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碧巌録 / 第三十五則

千峯盤屈色如藍。誰謂文殊是對談。有者道。雪竇只是重拈一遍。不曾頌著。只如僧問法眼。如何是曹源一滴水。眼云。是曹源一滴水。又僧問瑯瑘覺和尚。清淨本然云何忽生山河大地。覺云。清淨本然云何忽生山河大地。不可也喚作重拈一遍。明招獨眼龍。亦頌其意。有蓋天蓋地之機道。廓周沙界勝伽藍。滿目文殊是對談。言下不知開佛眼。回頭只見翠山巖。廓周沙界勝伽藍。此指草窟化寺。所謂有權實雙行之機。滿目文殊是對談。言下不知開佛眼。回頭只見翠山巖。正當恁麼時。喚作文殊普賢觀音境界得麼。要且不是這箇道理。

新字:千峯盤屈色如藍。誰謂文殊是対談。有者道。雪竇只是重拈一遍。不曽頌著。只如僧問法眼。如何是曹源一滴水。眼云。是曹源一滴水。又僧問瑯瑘覚和尚。清浄本然云何忽生山河大地。覚云。清浄本然云何忽生山河大地。不可也喚作重拈一遍。明招独眼竜。亦頌其意。有蓋天蓋地之機道。廓周沙界勝伽藍。満目文殊是対談。言下不知開仏眼。回頭只見翠山巖。廓周沙界勝伽藍。此指草窟化寺。所謂有権実双行之機。満目文殊是対談。言下不知開仏眼。回頭只見翠山巖。正当恁麼時。喚作文殊普賢観音境界得麼。要且不是這箇道理。

書き下し

千峰盤屈して色藍の如し、誰か謂ふ文殊是れ対談すと。有る者は道ふ、雪竇は只だ是れ重ねて拈ずること一遍、曾て頌著せずと。只如ば僧法眼に問ふ、如何なるか是れ曹源の一滴水。眼云く、是れ曹源の一滴水と。又僧瑯琊の覚和尚に問ふ、清浄本然、云何ぞ忽ちに山河大地を生ずる。覚云く、清浄本然、云何ぞ忽ちに山河大地を生ずると。喚んで重ねて拈ずること一遍と作すべからず。明招独眼龍も亦た其の意を頌す。蓋天蓋地の機有りて道ふ、廓周沙界勝伽藍、満目の文殊是れ対談す。言下に知らず仏眼を開くことを、頭を回らせば只だ見る翠山の巌と。廓周沙界勝伽藍とは、此れ草窟の化寺を指す。所謂権実双行の機有り。満目の文殊是れ対談す、言下に知らず仏眼を開くことを、頭を回らせば只だ見る翠山の巌。正当恁麼の時、喚んで文殊・普賢・観音の境界と作して得んや。要且つ是れ這箇の道理にあらず。

現代語訳

「千の峰が折り重なって、その色は藍のようだ。文殊と向かい合って語っていたなどと、誰が言うのか」。ある者は「雪竇はただもう一度取り上げただけで、まったく頌になっていない」と言う。たとえば僧が法眼に問うた、「曹源(六祖の法)の一滴の水とは何ですか」。法眼は言った、「これが曹源の一滴の水だ」。また僧が瑯琊の慧覚和尚に問うた、「清浄で本来そのままのものから、どうして忽ち山河大地が生じるのですか」。慧覚は言った、「清浄で本来そのままのものから、どうして忽ち山河大地が生じるのか」。これらをもう一度取り上げただけと呼んではならない。明招の独眼龍もこの意を頌にしており、天を覆い地を覆う働きをもってこう言う、「恒河の砂ほどの世界をあまねく包む見事な伽藍、目に満ちるのはみな文殊との対話。その言葉のもとで仏の眼を開くことを知らず、振り返ればただ緑の山の岩が見えるばかり」。「恒河の砂ほどの世界をあまねく包む見事な伽藍」とは、草むらに化現した寺を指す。いわゆる方便と真実をともに行う働きである。「目に満ちるのはみな文殊との対話、その言葉のもとで仏の眼を開くことを知らず、振り返ればただ緑の山の岩が見えるばかり」。まさにこのときを、文殊・普賢・観音の境地と呼んでよいだろうか。いや、そういう道理ではない。

解説

第三十五則の頌に付けた圜悟の評唱の前半である。雪竇の頌は本則を繰り返しただけだという批判に対し、圜悟は法眼文益と瑯琊慧覚が問いをそのまま返した例を挙げ、繰り返しは単なる重複ではないと反論する。さらに、雪竇が下敷きにした明招徳謙の頌を紹介する。満目の文殊と語りながら仏眼を開けず、振り返れば翠の岩があるだけだという句である。それを文殊や観音の境界と呼ぶ理解も退ける。同じ言葉を返すことが、相手に自分の問いを見つめ直させる最良の答えになることもあると教えている。

この章句が説くこと

問答文殊気づき法眼明招公案

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