碧巌録 / 第三十七則
若是深入閫奧。徹骨徹髓。見得透底。盤山一場敗缺。若承言會宗左轉右轉底。盤山只得一橛。若是拕泥帶水。聲色堆裏轉。未夢見盤山在。五祖先師道。透過那邊方有自由分。不見三祖道。執之失度必入邪路。放之自然體無去住。若向這裏。道無佛無法。又打入鬼窟裏去。古人謂之解脫深坑。本是善因而招惡果。所以道。無為無事人。猶遭金鎖難。也須是窮到底始得。若向無言處言得。行不得處行得。謂之轉身處。三界無法何處求心。爾若作情解。只在他言下死却。雪竇見處。七穿八穴。所以頌出。
新字:若是深入閫奥。徹骨徹髄。見得透底。盤山一場敗欠。若承言会宗左転右転底。盤山只得一橛。若是拕泥帯水。声色堆裏転。未夢見盤山在。五祖先師道。透過那辺方有自由分。不見三祖道。執之失度必入邪路。放之自然体無去住。若向這裏。道無仏無法。又打入鬼窟裏去。古人謂之解脱深坑。本是善因而招悪果。所以道。無為無事人。猶遭金鎖難。也須是窮到底始得。若向無言処言得。行不得処行得。謂之転身処。三界無法何処求心。爾若作情解。只在他言下死却。雪竇見処。七穿八穴。所以頌出。
書き下し
若し是れ深く閫奥に入り、骨に徹し髄に徹して、見得して底に透らば、盤山一場の敗缺ならん。若し言を承けて宗を会し、左転右転する底ならば、盤山只だ一橛を得たり。若し是れ泥を拕き水を帯びて、声色堆裏に転ずるならば、未だ盤山を夢見ること在らず。五祖先師道ふ、那辺を透過して方に自由の分有りと。見ずや三祖道ふ、之を執すれば度を失し、必ず邪路に入る。之を放てば自然にして、体に去住無しと。若し這裏に向いて仏無く法無しと道はば、又鬼窟裏に打入し去らん。古人之を解脱の深坑と謂ふ。本是れ善因にして悪果を招く。所以に道ふ、無為無事の人も、猶ほ金鎖の難に遭ふと。也た須らく是れ窮めて底に到りて始めて得べし。若し無言の処に向いて言ひ得、行不得の処に行き得ば、之を転身の処と謂ふ。三界無法、何処にか心を求めん。爾若し情解を作さば、只だ他の言下に在りて死却せん。雪竇の見処は、七穿八穴なり。所以に頌出す。
現代語訳
もし奥の間に深く入りこみ、骨の髄まで徹して、底まで見抜くことができれば、盤山は一敗地にまみれたことになる。もし言葉を受けて宗旨を理解し、左に転じ右に転じるような者であれば、盤山はほんの一切れを得たにすぎない。もし泥を引きずり水を滴らせて、音や色の山の中を転げまわっているなら、まだ盤山を夢にも見ていない。わが先師五祖法演は「あちら側を突き抜けてこそ、自由の分がある」と言った。知らないか、三祖僧璨は「これに執着すれば節度を失い、必ず邪道に入る。これを手放せば自然であり、本体には去ることもとどまることもない」と言った。もしここで「仏もなく法もない」と言えば、またもや鬼の洞窟に入りこんでしまう。古人はこれを解脱の深い穴と言った。もとは善い因でありながら悪い果を招くのである。だから「何もせず何事もない人でさえ、なお金の鎖につながれる難にあう」と言う。これもまた底まで窮めてはじめてよいのである。もし言葉のないところで言うことができ、行けないところへ行くことができれば、これを身を転じるところと言う。「三界に法はない。どこに心を求めようか」。お前がもし情でこれを理解すれば、ただ盤山の言葉のもとで死んでしまうだけだ。雪竇の見るところは、七つの穴八つの穴があいたように自在に通じている。だからこれを頌じたのである。
解説
この章句が説くこと
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『碧巌録』第三十七則向北幽州の盤山宝積和尚は、乃ち馬祖下の尊宿なり。後に普化一人を出だす。師遷化に臨みて衆に謂ひて云く、還た人の吾が真を邈得する有りや。衆皆真を写して師に呈す。師皆之を叱す。普化出でて云く、某甲邈得す。師云く、何ぞ老僧に呈似せざる。普化便ち筋斗を打して出づ。師云く、這の漢向後風狂の如くにして人を接し去らん。一日衆に示して云く、三界無法、何処にか心を求めん。四大本空、仏何に依りてか住せん。璿璣動かず、寂止にして痕無し。覿面に相呈す、更に余事無し。雪竇両句を拈じ来りて頌す。直に是れ渾金璞玉なり。見ずや道ふことを、瘥病は驢駝の薬を仮らずと。山僧什麼としてか道ふ、声に和して便ち打つと。只だ他の枷を担ひて状を過すが為なり。古人道ふ、声外の句と称するを聞かば、意中に向いて求むること莫れと。且く道へ、他の意作麼生。直に奔流刃を度り、電転星飛することを得たり。若し擬議尋思せば、千仏出世するも、也た他を摸索不著ならん。
