碧巌録 / 第一則
且道。達磨在什麼處。若見達磨。便見雪竇末後為人處。雪竇恐怕人逐情見。所以撥轉關捩子。出自己見解云。休相憶。清風匝地有何極。既休相憶。爾脚跟下事。又作麼生。雪竇道。即今箇裏匝地清風。天上天下有何所極。雪竇拈千古萬古之事。拋向面前。非止雪竇當時有何極。爾諸人分上亦有何極。他又怕人執在這裏。再著方便高聲云。這裏還有祖師麼。自云有。雪竇到這裏。不妨為人。赤心片片。又自云。喚來與老僧洗脚。太殺減人威光。當時也好。與本分手脚。且道。雪竇意在什麼處。到這裏。喚作驢則是。喚作馬則是。喚作祖師則是。如何名邈。往往喚作雪竇使祖師去也。且喜沒交涉。且道。畢竟作麼生。只許老胡知。不許老胡會。
新字:且道。達磨在什麼処。若見達磨。便見雪竇末後為人処。雪竇恐怕人逐情見。所以撥転関捩子。出自己見解云。休相憶。清風匝地有何極。既休相憶。爾脚跟下事。又作麼生。雪竇道。即今箇裏匝地清風。天上天下有何所極。雪竇拈千古万古之事。抛向面前。非止雪竇当時有何極。爾諸人分上亦有何極。他又怕人執在這裏。再著方便高声云。這裏還有祖師麼。自云有。雪竇到這裏。不妨為人。赤心片片。又自云。喚来与老僧洗脚。太殺減人威光。当時也好。与本分手脚。且道。雪竇意在什麼処。到這裏。喚作驢則是。喚作馬則是。喚作祖師則是。如何名邈。往往喚作雪竇使祖師去也。且喜没交渉。且道。畢竟作麼生。只許老胡知。不許老胡会。
書き下し
且く道へ、達磨什麼の処にか在る。若し達磨を見ば、便ち雪竇末後人の為にする処を見ん。雪竇人の情見を逐はんことを恐怕るる、所以に関捩子を撥転して、自己の見解を出して云く、「相憶ふことを休めよ、清風地に匝くして何の極まりか有らん」。既に相憶ふことを休めば、爾が脚跟下の事、又作麼生。雪竇道ふ、即今箇裏匝地の清風、天上天下何の極まる所か有らん。雪竇千古万古の事を拈じて、面前に抛向す。止だ雪竇当時何の極まりか有るのみに非ず、爾諸人の分上も亦た何の極まりか有らん。他又人の這裏に執在せんことを怕れて、再び方便を著けて高声に云く、「這裏に還た祖師有りや」。自ら云く、「有り」。雪竇這裏に到つて、妨げず人の為にすることを、赤心片片たり。又自ら云く、「喚び来つて老僧の与に脚を洗はしめん」。太殺だ人の威光を減ず。当時也た好し、本分の手脚を与へんには。且く道へ、雪竇の意什麼の処にか在る。這裏に到つて、喚んで驢と作すも則ち是、喚んで馬と作すも則ち是、喚んで祖師と作すも則ち是。如何が名邈せん。往往に喚んで雪竇祖師を使ひ去ると作す。且喜すらくは没交渉。且く道へ、畢竟作麼生。只だ老胡の知ることを許して、老胡の会することを許さず。
現代語訳
さあ言ってみよ、達磨はどこにいるのか。もし達磨が見えるなら、雪竇が最後に人のためにしたところも見えるだろう。雪竇は人が情に流れた見方を追いかけるのを恐れたので、からくりの要をひっくり返し、自分の見解を出して言った。「思い慕うのはやめよ。清らかな風が大地をめぐって、どこに果てがあろうか」。思い慕うのをやめたなら、お前の足もとのことはどうなのか。雪竇は言う。今ここで大地をめぐる清風は、天上天下どこに果てがあろうか、と。雪竇は千年万年の事を取り上げて、目の前に放り出したのだ。雪竇のその時だけに果てがないのではない。お前たち一人ひとりにおいても、どこに果てがあろうか。彼はまた人がここに執着するのを恐れて、さらに方便を加え、声高に言った。「ここにまだ祖師はいるか」。自ら言った。「いる」。雪竇はここに至って、まことに人のためにしており、真心がこもっている。さらに自ら言った。「呼んで来て、わしの足を洗わせよう」。ひどく人の威光を減じたものだ。あのときは、本分の手並みを見せてやればよかった。さあ言ってみよ、雪竇の意はどこにあるのか。ここに至っては、驢馬と呼んでもよく、馬と呼んでもよく、祖師と呼んでもよい。どう名づけ描けようか。しばしば「雪竇が祖師をこき使った」と解する。まったく見当違いである。さあ言ってみよ、結局どうなのか。ただ老胡(達磨)が知ることは許すが、老胡が分別でわかることは許さない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第一則聖諦廓然、何当か的を弁ぜん。朕に対する者は誰そ、還た云ふ不識と。茲に因つて暗に江を渡る、豈に荊棘を生ずることを免れんや。闔国の人追へども再び来らず、千古万古空しく相憶ふ。相憶ふことを休めよ、清風地に匝くして何の極まりか有らん。師、左右を顧視して云く、「這裏に還た祖師有りや」。自ら云く、「有り。喚び来つて老僧の与に脚を洗はしめん」。
