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碧巌録 / 第二十八則

到這裏。也不消即心不即心。不消非心不非心。直下從頂至足。眉毛一莖也無。猶較些子。即心非心。壽禪師謂之表詮遮詮。此是涅槃和尚法正禪師也。昔時在百丈作西堂。開田說大義者。是時南泉已見馬祖了。只是往諸方決擇。百丈致此一問。也大難酬。云從上諸聖。還有不為人說底法麼。若是山僧。掩耳而出。看這老漢一場懡[怡-台+羅]。若是作家。見他恁麼問便識破得他。南泉只據他所見。便道有。也是孟八郎。百丈便將錯就錯。隨後道作麼生是不為人說底法。泉云。不是心。不是佛。不是物。這漢貪觀天上月。失却掌中珠。

新字:到這裏。也不消即心不即心。不消非心不非心。直下従頂至足。眉毛一茎也無。猶較些子。即心非心。寿禅師謂之表詮遮詮。此是涅槃和尚法正禅師也。昔時在百丈作西堂。開田説大義者。是時南泉已見馬祖了。只是往諸方決択。百丈致此一問。也大難酬。云従上諸聖。還有不為人説底法麼。若是山僧。掩耳而出。看這老漢一場懡[怡-台+羅]。若是作家。見他恁麼問便識破得他。南泉只拠他所見。便道有。也是孟八郎。百丈便将錯就錯。随後道作麼生是不為人説底法。泉云。不是心。不是仏。不是物。這漢貪観天上月。失却掌中珠。

書き下し

這裏に到って、也た即心不即心を消ひず、非心不非心を消ひず。直下に頂より足に至るまで、眉毛一茎も也た無くして、猶ほ些子に較れり。即心・非心、寿禅師之を表詮・遮詮と謂ふ。此れは是れ涅槃和尚法正禅師なり。昔時百丈に在って西堂と作り、田を開いて大義を説く者なり。是の時南泉已に馬祖に見え了り、只だ是れ諸方に往いて決択す。百丈此の一問を致す、也た大いに酬い難し。云く、「従上の諸聖、還た人の為に説かざる底の法有りや」。若し是れ山僧ならば、耳を掩うて出でん。看よ這の老漢の一場の懡㦬なるを。若し是れ作家ならば、他の恁麼に問ふを見て便ち他を識破し得ん。南泉只だ他の所見に拠って便ち「有り」と道ふ、也た是れ孟八郎なり。百丈便ち錯を将って錯に就き、随後に道ふ、「作麼生か是れ人の為に説かざる底の法」。泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。這の漢天上の月を観るを貪って、掌中の珠を失却す。

現代語訳

ここに至っては、心そのものであるかないかも要らず、心でないかそうでないかも要らない。その場で頭のてっぺんから足の先まで、眉毛一本さえない境地になって、ようやく少しはましである。心そのものという言い方と、心ではないという言い方を、永明延寿禅師は表詮と遮詮と呼んだ。この涅槃和尚とは法正禅師のことである。かつて百丈山で西堂の役にあり、田を開墾すれば大義を説いてやろうと言った人である。このとき南泉はすでに馬祖に会い終えて、ただ諸方を巡って見解を確かめていた。涅槃和尚がこの一問を投げたのは、実に応じがたい。「昔からの聖者たちに、人のために説かなかった法はあるか」と言う。もしわたしなら、耳をふさいで出て行くだろう。見よ、この老人のひと場面の恥さらしぶりを。もし腕の立つ者なら、彼がこのように問うのを見て、すぐに見破ることができよう。南泉はただ自分の見たところに拠って「あります」と言ったが、これも向こう見ずな男である。涅槃和尚はそこで誤りに誤りを重ねて、すかさず「人のために説かなかった法とは何か」と言った。南泉は「心でもなく、仏でもなく、物でもない」と言った。この男は天上の月を見ることに夢中になって、掌の中の珠を失ってしまった。

解説

第二十八則の本則に対する圜悟の評唱の冒頭である。圜悟はまず、即心か非心かという言い方も要らず、頭から足まで眉毛一本もない所に至ってようやくましだと言う。涅槃和尚は百丈山の西堂で、田を開けば大義を説くと言った法正禅師である。和尚の問いは答えにくく、圜悟なら耳を塞いで出て行くという。南泉は有ると答え、不是心・不是仏・不是物と言い表したが、圜悟はそれを天上の月を見て掌中の珠を失うものだと評した。高遠な理屈を追って、手元の大事を取りこぼしていないかを問われる一節である。

この章句が説くこと

掌中の珠表詮遮詮南泉法正分別公案

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