碧巌録 / 第二十八則
丈云。說了也。可惜許。與他注破。當時但劈脊便棒。教他知痛痒。雖然如是。爾且道什麼處是說處。據南泉見處。不是心不是佛不是物。不曾說著。且問爾諸人。因什麼却道。說了也。他語下又無蹤迹。若道他不說。百丈為什麼却恁麼道。南泉是變通底人。便隨後一拶云。某甲只恁麼。和尚又作麼生。若是別人。未免分疎不下。爭柰百丈是作家。答處不妨奇特。便道。我又不是大善知識。爭知有說不說。南泉便道箇不會。是渠果會來道不會。莫是真箇不會。百丈云。我太殺為爾說了也。且道什麼處是說處。若是弄泥團漢時。兩箇淈淈[泳-永+盾][泳-永+盾]。若是二俱作家時。如明鏡當臺。其實前頭二俱作家。後頭二俱放過。
新字:丈云。説了也。可惜許。与他注破。当時但劈脊便棒。教他知痛痒。雖然如是。爾且道什麼処是説処。拠南泉見処。不是心不是仏不是物。不曽説著。且問爾諸人。因什麼却道。説了也。他語下又無蹤迹。若道他不説。百丈為什麼却恁麼道。南泉是変通底人。便随後一拶云。某甲只恁麼。和尚又作麼生。若是別人。未免分疎不下。争柰百丈是作家。答処不妨奇特。便道。我又不是大善知識。争知有説不説。南泉便道箇不会。是渠果会来道不会。莫是真箇不会。百丈云。我太殺為爾説了也。且道什麼処是説処。若是弄泥団漢時。両箇淈淈[泳-永+盾][泳-永+盾]。若是二倶作家時。如明鏡当台。其実前頭二倶作家。後頭二倶放過。
書き下し
丈云く、「説き了れり」。惜しむべし、他の与に注破す。当時但だ脊を劈いて便ち棒し、他をして痛痒を知らしめん。是の如くなりと雖然も、爾且く道へ、什麼の処か是れ説く処。南泉の見処に拠らば、不是心・不是仏・不是物、曾て説著せず。且く爾諸人に問ふ、什麼に因ってか却って「説き了れり」と道ふ。他の語下に又蹤迹無し。若し他説かずと道はば、百丈什麼と為てか却って恁麼に道ふ。南泉は是れ変通底の人なり。便ち随後に一拶して云く、「某甲は只だ恁麼。和尚又作麼生」。若し是れ別人ならば、未だ分疎不下を免れず。争奈せん百丈は是れ作家にして、答処妨げず奇特なることを。便ち道ふ、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。南泉便ち箇の「会せず」と道ふ。是れ渠果たして会し来たって「会せず」と道ふか、是れ真箇に会せざるにあらざるや。百丈云く、「我太殺だ爾が為に説き了れり」。且く道へ、什麼の処か是れ説く処。若し是れ泥団を弄する漢の時ならば、両箇淈淈渹渹たらん。若し是れ二り倶に作家の時ならば、明鏡の台に当たるが如し。其の実、前頭は二り倶に作家、後頭は二り倶に放過す。
現代語訳
涅槃和尚は「説いてしまったな」と言った。惜しいことに、南泉のために注釈を加えて破ってやったのだ。そのときただ背骨にまっすぐ棒を食らわせて、痛みとかゆみを思い知らせればよかった。とはいえ、さあ言ってみよ、どこが説いたところなのか。南泉の見たところに拠れば、心でもなく仏でもなく物でもない、と少しも説いてはいない。さて皆に問おう。なぜ涅槃和尚は「説いてしまった」と言ったのか。南泉の言葉には跡形もない。もし説いていないと言うなら、涅槃和尚はなぜあのように言ったのか。南泉は臨機応変の人である。すかさず一押しして「わたしはただこうです。和尚はどうですか」と言った。ほかの人なら言い訳もできないところだ。ところが涅槃和尚は腕の立つ者で、その答えは実に見事である。「わしは大善知識ではない。説いたか説かないかなど、どうして分かろうか」と言った。南泉はそこで「わたしには分かりません」と言った。彼は実は会得していながら「分かりません」と言ったのか、それとも本当に分からなかったのか。涅槃和尚は「わしはお前のためにすっかり説きすぎてしまった」と言った。さあ言え、どこが説いたところなのか。もし泥団子をこねるような男同士であれば、二人とも泥水の中でごぼごぼともがくことになる。もし二人とも腕の立つ者であれば、明るい鏡が台に掛かっているようなものだ。