碧巌録 / 第三十一則
爾不見。永嘉到曹溪見六祖。遶禪床三匝。振錫一下。卓然而立。祖云。夫沙門者。具三千威儀。八萬細行。大德從何方而來。生大我慢。為什麼六祖却道他生大我慢。此箇也不說是。也不說不是。是與不是都是繫驢橛。唯有雪竇下兩錯。猶較些子。麻谷云。章敬道是。和尚為什麼道不是。這老漢不惜眉毛。漏逗不少。南泉道章敬則是是汝不是。南泉可謂見兔放鷹。慶藏主云。南泉忒殺郎當。不是便休。更與他出過道。此是風力所轉。終成敗壞。圓覺經云。我今此身。四大和合。所謂髮毛爪齒。皮肉筋骨。髓腦垢色。皆歸於地。唾涕膿血。皆歸於水。暖氣歸火。動轉歸風。四大各離今者妄身。當在何處。他麻谷持錫遶禪床。既是風力所轉。終成敗壞。且道畢竟。發明心宗底事。在什麼處。到這裏。也須是生鐵鑄就底箇漢始得。
新字:爾不見。永嘉到曹渓見六祖。遶禅床三匝。振錫一下。卓然而立。祖云。夫沙門者。具三千威儀。八万細行。大徳従何方而来。生大我慢。為什麼六祖却道他生大我慢。此箇也不説是。也不説不是。是与不是都是繋驢橛。唯有雪竇下両錯。猶較些子。麻谷云。章敬道是。和尚為什麼道不是。這老漢不惜眉毛。漏逗不少。南泉道章敬則是是汝不是。南泉可謂見兔放鷹。慶蔵主云。南泉忒殺郎当。不是便休。更与他出過道。此是風力所転。終成敗壊。円覚経云。我今此身。四大和合。所謂髪毛爪歯。皮肉筋骨。髄脳垢色。皆帰於地。唾涕膿血。皆帰於水。暖気帰火。動転帰風。四大各離今者妄身。当在何処。他麻谷持錫遶禅床。既是風力所転。終成敗壊。且道畢竟。発明心宗底事。在什麼処。到這裏。也須是生鉄鋳就底箇漢始得。
書き下し
爾見ずや、永嘉曹渓に到りて六祖に見え、禅床を遶ること三匝、錫を振ること一下して、卓然として立つ。祖云く、夫れ沙門は、三千の威儀、八万の細行を具す。大徳何れの方よりして来り、大我慢を生ずる。什麼としてか六祖却つて他が大我慢を生ずと道ふ。此箇も也た是とも説かず、也た不是とも説かず。是と不是と都て是れ繫驢橛なり。唯だ雪竇の両錯を下す有りて、猶ほ些子に較れり。麻谷云く、章敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふと。這の老漢眉毛を惜しまず、漏逗すること少なからず。南泉道ふ、章敬は則ち是、汝は不是と。南泉は兎を見て鷹を放つと謂ひつべし。慶蔵主云く、南泉忒殺郎当なり、不是ならば便ち休せよ、更に他の与に過を出すと。此れは是れ風力の転ずる所、終に敗壊を成す。円覚経に云く、我が今の此の身は、四大和合す。所謂髪毛爪歯、皮肉筋骨、髄脳垢色は、皆地に帰す。唾涕膿血は皆水に帰す。暖気は火に帰し、動転は風に帰す。四大各離れなば、今者の妄身、当に何処にか在るべき。他の麻谷錫を持して禅床を遶る、既に是れ風力の転ずる所、終に敗壊を成す。且く道へ、畢竟心宗を発明する底の事、什麼の処にか在る。這裏に到りては、也た須らく是れ生鉄もて鋳就せる底の箇の漢にして始めて得べし。
現代語訳
お前たちは知らないか。永嘉が曹渓に行って六祖に会ったとき、禅床を三度めぐり、錫杖を一度振って、すっくと立った。六祖は言った、「そもそも沙門たる者は、三千の威儀と八万の細かな作法を具えている。大徳はどこから来て、そんな大きな驕りを起こしているのか」。なぜ六祖はかえって彼が大きな驕りを起こしていると言ったのか。ここでも、よしとも言わず、だめとも言っていない。よしもだめも、すべて驢馬をつなぐ杭である。ただ雪竇が二つの錯を置いたことだけが、まだいくらかましである。麻谷は「章敬はよしと言いました。和尚はどうしてだめだと言われるのですか」と言った。この老人は眉毛が抜け落ちるのも惜しまず、ずいぶんとぼろを出している。南泉は「章敬はよいのだ、お前がだめなのだ」と言った。南泉は兎を見てから鷹を放つ、つまり相手を見て的確に手を打ったと言うべきである。慶蔵主は「南泉はあまりにだらしない。だめならだめで終えればよいのに、さらに相手のために過ちの説明までしてやった」と言った。これは風の力で動いているだけで、結局は壊れてしまう。『円覚経』に言う、「わたしの今のこの身は、四大が寄り集まったものである。いわゆる髪・毛・爪・歯、皮・肉・筋・骨、髄・脳・汚れや色かたちは、みな地に帰る。