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『碧巌録』第一則雪竇道ふ、「爾天下の衲僧、何当か的を弁ぜん」。「朕に対する者は誰そ」、箇の「還た云ふ不識」を著く。此れは是れ雪竇忒殺老婆にして、重重に人の為にする処なり。且く道へ、廓然と不識と、是れ一般か両般か。若し是れ了底の人の分上ならば、言はずして諭らん。若し是れ未了底の人ならば、決定して打して両橛と作さん。諸方尋常皆道ふ、「雪竇重ねて拈ずること一遍」と。殊に知らず、四句に公案を頌し尽し了つて、後に慈悲の故に、事跡を頌出することを。「茲に因つて暗に江を渡る、豈に荊棘を生ずることを免れんや」。達磨本と茲の土に来つて、人の与に粘を解き縛を去り、釘を抽き楔を抜き、荊棘を剗除す。因何ぞ却つて荊棘を生ずと道ふ。止だ当時のみに非ず、諸人即今脚跟下、已に深きこと数丈なり。「闔国の人追へども再び来らず、千古万古空しく相憶ふ」。可殺だ丈夫ならず。
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『碧巌録』第四十七則雪竇善く能く無縫罅の処に於いて、眼目を出だして頌出し、人をして見せしむ。雲門道ふ、「六不収」。雪竇什麼としてか却つて道ふ、「一二三四五六」。直に是れ碧眼の胡僧も也た数へて足らず。所以に道ふ、「只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず」。須らく是れ他の屋裏の児孫に還して始めて得べし。適来道ふ、「一言一句、時に応じ節に応ず」。若し透得し去らば、方に道の言句の中に在らざることを知らん。其れ或いは未だ然らずんば、情解を作すことを免れず。五祖老師道ふ、「釈迦牟尼仏は下賤の客作児、庭前の柏樹子、一二三四五」。若し雲門の言句の下に向かつて諦当に見得せば、相次いで這の境界に到らん。「少林謾りに道ふ神光に付すと」。二祖、始め神光と名づく。後来に至るに及んで、又道ふ「天竺に帰る」と。達磨は熊耳山の下に葬らる。時に宋雲、使を奉じて西より帰り、西嶺に在つて達磨の手に隻履を携へて西天に帰り去るを見る。使回つて奏聖す。墳を開けば惟だ遺下せる一隻の履を見るのみ。雪竇道ふ、其の実此の事作麼生か分付せん。既に分付無くんば、「衣を巻いて又説く天竺に帰ると」。且く道へ、什麼としてか此の土に却つて二三有つて、遞相に恁麼に伝へ来たる。這裏妨げず誵訛なることを。也た須らく是れ搆へ得て始めて入作すべし。「天竺茫茫として尋ぬるに処無し、夜来却つて乳峰に対して宿す」。且く道へ、即今什麼の処にか在る。師便ち打つて云く、「瞎」。
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『碧巌録』第十七則一箇両箇千万箇、籠頭を脱却し角馱を卸す。左転右転して随後に来たる、紫胡劉鉄磨を打たんと要す。雪竇直下に石火を撃つが如く、閃電光に似たり。拶出し放ちて爾をして見せしむ。聊か挙著するを聞いて便ち会して始めて得ん。也た妨げず是れ他の屋裏の児孫なることを、方に能く恁麼に道ふ。若し能く直下に便ち恁麼に会し去らば、妨げず奇特なることを。一箇両箇千万箇、籠頭を脱却し角馱を卸す。灑灑落落として、生死に染められず、聖凡の情解に縛せられず。上に攀仰無く、下に己躬を絶す。一に他の香林・雪竇の如くに相似たり。何ぞ止だ只だ是れ千万箇のみならん。