両般無し」。三隅にして一を反すに似たり。爾且く道へ、什麼の処か是れ言端語端の処。什麼と為てか一に却つて多種有り、二に却つて両般無き。若し眼を具せずんば、什麼の処に向つてか摸索せん。若し這の両句を透得せば、所以に古人道ふ、「打成一片」と。依旧として見る、山は是れ山、水は是れ水、長は是れ長、短は是れ短、天は是れ天、地は是れ地。有る時は天を喚んで地と作し、有る時は地を喚んで天と作し、有る時は山を喚んで山にあらずとし、水を喚んで水にあらずとす。畢竟怎生か平穏に去ることを得ん。風来れば樹動き、浪起れば船高し。春生じ夏長じ、秋収め冬蔵む。一種平懐なれば、泯然として自ら尽く。則ち此の四句の頌、頓に絶し了れり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る