唾・涕・膿・血はみな水に帰る。暖かさは火に帰り、動きは風に帰る。四大がそれぞれ離れてしまえば、今のこの仮の身はどこにあるというのか」。麻谷が錫杖を持って禅床をめぐるのも、すでに風の力で動いているにすぎず、結局は壊れてしまう。さて言ってみよ、結局のところ心の宗旨を明らかにする事は、どこにあるのか。ここに至っては、生の鉄で鋳あげたような男でなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第三十一則挙す。麻谷、錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振ること一下して、卓然として立つ。敬云く、是、是。雪竇著語して云く、錯。麻谷又南泉に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振ること一下して、卓然として立つ。泉云く、不是、不是。雪竇著語して云く、錯。麻谷当時云く、章敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。泉云く、章敬は即ち是、汝は不是。此れは是れ風力の転ずる所、終に敗壊を成す。
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『碧巌録』第三十一則古人の行脚は、遍く叢林を歴て、直に此の事を以て念と為し、他の曲彔木床上の老和尚の、具眼か具眼ならざるかを辨ぜんことを要す。古人は一言相契へば即ち住し、一言契はざれば即ち去る。看よ他の麻谷、章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振ること一下して、卓然として立つ。章敬云く、是、是と。殺人刀活人剣、須らく是れ本分の作家なるべし。雪竇云く、錯と。両辺に落在す。爾若し両辺に去いて会せば、雪竇の意を見ず。他卓然として立つ、且く道へ、什麼事の為ぞ。雪竇什麼としてか却つて錯と道ふ。什麼の処か是れ他の錯れる処。章敬是と道ふ、什麼の処か是れ是なる処。雪竇は坐して判語を読むが如し。麻谷箇の是の字を担ひて、便ち去いて南泉に見ゆ。依然として禅床を遶ること三匝、錫を振ること一下して、卓然として立つ。泉云く、不是、不是と。殺人刀活人剣、須らく是れ本分の宗師なるべし。雪竇云く、錯と。章敬は是是と道ひ、南泉は不是不是と道ふ。為復是れ同か是れ別か。前頭に是と道ふ、什麼としてか也た錯なる。後頭に不是と道ふ、什麼としてか也た錯なる。若し章敬の句下に向いて薦得せば、自救も也た了ぜず。若し南泉の句下に向いて薦得せば、祖仏の与に師と為るべし。然も恁麼なりと雖も、衲僧家は須らく是れ自ら肯ひて始めて得べし。一向に人の口辯を取ること莫れ。他の問ひ既に一般なるに、什麼としてか一箇は是と道ひ、一箇は不是と道ふ。
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『碧巌録』第三十一則若し是れ通方の作者、大解脱を得る底の人ならば、必須ず別に生涯有らん。若し是れ機境忘れざる底ならば、決定して這の両頭に滞在せん。若し古今を明辨して、天下人の舌頭を坐断せんと要せば、須らく是れ這の両錯を明取して始めて得べし。後頭の雪竇の頌に至るに及んでも、也た只だ這の両錯を頌す。雪竇は活鱍鱍の処を提げんと要す、所以に此の如し。若し是れ皮下に血有る底の漢ならば、自然に言句の中に向いて解会を作さず、繫驢橛上に向いて道理を作さず。有る者は道ふ、雪竇は麻谷に代はつて這の両錯を下すと。什麼の交渉か有らん。殊に知らず、古人の著語は要関を鎖断することを。這辺も也た是、那辺も也た是、畢竟這の両頭に在らず。慶蔵主道ふ、錫を持して禅床を遶る、是と不是と倶に錯なりと。其の実も亦た此に在らず。
