碧巌録 / 第二十五則
舉。蓮花峯庵主。拈拄杖示眾云古人到這裏。為什麼不肯住眾無語自代云。為他途路不得力復云。畢竟如何又自代云。楖[木*栗]橫擔不顧人。直入千峯萬峯去。
新字:舉。蓮花峯庵主。拈拄杖示衆云古人到這裏。為什麼不肯住衆無語自代云。為他途路不得力復云。畢竟如何又自代云。楖[木*栗]横担不顧人。直入千峯万峯去。
書き下し
挙す。蓮華峰庵主、拄杖を拈じて衆に示して云く、「古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる」。衆語無し。自ら代はって云く、「他の途路に力を得ざるが為なり」。復た云く、「畢竟如何」。又自ら代はって云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。
現代語訳
取り上げる。蓮華峰の庵主が拄杖を手に取って修行僧たちに示して言った。「古人はここに至って、なぜとどまろうとしなかったのか」。誰も答えなかった。庵主は自ら代わって言った。「旅の道中で役に立たないからだ」。また言った。「結局どうなのか」。また自ら代わって言った。「楖栗の杖を横ざまに担いで人を顧みず、まっすぐ千峰万峰の奥へ入って行く」。
解説
第二十五則の本則で、天台山の蓮華峰に庵を結んだ祥庵主の示衆である。庵主は拄杖を掲げ、古人はここに至ってなぜ住まらなかったのかと問い、誰も答えないので、道中で力にならないからだと自ら答える。さらに、杖を横に担いで人を顧みず千峰万峰に入って行くと結んだ。拄杖は修行者の頼りだが、悟りの境地に至ればそれさえ頼りにしない。築き上げた実績や地位も同じで、それに寄りかからず次の山へ向かう者だけが成長し続けるのである。杖を担いで山に入る姿は、次の挑戦へ向かう者の姿でもある。
この章句が説くこと
蓮華峰庵主拄杖千峰万峰執着自由公案
関連する章句
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『碧巌録』第二十五則諸人還た蓮華峰庵主を裁辨し得るや。脚跟も也た未だ地に点ぜざる在り。国初の時、天台の蓮華峰に在って庵を卓つ。古人既に道を得て後、茅茨石室の中、折脚の鐺児の内に、野菜の根を煮て喫して日を過ごす。且つ名利を求めず、放曠として縁に随ふ。一転語を垂れて、且つ仏祖の恩に報じ、仏の心印を伝へんことを要す。纔かに僧の来たるを見れば、便ち拄杖を拈じて云く、「古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる」。前後二十余年、終に一人の答へ得る無し。只だ這の一問、也た権有り実有り、照有り用有り。若也他の圏繢を知らば、一捏を消ひず。爾且く道へ、什麼に因ってか二十年此の如く問ふ。既に是れ宗師の所為ならば、何が故に只だ一橛を守る。若し箇裏に向かって見得せば、自然に情塵上に向かって走らず。
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『碧巌録』第二十五則這般の事、若し是れ通方の作者ならば、古人の実処に到って、自然に力を費やさず。他人の他底を搆へ得る無きを見て、復た自ら徴して云く、「畢竟如何」。又奈何ともし得ず。自ら云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。這箇の意又作麼生。且く道へ、什麼の処を指して地頭と為す。妨げず句中に眼有り、言外に意有ることを。自ら起き自ら倒れ、自ら放ち自ら収む。豈に見ずや、厳陽尊者、路に一僧に逢ひ、拄杖を拈起して云く、「是れ什麼ぞ」。僧云く、「識らず」。厳云く、「一条の拄杖も也た識らず」。厳復た拄杖を以て地上に劄すること一下して云く、「還た識るや」。僧云く、「識らず」。厳云く、「土窟子も也た識らず」。厳復た拄杖を以て担って云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。厳云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる。雪竇頌有り、云く、「誰か機に当たって挙して賺かざる、亦還た希なり。峭峻を摧残し、玄微を銷鑠す。重関曾て巨いに闢く、作者未だ同じく帰せず。玉兎乍ち円かに乍ち欠け、金烏飛ぶに似て飛ばず。盧老知らず何れの処にか去る、白雲流水共に依依たり」。什麼に因ってか山僧道ふ、「脳後に腮を見ば、与に往来すること莫れ」と。纔かに計較を作さば、便ち是れ黒山鬼窟裏に活計を作す。若し見得して徹し、信得して及ばば、千人万人も自然に羅籠すれども住まらず、奈何ともし得ず。動著し拶著すれば、自然に殺有り活有り。雪竇他の意を会して「直に千峰万峰に入り去る」と道ふ、方に始めて頌を成す。落処を知らんと要せば、看取せよ雪竇の頌に云く。