実のところ、前半は二人とも腕の立つ者であり、後半は二人とも互いを見逃したのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第二十八則挙す。南泉、百丈涅槃和尚に参ず。丈問ふ、「従上の諸聖、還た人の為に説かざる底の法有りや」。泉云く、「有り」。丈云く、「作麼生か是れ人の為に説かざる底の法」。泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。丈云く、「説き了れり」。泉云く、「某甲は只だ恁麼。和尚作麼生」。丈云く、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。泉云く、「某甲会せず」。丈云く、「我太殺だ爾が為に説き了れり」。
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『碧巌録』第二十八則這裏に到って、也た即心不即心を消ひず、非心不非心を消ひず。直下に頂より足に至るまで、眉毛一茎も也た無くして、猶ほ些子に較れり。即心・非心、寿禅師之を表詮・遮詮と謂ふ。此れは是れ涅槃和尚法正禅師なり。昔時百丈に在って西堂と作り、田を開いて大義を説く者なり。是の時南泉已に馬祖に見え了り、只だ是れ諸方に往いて決択す。百丈此の一問を致す、也た大いに酬い難し。云く、「従上の諸聖、還た人の為に説かざる底の法有りや」。若し是れ山僧ならば、耳を掩うて出でん。看よ這の老漢の一場の懡㦬なるを。若し是れ作家ならば、他の恁麼に問ふを見て便ち他を識破し得ん。南泉只だ他の所見に拠って便ち「有り」と道ふ、也た是れ孟八郎なり。百丈便ち錯を将って錯に就き、随後に道ふ、「作麼生か是れ人の為に説かざる底の法」。泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。這の漢天上の月を観るを貪って、掌中の珠を失却す。
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『碧巌録』第二十八則山僧常に説く、若し是れ一句を添へば、甜蜜蜜地なるも、好好に観来たれば、正に是れ毒薬なり。若し是れ脊を劈いて便ち棒し、口に驀って便ち摑し、推し将ち出し去らば、方に始めて親切に人の為にす。「衲僧今古頭を競って走る」。到る処、是にも也た問ひ、不是にも也た問ひ、仏を問ひ祖を問ひ、向上を問ひ向下を問ふ。此の如くなりと雖然も、若し未だ這の田地に到らずんば、也た少くことを得ず。「明鏡台に当たって列像殊なり」、只だ一句を消ひて、明白を辨ずべし。古人道ふ、「万象及び森羅、一法の印する所なり」と。又道ふ、「森羅及び万象、総て箇中に在って円かなり」と。神秀大師云く、「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること勿れ」。大満云く、「他は只だ門外に在り」。雪竇恁麼に道ふ、且く道へ、門内に在るか門外に在るか。爾等諸人、各一面の古鏡有り、森羅万象、長短方円、一一中に於て顕現す。爾若し長短の処に去って会せば、卒に摸索不著ならん。所以に雪竇道ふ、「明鏡台に当たって列像殊なり」と。却って須らく是れ「一一南に面して北斗を看る」べし。既に是れ南に面す、什麼と為てか却って北斗を看る。若し恁麼に会得せば、方に百丈・南泉の相見の処を見ん。此の両句は百丈の挨拶の処を頌す。丈云く、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。雪竇此に到って頌し得て、死水裏に落在す。人の錯って会せんことを恐れて、却って自ら提起して云く、即今目前「斗柄垂る」、爾更に什麼の処に去ってか討ねん。爾纔かに「鼻孔を拈得すれば口を失却し」、口を拈得すれば鼻孔を失却し了れり。
