碧巌録 / 第十六則
對揚遭貶剝。則是一賓一主。一問一答。於問答處。便有貶剝。謂之對揚遭貶剝。雪竇深知此事。所以只向兩句下。頌了。末後只是落草。為爾注破。子母不相知。是誰同啐啄。母雖啄。不能致子之啐。子雖啐。不能致母之啄。各不相知。當啐啄之時。是誰同啐啄。若恁麼會。也出雪竇末後句。不得在。何故。不見香嚴道。子啐母啄。子覺無殼。子母俱忘。應緣不錯。同道唱和。妙玄獨脚。雪竇不妨落草。打葛藤道啄。此一字。頌鏡清答道還得活也無。覺。頌這僧道若不活遭人怪笑。為什麼雪竇却便道。猶在殼。雪竇向石火光中別緇素。閃電機裏辨端倪。鏡清道。也是草裏漢。雪竇道。重遭撲。者難處些子。是鏡清道也是草裏漢。喚作鏡清換人眼睛得麼。這句莫是猶在殼麼。且得沒交涉。那裏如此。若會得。繞天下行脚。報恩有分。山僧恁麼說話。也是草裏漢。天下衲僧徒名邈。誰不是名邈者。到這裏。雪竇自名邈不出。却更累他天下衲僧。且道鏡清作麼生是為這僧處。天下衲僧跳不出。
新字:対揚遭貶剥。則是一賓一主。一問一答。於問答処。便有貶剥。謂之対揚遭貶剥。雪竇深知此事。所以只向両句下。頌了。末後只是落草。為爾注破。子母不相知。是誰同啐啄。母雖啄。不能致子之啐。子雖啐。不能致母之啄。各不相知。当啐啄之時。是誰同啐啄。若恁麼会。也出雪竇末後句。不得在。何故。不見香厳道。子啐母啄。子覚無殼。子母倶忘。応縁不錯。同道唱和。妙玄独脚。雪竇不妨落草。打葛藤道啄。此一字。頌鏡清答道還得活也無。覚。頌這僧道若不活遭人怪笑。為什麼雪竇却便道。猶在殼。雪竇向石火光中別緇素。閃電機裏弁端倪。鏡清道。也是草裏漢。雪竇道。重遭撲。者難処些子。是鏡清道也是草裏漢。喚作鏡清換人眼睛得麼。這句莫是猶在殼麼。且得没交渉。那裏如此。若会得。繞天下行脚。報恩有分。山僧恁麼説話。也是草裏漢。天下衲僧徒名邈。誰不是名邈者。到這裏。雪竇自名邈不出。却更累他天下衲僧。且道鏡清作麼生是為這僧処。天下衲僧跳不出。
書き下し
対揚して貶剝に遭ふとは、則ち是れ一賓一主、一問一答、問答の処に於て便ち貶剝有り。之を対揚して貶剝に遭ふと謂ふ。雪竇深く此の事を知る。所以に只だ両句の下に向かつて頌し了る。末後は只だ是れ落草して、爾が為に注破す。子母相知らず、是れ誰か同じく啐啄す。母啄すと雖も、子の啐を致すこと能はず。子啐すと雖も、母の啄を致すこと能はず。各々相知らず。啐啄の時に当たつて、是れ誰か同じく啐啄す。若し恁麼に会せば、也た雪竇の末後の句を出で得ざること在り。何が故ぞ、見ずや香厳道ふ、子啐し母啄す、子覚して殻無し。子母倶に忘じて、縁に応じて錯らず。同道唱和して、妙玄独脚なりと。雪竇妨げず落草して葛藤を打して道ふ、啄と。此の一字は、鏡清の答へて還た活くることを得るやと道ふを頌す。覚は、這の僧の若し活きずんば人の怪笑に遭はんと道ふを頌す。什麼としてか雪竇却つて便ち猶ほ殻に在りと道ふ。雪竇石火光中に向かつて緇素を別ち、閃電機裏に端倪を弁ず。鏡清道ふ、也た是れ草裏の漢と。雪竇道ふ、重ねて撲に遭ふと。者の難き処些子あり。是れ鏡清の也た是れ草裏の漢と道ふを、喚んで鏡清人の眼睛を換ふと作して得んや。這の句莫是猶ほ殻に在りなるや。且つ没交渉なることを得たり。那裏か此の如くならん。若し会得せば、天下を繞りて行脚し、恩に報ずること分有り。山僧恁麼に説話するも、也た是れ草裏の漢。天下の衲僧徒らに名邈す。誰か是れ名邈せざる者ぞ。這裏に到つて、雪竇自ら名邈し出ださず、却つて更に他の天下の衲僧を累はす。且く道へ、鏡清作麼生か是れ這の僧の為にする処。天下の衲僧跳り出でず。
現代語訳
「向き合って応じれば叩きのめされる」とは、客と主、問いと答えがあって、問答のところですぐさま叩きのめすことがある、これを「向き合って応じれば叩きのめされる」という。雪竇はこのことを深く知っていた。だからただ二句のもとで頌し尽くした。そのあとはただ草の中に降りて、お前たちのために注を付けて解き明かしたのである。「子と母は互いに知らない、いったい誰がともにつつくのか」。母がつついても、子のつつきを引き起こすことはできない。子がつついても、母のつつきを引き起こすことはできない。それぞれ互いに知らない。つつき合うそのときに、いったい誰がともにつついているのか。