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『碧巌録』第三十七則垂示に云く、掣電の機、徒らに佇思を労す。当空の霹靂、耳を掩ふも諧ひ難し。脳門上に紅旗を播し、耳背後に双剣を輪らす。若し是れ眼辨じ手親しきにあらずんば、争でか能く搆得せん。有る般底は、頭を低れて佇思し、意根下に卜度す。殊に知らず、髑髏前に鬼を見ること無数なることを。且く道へ、意根に落ちず、得失を抱かずして、忽ち箇の恁麼に挙覚する有らば、作麼生か祗対せん。試みに挙し看ん。挙す。盤山垂語して云く、三界無法、何処にか心を求めん。
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『碧巌録』第三十七則三界無法、何処にか心を求めん。雪竇頌し得て、一に華厳の境界に似たり。有る者は道ふ、雪竇無中に唱出すと。若し是れ眼皮綻ぶ底ならば、終に恁麼に会せず。雪竇他の傍辺に去いて、両句を貼じて道ふ、白雲を蓋と為し、流泉を琴と作すと。蘇内翰照覚に見えて、頌有りて云く、渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんや。夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せんと。雪竇は流泉を借りて、一片の長舌頭と作す。所以に道ふ、一曲両曲人の会する無しと。見ずや九峰虔和尚道ふ、還た命を識得するや。流泉は是れ命、湛寂は是れ身。千波競ひ起こるは是れ文殊の家風、一亘の晴空は是れ普賢の境界と。流泉を琴と作す、一曲両曲人の会する無し。這般の曲調は、也た須らく是れ知音にして始めて得べし。若し其の人に非ずんば、徒らに耳を側つるを労せん。古人道ふ、聾人も也た胡家の曲を唱ふ、好悪高低総に聞かずと。雲門道ふ、挙して顧みざれば即ち差互す、擬して思量せば何れの劫にか悟らんと。挙は是れ体、顧は是れ用。未だ挙せざる已前、朕兆未だ分かれざる已前に見得せば、要津を坐断す。若し朕兆纔かに分かれて見得せば、便ち照用有り。若し朕兆分かれて後に見得せば、意根に落在す。雪竇忒殺だ慈悲にして、更に爾に向かつて道ふ、却つて雨過ぎて夜塘秋水深きに似たりと。此の一頌は曾て人有りて論量し、雪竇の翰林の才有るを美む。雨過ぎて夜塘秋水深し、也た須らく是れ急に眼を著けて看るべし。更に若し遅疑せば、即ち討ぬるも見えず。
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『碧巌録』第三十六則若し真実に這の境界に到ることを得ば、何人か眼開かざる。一任す七顛八倒することを。一切処都て是れ這の境界、都て是れ這の時節なり。十方に壁落無く、四面に亦た門無し。所以に道ふ、始めは芳草に随ひて去り、又落花を逐うて回ると。雪竇は巧みなることを妨げず。只だ去いて他の左辺に一句を貼じ、右辺に一句を貼じ、一に一首の詩に似て相似たり。羸鶴寒木に翹ち、狂猿古台に嘯く。雪竇引いて這裏に到り、自ら漏逗を覚えて、驀に云く、長沙無限の意、咄と。夢を作して却つて醒むるが如くに相似たり。雪竇一喝を下すと雖も、未だ勦絶することを得ず。若し是れ山僧ならば即ち然らず。長沙無限の意、地を掘りて更に深く埋めん。
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