直に尽大地の人、悉く皆此の如くなることを得。前仏後仏も、也た悉く皆此の如し。苟或し言句の中に於て解会を作さば、便ち紫胡の劉鉄磨を打たんと要するに似て相似たり。其の実纔かに挙すれば、和声に便ち打つ。紫胡、南泉に参じ、趙州・岑大虫と同参なり。時に劉鉄磨、溈山の下に在りて庵を卓つ。諸方皆他を柰何ともせず。一日紫胡得得として去きて訪うて云く、便ち是れ劉鉄磨なること莫しや。磨云く、不敢。胡云く、左転か右転か。磨云く、和尚顛倒すること莫かれ。胡和声に便ち打つ。香林這の僧の如何なるか是れ祖師西来の意と問ふに答へて、却つて云く、坐すること久しうして労を成すと。若し恁麼に会し得ば、左転右転して随後に来たらん。且く道へ、雪竇此の如く頌出す、意作麼生。無事好し。試みに請ふ挙す看よ。
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『碧巌録』第二十七則凡そ言を出し気を吐くには、須らく是れ鉗の如く鋏の如く、鉤有り鎖有るべし。須らく是れ相続して断えずして始めて得べし。這の僧の問処に宗旨有り、雲門の答処も亦然り。雲門は尋常三句を以て人を接す、此れは是れ極則なり。雪竇の這の公案を頌する、大龍の公案を頌するに相類す。「三句辨ずべし」、一句の中に三句を具す。若し辨得せば則ち三句の外に透出す。「一鏃空を遼かにす」、鏃は乃ち箭鏃なり。射得て太だ遠し、須らく是れ急に眼を著けて看て始めて得べし。若也見得て分明ならば、以て一句の下に大千沙界を開展すべし。此に到って頌し了って、雪竇余才有り、所以に展開して頌出して道ふ、「大野、涼飈颯颯、長天、疎雨濛濛」と。且く道へ、是れ心か是れ境か、是れ玄か是れ妙か。古人道ふ、「法法隠蔵せず、古今常に顕露す」と。他問ふ、「樹凋み葉落つる時如何」。雲門道ふ、「体露金風」。雪竇の意は只だ一境と作す。如今眼前、風拂拂地、是れ東南の風にあらずんば、便ち是れ西北の風。直に須らく便ち恁麼に会して始めて得べし。爾若し更に禅道の会を作さば、便ち交渉没し。「君見ずや、少林に久しく坐して未だ帰らざる客」。達磨未だ西天に帰らざる時、九年面壁して静悄悄地。且く道へ、是れ樹凋み葉落つるか、且く道へ、是れ体露金風か。若し這裏に向かって、尽古今の凡聖、乾坤大地を打して一片と成さば、方に雲門・雪竇の的的たる為人の処を見ん。「静かに熊耳の一叢叢に依る」。熊耳は即ち西京嵩山の少林なり。前山も也た千叢万叢、後山も也た千叢万叢。諸人什麼の処に向かってか見る。還た雪竇の為人の処を見るや。也た是れ霊亀の尾を曳くなり。
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『碧巌録』第二十則雪竇復た拈じて云く、這の老漢也た未だ勦絶することを得ず。復た一頌を成す。盧公付し了りて亦た何をか憑まん、坐倚して祖灯を継ぐことを将ゐること休めよ。堪対す暮雲の帰りて未だ合せざるに、遠山限り無く碧層層。盧公付し了りて亦た何をか憑まん。何の憑拠か有る。直に須らく這裏に向かつて恁麼に会し去るべし。更に株を守りて兎を待つこと莫かれ。髑髏前に一時に打破して、一点の事の胸中に在る無く、放ちて灑灑落落地ならしむ。又何ぞ必ずしも憑むことを要せん。或いは坐し或いは倚る、仏法の道理を作すことを消ひず。所以に道ふ、坐倚して祖灯を継ぐことを将ゐること休めよと。雪竇一時に拈じ了れり。他に箇の転身の処有り、末後に自ら箇の消息を露はす。些子の好き処有りて道ふ、堪対す暮雲の帰りて未だ合せざるにと。且く道へ、雪竇の意什麼の処にか在る。暮雲帰りて合せんと欲して未だ合せざる時、爾道へ作麼生。遠山限り無く碧層層。旧に依りて鬼窟裏に打入し去る。這裏に到りて得失是非、一時に坐断して灑灑落落たらば、始めて些子に較れり。遠山限り無く碧層層。且く道へ、是れ文殊の境界か、是れ普賢の境界か、是れ観音の境界か。此に到りて且く道へ、是れ什麼人の分上の事ぞ。
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