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『碧巌録』第二十六則這の僧便ち礼拝す、虎鬚を捋づるに似て相似たり。只だ転身の処を争ふ。頼ひに百丈の頂門に眼有り、肘後に符有り、四天下を照破し、深く来風を辨ずるに値ふ。所以に便ち打つ。若し是れ別人ならば他を奈何ともする無し。這の僧は機を以て機に投じ、意を以て意を遣る。他の所以に礼拝す。南泉云ふが如し、「文殊・普賢、昨夜三更に仏見法見を起こす、各二十棒を与へて、二鉄囲山に貶向し去れり」。時に趙州衆を出でて云く、「和尚の棒、誰をしてか喫せしむ」。泉云く、「王老師に什麼の過か有る」。州礼拝す。宗師家は等閑に他の受用の処を見ず。纔かに当機拈弄の処に到れば、自然に活鱍鱍地なり。五祖先師常に説く、「馬前の相撲の如くに相似たり」と。爾但だ常に見聞声色をして一時に坐断せしめ、把得して定まり主と作り得ば、始めて他の百丈を見ん。且く道へ、放過する時作麼生。看取せよ、雪竇頌出して云く。
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『碧巌録』第二十則見ずや、五洩石頭に参ずるに、先づ自ら約して曰く、若し一言相契はば即ち住せん、然らずんば即ち去らんと。石頭座に據る。洩払袖して出づ。石頭是れ法器なることを知りて、即ち開示を垂る。洩其の旨を領せず、辞を告げて出でて門に至る。石頭之を呼んで云く、闍黎。洩回顧す。石頭云く、生より死に至るまで、只だ是れ這箇。頭を回らし脳を転じて、更に別に求むること莫かれ。洩言下に於て大悟す。又麻谷錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るふこと一下して、卓然として立つ。敬云く、是是。又南泉に到りて、前に依りて床を遶り錫を振るうて立つ。南泉云く、不是不是。此れは是れ風力の所転、終に敗壊を成す。谷云く、章敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。南泉云く、章敬は即ち是、是れ汝は不是。古人も也た妨げず此の一件の事を提持透脱せんことを要す。如今の人纔かに問著すれば、全く些子の工夫を用ゐる処無し。今日も也た只だ是れ恁麼、明日も也た只だ是れ恁麼。爾若し只だ恁麼ならば、未来際を尽くすも也た未だ了る日有らず。須らく是れ精神を抖擻して、始めて少分の相応有ることを得べし。
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『碧巌録』第二則這の僧出で来る、也た妨げず奇特なることを。趙州の空処を捉へて、便ち去いて他を拶す、「既に明白裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん」。趙州更に棒を行ぜず喝を行ぜず、只だ道ふ、「我も亦た知らず」。若し是れ這の老漢にあらずんば、他に拶著せられて、往往に前を忘れ後を失せん。頼に是れ這の老漢、転身自在の処有り、所以に此の如く他に答ふ。如今の禅和子、問著すれば也た道ふ、「我も亦た知らず、不会」と。争奈せん途を同じうして轍を同じうせざることを。這の僧奇特の処有り、方に始めて問ふことを会す、「和尚既に知らずんば、什麼と為てか却つて明白裏に在らずと道ふ」。更に好き一拶なり。若し是れ別人ならば、往往に分疏不下ならん。趙州は是れ作家、只だ他に向つて道ふ、「事を問ふことは即ち得たり。礼拝し了つて退け」。這の僧依旧として這の老漢を奈何ともすること無く、只だ気を飲み声を呑むことを得たり。此れは是れ大手の宗師、爾と玄を論じ妙を論じ、機を論じ境を論ぜず、一向に本分の事を以て人を接す。所以に道ふ、「相罵らば爾が嘴を接ぐに饒し、相唾せば爾が水を潑ぐに饒す」。殊に知らず、這の老漢、平生棒喝を以て人を接せず、只だ平常の言語を以てすることを。只だ是れ天下の人奈何ともせず。蓋し他の平生許多の計較無きが為に、所以に横拈倒用、逆行順行、大自在を得たり。如今の人理会し得ず、只管に道ふ、「趙州答話せず、人の為に説かず」と。殊に知らず、当面に蹉過することを。
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