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碧巌録 / 第二十一則

智門若是應機接物。猶較些子。若是截斷眾流。千里萬里。且道這蓮花。出水與未出水。是一是二。若恁麼見得。許爾有箇入處。雖然如是。若道是一。顢頇佛性儱侗真如。若道是二。心境未忘落在解路上走有什麼歇期。且道古人意作麼生。其實無許多事。所以投子道爾但莫著名言數句。若了諸事自然不著即無許多位次不同。爾攝一切法。一切法攝爾不得。本無得失夢幻如許多名目不可強與他安立名字。誑諕爾諸人得麼。爾諸人問故所以有言。爾若不問。教我向爾道什麼即得。一切事。皆是爾將得來。都不干我事。

新字:智門若是応機接物。猶較些子。若是截断衆流。千里万里。且道這蓮花。出水与未出水。是一是二。若恁麼見得。許爾有箇入処。雖然如是。若道是一。顢頇仏性儱侗真如。若道是二。心境未忘落在解路上走有什麼歇期。且道古人意作麼生。其実無許多事。所以投子道爾但莫著名言数句。若了諸事自然不著即無許多位次不同。爾摂一切法。一切法摂爾不得。本無得失夢幻如許多名目不可強与他安立名字。誑諕爾諸人得麼。爾諸人問故所以有言。爾若不問。教我向爾道什麼即得。一切事。皆是爾将得来。都不干我事。

書き下し

智門若し是れ機に応じ物に接せば、猶ほ些子に較れり。若し是れ衆流を截断せば、千里万里。且く道へ、這の蓮花、水を出づると未だ水を出でざると、是れ一か是れ二か。若し恁麼に見得せば、爾に箇の入処有ることを許さん。是の如くなりと雖然も、若し是れ一と道はば、顢頇の仏性、儱侗の真如なり。若し是れ二と道はば、心境未だ忘ぜず、解路上に落在して走る、什麼の歇む期か有らん。且く道へ、古人の意作麼生。其の実許多の事無し。所以に投子道ふ、「爾但だ名言数句に著すること莫れ。若し諸事を了ぜば、自然に著せず、即ち許多の位次の不同無し。爾一切法を摂するも、一切法は爾を摂し得ず。本得失無く、夢幻の如し。許多の名目、強ひて他の与に名字を安立すべからず。爾諸人を誑諕して得んや。爾諸人問ふが故に、所以に言有り。爾若し問はずんば、我をして爾に向かって什麼をか道はしめて即ち得ん。一切の事、皆是れ爾が将ち得来たるなり。都て我が事に干らず」と。

現代語訳

智門の答えが、相手の機根に応じて人を導くためのものだというなら、まだ少しはましである。だがもしあらゆる流れを断ち切る一句だというなら、そんな見方とは千里万里も隔たっている。さあ言ってみよ。この蓮の花は、水から出たときと出ないときとで、一つなのか二つなのか。もしそのように見て取れるなら、お前に入り口があると認めよう。とはいえ、一つだと言えば、ぼんやりした仏性、あいまいな真如である。二つだと言えば、心と対象の区別がまだ消えず、理解の道筋に落ちて走り回ることになり、いつ止む時があろうか。さあ言え、古人の意図はどうなのか。実のところ、そんな多くの事はないのである。だから投子は言った。「お前はただ名称や言葉の数句に執着してはならない。もし物事を了解すれば、自然と執着せず、さまざまな段階の違いもなくなる。お前は一切の法を包むが、一切の法はお前を包むことができない。もともと得も失もなく、夢や幻のようなものだ。多くの名目について、無理に名前を立ててやってはならない。お前たちをだますことなどできようか。お前たちが問うから言葉があるのだ。お前が問わなければ、わしに何を言えというのか。一切の事は、みなお前が持ち込んできたものであり、わしの知ったことではない」と。

解説

第二十一則の本則に対する圜悟の評唱の冒頭である。圜悟は、蓮が水を出る前と後とは一つか二つかと問い詰め、一と言えば曖昧な仏性、二と言えば分別の道に落ちると両方を封じる。そのうえで投子大同の言葉を引き、名言に執着せず、問いを持ち込むのは自分自身だと示す。問題の多くは、答える側ではなく問う側の分け方から生まれているという指摘である。答えを外に求めるほど、問いは増えていく。職場で行き詰まったときも、まず自分の問いの立て方が状況を複雑にしていないかを見直すとよい。

この章句が説くこと

一と二投子名言分別執着公案

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