もしこのように理解しても、やはり雪竇の最後の句を抜け出ることはできない。なぜか。香厳が言っているではないか。「子がつつき母がつつき、子が目覚めれば殻はない。子も母もともに忘れ、縁に応じて誤らない。同じ道で唱和し、妙玄は一本足で立つ」と。雪竇はなかなか草の中に降りて、言葉をもつれさせて「啄」と言った。この一字は鏡清が「それで生きて出られるのか」と答えたところを頌している。「覚」は、この僧が「もし生きて出られなければ、人に笑われましょう」と言ったところを頌している。なぜ雪竇はかえってすぐ「なお殻の中にいる」と言ったのか。雪竇は火打ち石の火花の中で黒白を分け、稲妻の働きの中で糸口を見分けている。鏡清は「お前もやはり草むらの中の奴だ」と言い、雪竇は「重ねて打ちのめされる」と言った。ここに少し難しいところがある。鏡清が「やはり草むらの中の奴だ」と言ったのを、鏡清が人の眼玉をすげ替えたのだと言ってよいか。この句がつまり「なお殻の中にいる」ということなのか。まったく関わりがない。どこがそうなのか。もしわかれば、天下を巡って行脚し、恩に報いる資格がある。わたしがこのように話すのも、やはり草むらの中の奴である。「天下の禅僧はいたずらに名をつけ形を描くばかり」。名をつけ形を描かない者が誰かいようか。ここに至って、雪竇は自分では名をつけ形を描き出すことができず、かえって天下の禅僧を巻き込んでいる。さあ言ってみよ、鏡清がこの僧のためにしてやったところはどこか。天下の禅僧も跳び出ることはできない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第十六則鏡清、雪峰に承嗣し、本仁・玄沙・疎山・太原孚の輩と同時なり。初め雪峰に見えて旨を得て後、常に啐啄の機を以て後学を開示す。善く能く機に応じて法を説く。衆に示して云く、大凡そ行脚の人は、須らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用有りて、方に衲僧と称すべし。母の啄せんと欲するが如きは、子啐せざることを得ず。子の啐せんと欲するは、母啄せざることを得ず。僧有りて便ち出でて問ふ、母啄し子啐す、和尚の分上に於て、箇の什麼辺の事をか成し得ん。清云く、好箇の消息。僧云く、子啐し母啄す、学人の分上に於て、箇の什麼辺の事をか成し得ん。清云く、箇の面目を露はす。所以に鏡清の門下に啐啄の機有り。這の僧も亦た是れ他の門下の客、他の家裏の事を会す。所以に此の如く問ふ。
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『碧巌録』第十六則学人啐す、請ふ師啄せよ。此の問、洞下には之を借事明機と謂ふ。那裏か此の如くならん。子啐して母啄す、自然に恰好同時なり。鏡清も也た好し、拳踢相応じ、心眼相照らすと謂ひつべし。便ち答へて道ふ、還た活くることを得るや。其の僧も也た好し、亦た機変を知る。一句の下に賓有り主有り、照有り用有り、殺有り活有り。僧云く、若し活きずんば人の怪笑に遭はん。清云く、也た是れ草裏の漢。一等に是れ泥に入り水に入る。鏡清妨げず悪脚手なることを。這の僧既に恁麼に問ふことを会す、什麼としてか却つて也た是れ草裏の漢と道ふ。所以に作家の眼目は、須らく是れ恁麼なるべし。石火を撃つが如く、閃電光に似たり。構得するも構得せざるも、未だ身を喪ひ命を失することを免れず。若し恁麼ならば、便ち鏡清の草裏の漢と道ふを見ん。
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『碧巌録』第十六則挙す。僧、鏡清に問ふ、学人啐す、請ふ師啄せよ。清云く、還た活くることを得るや。僧云く、若し活きずんば人の怪笑に遭はん。清云く、也た是れ草裏の漢。