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『碧巌録』第二十五則且く爾諸人に問ふ、拄杖子は是れ衲僧の尋常用ふる底、什麼に因ってか却って途路に力を得ずと道ふ。古人此に到って住まることを肯ぜず。其の実、金屑貴しと雖も、眼に落つれば翳と成る。石室善道和尚、当時沙汰に遭ふ。常に拄杖を以て衆に示して云く、「過去の諸仏も也た恁麼、未来の諸仏も也た恁麼、現前の諸仏も也た恁麼」と。雪峰一日、僧堂の前に拄杖を拈じて衆に示して云く、「這箇は只だ中下根の人の為にす」。時に僧有り、出でて問うて云く、「忽ち上上の人の来たるに遇ふ時如何」。峰拄杖を拈じて便ち去る。雲門云く、「我は即ち雪峰の打破して狼籍なるに似ず」。僧問ふ、「未審し和尚如何」。雲門便ち打つ。大凡参問も也た許多の事無し。爾が外に山河大地有りと見、内に見聞覚知有りと見、上に諸仏の求むべき有りと見、下に衆生の度すべき有りと見るが為なり。直に須らく一時に吐却すべし。然る後、十二時中、行住坐臥、打して一片と成す。一毛頭上に在りと雖も、寛きこと大千沙界の若く、鑊湯炉炭の中に居すと雖も、安楽国土に在るが如く、七珍八宝の中に居すと雖も、茅茨蓬蒿の下に在るが如し。
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『碧巌録』第二十五則又云く、「眼裏に須弥山を著け得、耳裏に大海水を著け得。一般の漢有って、人の商量を受く。祖仏の言教、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。却って須らく鉢嚢を挑起し、拄杖を横担すべし。亦是れ一員の無事の道人なり」。復た云く、「恁麼も也た得ず、不恁麼も也た得ず。然る後交渉没し。三員の無事の道人の中、一人を選んで師と為さんと要す」。正に是れ這般の生鉄鋳就底の漢なり。何が故ぞ。或いは悪境界に遇ひ、或いは奇特の境界に遇ふも、他の面前に到れば、悉く皆夢の如くに相似たり。六根有ることを知らず、亦旦暮有ることを知らず。直饒ひ這般の田地に到るも、切に忌む寒灰死火を守って、黒漫漫の処に打入し去ることを。也た須らく是れ転身の一路有って始めて得べし。見ずや、古人道ふ、「寒巌に異草の青きを守ること莫れ。白雲に坐却せば宗妙ならず」と。所以に蓮華峰庵主道ふ、「他の途路に力を得ざるが為なり」と。直に須らく是れ千峰万峰に去って始めて得べし。且く道へ、什麼を喚んでか千峰万峰と作す。雪竇只だ他の「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」と道ふを愛す。所以に頌出す。且く道へ、什麼の処に向かってか去る。還た去処を知り得る者有りや。「落花流水太だ茫茫」。落花紛紛、流水茫茫、閃電の機、眼前是れ什麼ぞ。「眉毛を剔起して何れの処にか去る」。雪竇什麼と為てか也た他の去処を知らざる。只だ山僧適来払子を挙すと道ふが如き、且く道へ、即今什麼の処にか在る。爾諸人若し見得せば、蓮華峰庵主と同参ならん。其れ或いは未だ然らずんば、三条椽下、七尺単前に、試みに去って参詳し看よ。
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『碧巌録』第二十五則凡そ二十年中、多少の人有ってか、他と平展して語を下し見解を呈し、伎倆を做し尽くす。設ひ箇の道ひ得る有るも、也た他の極則の処に到らず。況んや此の事は言句の中に在らずと雖も、言句に非ざれば即ち辨ずること能はず。道ふを見ずや、「道は本言無し、言に因って道を顕す」と。所以に人の端的の処を験すに、口を下せば便ち音を知る。古人一言半句を垂るるも、亦他無し、只だ爾が有ることを知るか有ることを知らざるかを見んことを要す。他人の会せざるを見て、所以に自ら代はって云く、「他の途路に力を得ざるが為なり」。看よ他の道ひ得て、自然に理に契ひ機に契ふを。幾曾か宗旨を失却せん。古人云く、「言を承けては須らく宗を会すべし、自ら規矩を立つること勿れ」と。如今の人は只管に撞き将ち去って便ち了る。得ることは則ち得たるも、争奈せん顢頇儱侗なることを。若し作家の面前に到らば、三要の語を将って空に印し、泥に印し水に印して他を験さば、便ち方木の円孔に逗まって、下落の処無きを見ん。這裏に到って一箇の同得同証を討ぬるに、時に臨んで什麼の処に向かってか求めん。若し是れ有ることを知る底の人ならば、懐を開いて箇の消息を通ずるも、何の不可か有らん。若し人に遇はずんば、且く巻いて之を懐にせよ。
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『碧巌録』第二十五則垂示に云く、機位を離れずんば、毒海に堕在す。語群を驚かさずんば、流俗に陥る。忽若し石火を撃つ裏に緇素を別ち、閃電光の中に殺活を辨ぜば、以て十方を坐断し、壁立千仞なるべし。還た恁麼の時節有ることを知るや。試みに挙し看ん。
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