碧巌録 / 第十五則
垂示云。殺人刀活人劍。乃上古之風規。是今時之樞要。且道。如今那箇是。殺人刀活人劍。試舉看。
新字:垂示云。殺人刀活人剣。乃上古之風規。是今時之枢要。且道。如今那箇是。殺人刀活人剣。試舉看。
書き下し
垂示に云く、殺人刀、活人剣は、乃ち上古の風規、是れ今時の枢要なり。且く道へ、如今那箇か是れ殺人刀、活人剣。試みに挙す看よ。
現代語訳
垂示にいう。人を殺す刀、人を活かす剣は、古来の作法であり、今の時代の要である。さあ言ってみよ、今どれが人を殺す刀で、どれが人を活かす剣か。試みに挙げてみるから、見よ。
解説
第十五則の前に圜悟が置いた垂示で、第十二則の垂示と同じく殺人刀と活人剣を掲げる。殺人刀とは迷いや思い込みを断ち切る働き、活人剣とはその後に人を生かして立たせる働きを指す。ここでは長い説明を省き、今どれが殺人刀でどれが活人剣かと端的に問う。本則の倒一説は、前則の対一説をひっくり返した答えであり、同じ雲門が一字の違いで断つことも生かすこともしてみせる。人を指導する場面でも、厳しく断つ言葉と励まして立たせる言葉の両方が要る。どちらを今使うべきかを見極めることが、指導の要だと垂示は言う。
この章句が説くこと
垂示殺活雲門指導公案言葉
関連する章句
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『碧巌録』第八十八則玄沙、参じて情塵意想を絶し、浄裸裸、赤灑灑地なる処に到つて、方に恁麼に道ふことを解す。是の時諸方、列刹相ひ望む。尋常衆に示して道ふ、「諸方の老宿、尽く接物利生と道ふ。忽ち三種の病人の来るに遇ふ時、作麼生か接せん。患盲の者は、鎚を拈じ払を竪つるも他又た見ず。患聾の者は、語言三昧も他又た聞かず。患啞の者は、他をして説かしむるも又た説き得ず。且く作麼生か接せん。若し此の人を接し得ずんば、仏法に霊験無し」と。如今の人、若し盲聾瘖啞の会を作さば、卒に摸索不著ならん。所以に道ふ、「句中に向つて死却すること莫れ」と。須らく是れ他の玄沙の意を会して始めて得べし。玄沙常に此の語を以て人に接す。僧有り、久しく玄沙の処に在り。一日上堂す。僧、和尚に問うて云く、「三種病人の話、還た学人の道理を説くことを許すや也た無しや」。玄沙云く、「許す」。僧便ち珍重して下り去る。沙云く、「不是、不是」。這の僧は他の玄沙の意を会得す。後来法眼云く、「我れ地蔵和尚の這の僧の語を挙するを聞いて、方に三種病人の話を会す」と。若し這の僧会せずと道はば、法眼什麼と為てか却つて恁麼に道ふ。若し他会すと道はば、玄沙什麼と為てか却つて「不是、不是」と道ふ。一日地蔵道ふ、「某甲聞く、和尚に三種病人の話有りと、是なりや否や」。沙云く、「是なり」。蔵云く、「珪琛、現に眼耳鼻舌有り、和尚作麼生か接せん」。玄沙便ち休し去る。若し玄沙の意を会得せば、豈に言句上に在らんや。他の会する底は自然に殊別なり。
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