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『碧巌録』第四十二則「雪団打、雪団打、龐老の機関把るべき没し」。雪竇は居士の頭上に在つて行かんことを要す。古人雪を以て一色辺の事を明かす。雪竇の意に道ふ、当時若し雪団を握つて打たば、居士縦ひ如何なる機関有るも、亦た搆へ得難しと。雪竇自ら他の打処を誇る。殊に知らず落節の処有ることを。「天上人間自ら知らず、眼裏耳裏絶えて瀟灑」。眼裏も也た是れ雪、耳裏も也た是れ雪、正に一色辺に住在す。亦た之を普賢境界一色辺の事と謂ひ、亦た之を打成一片と謂ふ。雲門道ふ、「直に尽乾坤大地、繊毫の過患無きことを得るも、猶ほ転句と為す。一色を見ざる、始めて是れ半提。若し全提を要せば、須らく向上の一路有ることを知りて始めて得べし」。這裏に到つて須らく是れ大用現前して、針箚せども入らず、他人の処分を聴かざるべし。所以に道ふ、「他は活句に参じて、死句に参ぜず」。古人道ふ、「一句合頭の語、万劫の繋驢橛」。什麼の用処か有らん。雪竇此に到つて頌殺し了つて、復た機を転じて道ふ、「只だ此の瀟灑絶、直饒是れ碧眼の胡僧も也た弁別し難し」。碧眼の胡僧すら尚ほ弁別し難し、更に山僧をして箇の什麼をか説かしめん。
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『碧巌録』第十六則古仏家風有り、対揚して貶剝に遭ふ。子母相知らず、是れ誰か同じく啐啄す。啄。覚。猶ほ殻に在り。重ねて撲に遭ふ。天下の衲僧徒らに名邈す。古仏家風有り。雪竇一句に頌し了れり。凡そ是れ頭を出だし来たれば、直に是れ近傍し得ず。若し近傍著せば、則ち万里の崖州。纔かに頭を出だし来たれば、便ち是れ落草。直饒七縦八横なるも、一揑を消ひず。雪竇道ふ、古仏家風有りと。是れ如今恁麼なるにあらず。釈迦老子、初めて生まれ下り来たるとき、一手は天を指し、一手は地を指し、目四方を顧みて云く、天上天下、唯我独尊。雲門道ふ、我当時若し見ば、一棒に打殺して狗子に与へて喫却せしめ、貴ぶらくは天下太平ならんことを要すと。此の如くにして方に酬い得て恰好なり。所以に啐啄の機は、皆是れ古仏の家風なり。若し此の道に達する者は、便ち一拳に黄鶴楼を拳倒し、一踢に鸚鵡洲を踢翻すべし。大火聚の如し、之に近づけば則ち面門を燎却す。太阿剣の如し、之を擬すれば則ち身を喪ひ命を失す。此箇唯だ是れ大解脱を透脱し得る者のみ、方に能く此の如し。苟或し源に迷ひ句に滞らば、決定して這般の説話を搆へ得ず。
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『碧巌録』第二十五則這般の事、若し是れ通方の作者ならば、古人の実処に到って、自然に力を費やさず。他人の他底を搆へ得る無きを見て、復た自ら徴して云く、「畢竟如何」。又奈何ともし得ず。自ら云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。這箇の意又作麼生。且く道へ、什麼の処を指して地頭と為す。妨げず句中に眼有り、言外に意有ることを。自ら起き自ら倒れ、自ら放ち自ら収む。豈に見ずや、厳陽尊者、路に一僧に逢ひ、拄杖を拈起して云く、「是れ什麼ぞ」。僧云く、「識らず」。厳云く、「一条の拄杖も也た識らず」。厳復た拄杖を以て地上に劄すること一下して云く、「還た識るや」。僧云く、「識らず」。厳云く、「土窟子も也た識らず」。厳復た拄杖を以て担って云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。厳云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる。雪竇頌有り、云く、「誰か機に当たって挙して賺かざる、亦還た希なり。峭峻を摧残し、玄微を銷鑠す。重関曾て巨いに闢く、作者未だ同じく帰せず。玉兎乍ち円かに乍ち欠け、金烏飛ぶに似て飛ばず。盧老知らず何れの処にか去る、白雲流水共に依依たり」。什麼に因ってか山僧道ふ、「脳後に腮を見ば、与に往来すること莫れ」と。纔かに計較を作さば、便ち是れ黒山鬼窟裏に活計を作す。若し見得して徹し、信得して及ばば、千人万人も自然に羅籠すれども住まらず、奈何ともし得ず。動著し拶著すれば、自然に殺有り活有り。雪竇他の意を会して「直に千峰万峰に入り去る」と道ふ、方に始めて頌を成す。落処を知らんと要せば、看取せよ雪竇の頌に云く。
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