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『碧巌録』第二十則見ずや、五洩石頭に参ずるに、先づ自ら約して曰く、若し一言相契はば即ち住せん、然らずんば即ち去らんと。石頭座に據る。洩払袖して出づ。石頭是れ法器なることを知りて、即ち開示を垂る。洩其の旨を領せず、辞を告げて出でて門に至る。石頭之を呼んで云く、闍黎。洩回顧す。石頭云く、生より死に至るまで、只だ是れ這箇。頭を回らし脳を転じて、更に別に求むること莫かれ。洩言下に於て大悟す。又麻谷錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るふこと一下して、卓然として立つ。敬云く、是是。又南泉に到りて、前に依りて床を遶り錫を振るうて立つ。南泉云く、不是不是。此れは是れ風力の所転、終に敗壊を成す。谷云く、章敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。南泉云く、章敬は即ち是、是れ汝は不是。古人も也た妨げず此の一件の事を提持透脱せんことを要す。如今の人纔かに問著すれば、全く些子の工夫を用ゐる処無し。今日も也た只だ是れ恁麼、明日も也た只だ是れ恁麼。爾若し只だ恁麼ならば、未来際を尽くすも也た未だ了る日有らず。須らく是れ精神を抖擻して、始めて少分の相応有ることを得べし。
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『碧巌録』第三十一則這の一箇の頌は、徳山溈山に見ゆる公案に似て相似たり。先づ公案を将ちて、両転語を著けて、穿ちて一串と作し、然る後に頌出す。此に錯、彼に錯、切に忌む拈却することを。雪竇の意に云く、此処に一錯、彼処に一錯、切に忌む拈却することを、拈却すれば即ち乖くと。須らく是れ此の如く這の両錯を著けて、直に四海浪平らかに百川潮落つることを得べし。清風明月を可殺す。爾若し這の両錯の下に向いて会得せば、更に一星の事も没し。山は是れ山、水は是れ水、長き者は自ら長く、短き者は自ら短し。五日に一風、十日に一雨。所以に道ふ、四海浪平らかに、百川潮落つと。後面に麻谷の錫を持するを頌して云く、古策風高し十二門と。古人は鞭を以て策と為し、衲僧家は拄杖を以て策と為す。西王母の瑤池の上に、十二の朱門有り。古策は即ち是れ拄杖、頭上の清風、十二の朱門よりも高し。天子及び帝釈の居る所の処も、亦た各十二の朱門有り。若し是れ這の両錯を会得せば、拄杖頭上に光を生じ、古策も也た用不著ならん。古人道ふ、拄杖子を識得すれば、一生参学の事畢ると。又道ふ、是れ形を標す虚事の褫ならず、如来の宝杖親しく蹤跡すと。此の類なり。這裏に到りては、七顛八倒、一切時中に於て、大自在を得。門門に路有り空しく蕭索たり。路有りと雖も、只だ是れ空しく蕭索たり。雪竇此に到りて、自ら漏逗を覚え、更に爾が与に打破す。然も是の如くなりと雖も、也た蕭索に非ざる処有り。任是作者も、無病の時、也た須らく是れ先づ些かの薬を討めて喫して始めて得べし。
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『碧巌録』第二十八則丈云く、「説き了れり」。惜しむべし、他の与に注破す。当時但だ脊を劈いて便ち棒し、他をして痛痒を知らしめん。是の如くなりと雖然も、爾且く道へ、什麼の処か是れ説く処。南泉の見処に拠らば、不是心・不是仏・不是物、曾て説著せず。且く爾諸人に問ふ、什麼に因ってか却って「説き了れり」と道ふ。他の語下に又蹤迹無し。若し他説かずと道はば、百丈什麼と為てか却って恁麼に道ふ。南泉は是れ変通底の人なり。便ち随後に一拶して云く、「某甲は只だ恁麼。和尚又作麼生」。若し是れ別人ならば、未だ分疎不下を免れず。争奈せん百丈は是れ作家にして、答処妨げず奇特なることを。便ち道ふ、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。南泉便ち箇の「会せず」と道ふ。是れ渠果たして会し来たって「会せず」と道ふか、是れ真箇に会せざるにあらざるや。百丈云く、「我太殺だ爾が為に説き了れり」。且く道へ、什麼の処か是れ説く処。若し是れ泥団を弄する漢の時ならば、両箇淈淈渹渹たらん。若し是れ二り倶に作家の時ならば、明鏡の台に当たるが如し。其の実、前頭は二り倶に作家、後頭は二り倶に放過す。
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