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碧巌録 / 第三十七則

三界無法何處求心。雪竇頌得。一似華嚴境界。有者道。雪竇無中唱出。若是眼皮綻底。終不恁麼會。雪竇去他傍邊。貼兩句道。白雲為蓋。流泉作琴。蘇內翰見照覺。有頌云。溪聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。他日如何舉似人。雪竇借流泉。作一片長舌頭。所以道。一曲兩曲無人會。不見九峯虔和尚道。還識得命麼。流泉是命。湛寂是身。千波競起是文殊家風。一亘晴空。是普賢境界。流泉作琴。一曲兩曲無人會。這般曲調。也須是知音始得。若非其人。徒勞側耳。古人道。聾人也唱胡家曲。好惡高低總不聞。雲門道。舉不顧即差互。擬思量。何劫悟。舉是體。顧是用。未舉已前。朕兆未分已前見得。坐斷要津。若朕兆纔分見得。便有照用。若朕兆分後見得。落在意根。雪竇忒殺慈悲。更向爾道。却似雨過夜塘秋水深。此一頌曾有人論量。美雪竇有翰林之才。雨過夜塘秋水深。也須是急著眼看。更若遲疑。即討不見。

新字:三界無法何処求心。雪竇頌得。一似華厳境界。有者道。雪竇無中唱出。若是眼皮綻底。終不恁麼会。雪竇去他傍辺。貼両句道。白雲為蓋。流泉作琴。蘇内翰見照覚。有頌云。渓声便是広長舌。山色豈非清浄身。夜来八万四千偈。他日如何舉似人。雪竇借流泉。作一片長舌頭。所以道。一曲両曲無人会。不見九峯虔和尚道。還識得命麼。流泉是命。湛寂是身。千波競起是文殊家風。一亘晴空。是普賢境界。流泉作琴。一曲両曲無人会。這般曲調。也須是知音始得。若非其人。徒労側耳。古人道。聾人也唱胡家曲。好悪高低総不聞。雲門道。舉不顧即差互。擬思量。何劫悟。舉是体。顧是用。未舉已前。朕兆未分已前見得。坐断要津。若朕兆纔分見得。便有照用。若朕兆分後見得。落在意根。雪竇忒殺慈悲。更向爾道。却似雨過夜塘秋水深。此一頌曽有人論量。美雪竇有翰林之才。雨過夜塘秋水深。也須是急著眼看。更若遅疑。即討不見。

書き下し

三界無法、何処にか心を求めん。雪竇頌し得て、一に華厳の境界に似たり。有る者は道ふ、雪竇無中に唱出すと。若し是れ眼皮綻ぶ底ならば、終に恁麼に会せず。雪竇他の傍辺に去いて、両句を貼じて道ふ、白雲を蓋と為し、流泉を琴と作すと。蘇内翰照覚に見えて、頌有りて云く、渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんや。夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せんと。雪竇は流泉を借りて、一片の長舌頭と作す。所以に道ふ、一曲両曲人の会する無しと。見ずや九峰虔和尚道ふ、還た命を識得するや。流泉は是れ命、湛寂は是れ身。千波競ひ起こるは是れ文殊の家風、一亘の晴空は是れ普賢の境界と。流泉を琴と作す、一曲両曲人の会する無し。這般の曲調は、也た須らく是れ知音にして始めて得べし。若し其の人に非ずんば、徒らに耳を側つるを労せん。古人道ふ、聾人も也た胡家の曲を唱ふ、好悪高低総に聞かずと。雲門道ふ、挙して顧みざれば即ち差互す、擬して思量せば何れの劫にか悟らんと。挙は是れ体、顧は是れ用。未だ挙せざる已前、朕兆未だ分かれざる已前に見得せば、要津を坐断す。若し朕兆纔かに分かれて見得せば、便ち照用有り。若し朕兆分かれて後に見得せば、意根に落在す。雪竇忒殺だ慈悲にして、更に爾に向かつて道ふ、却つて雨過ぎて夜塘秋水深きに似たりと。此の一頌は曾て人有りて論量し、雪竇の翰林の才有るを美む。雨過ぎて夜塘秋水深し、也た須らく是れ急に眼を著けて看るべし。更に若し遅疑せば、即ち討ぬるも見えず。

現代語訳

「三界に法はない。どこに心を求めようか」。雪竇の頌は、まるで華厳の境地のようである。ある者は「雪竇は無の中から唱え出したのだ」と言う。もし眼の皮が裂けて開いた者なら、決してそのようには理解しない。雪竇は盤山の句の傍らに行って、二句を貼りつけて「白い雲を天蓋とし、流れる泉を琴とする」と言ったのである。蘇内翰(蘇東坡)が照覚に会って作った頌に言う、「谷川の音はそのまま仏の広く長い舌、山の色はどうして清浄な仏身でないことがあろう。昨夜聞いた八万四千の偈を、後日どうやって人に伝えようか」。雪竇は流れる泉を借りて、ひとつながりの長い舌とした。だから「一曲、二曲と奏でても、わかる人はいない」と言うのである。知らないか、九峰道虔和尚は言った、「命というものがわかるか。流れる泉が命であり、静まりかえった湛えが身である。千の波が競い起こるのは文殊の家風であり、ひと続きの晴れた空は普賢の境地である」。「流れる泉を琴とする、一曲、二曲と奏でても、わかる人はいない」。こうした曲の調べは、本当にわかる知音であってはじめて聞き取れる。もしその人でなければ、耳をそばだてても骨折り損である。古人は「耳の聞こえない人も胡人の歌を歌うが、良し悪しも高低もまったく聞こえない」と言った。雲門は「取り上げて振り返らなければ食いちがう。ためらって思いはかれば、いつの世に悟れようか」と言った。取り上げるのが体であり、振り返るのが用である。まだ取り上げる前、兆しがまだ分かれる前に見て取れば、肝心の渡し場を押さえることになる。もし兆しがわずかに分かれたところで見て取れば、照らす働きと用いる働きがある。もし兆しが分かれた後に見て取れば、意識の根に落ちている。雪竇はあまりにも慈悲深く、さらにお前たちに「まるで雨が過ぎて、夜の池に秋の水が深くたたえられるようだ」と言ってやった。この一首の頌はかつて論じた人がいて、雪竇には翰林学士の才があると称えた。「雨が過ぎて、夜の池に秋の水が深くたたえられる」。これもまたすぐさま眼をつけて見なければならない。少しでもためらえば、探しても見つからない。

解説

第三十七則の頌に付けた圜悟の評唱である。圜悟は、雪竇の頌を華厳の境界に似ていると評し、無から唱え出したという解釈を退ける。白雲と流泉の句は盤山の言葉の傍らに貼りつけたものだと言う。蘇東坡の渓声便ち是れ広長舌の偈や、九峰道虔の流泉は是れ命の語を引き、流泉の曲は知音でなければ聞き取れないと説く。雲門の挙して顧みざれば差互すの語で、兆しが分かれる前に見よと迫る。最後の雨過夜塘秋水深は、急いで眼をつけねば見失うと結ぶ。現場の微かな兆しは、ためらえば消える。瞬時に見て取る眼の大切さを教えている。

この章句が説くこと

頌知音兆し蘇東坡雲門無心

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