兵法家伝書 / 新陰流外物進履橋弓を持つ者に掛る
弓を持たる者に掛り樣同切所の事 一 弓を持たる者五六間より遠く候ては弓もあたりかね、又ぬけも少くさのみやうまへ少キ物の由申傳候。尤弓も弓により鐵炮におとらぬ程のせひ兵も可有之候得共、先左樣成は十人に一人も有る無しに候。都べて五間十間にて如形に射合候者少く候。ヶ樣の弓に立相候時の義に候。十間十五間の間にて放候矢は、中り候儀も稀に、又射中て候てもうらかく程の事は中々難有候。亦一の矢を放二の矢をつがひ候時は、此方も近く寄候故、いよ〱あはて放に候へば、猶以ておそるゝにたらず候。然時は弓武者にかゝる折は、左右共に身をひとへになし矢つぼ少キ樣の心持にてひたとかゝり、刀脇指はかの矢留めの時の心持のごとく、兩腰を打違楯につきむざ〱とかゝるものにて候。然る時は總ての人の身幅四寸とは申ならはし候得ども外を取候て五寸に致、其內に兩腰等有之儀候へば、矢つぼ殊の外少く候。殊にあはて放の矢に候へば、射中て候儀十をに三にて候。此上は運次第の儀候得ばひた〱とかゝり、持候弓をさへ切候はゞ頼たる弓をきられ氣をくれ太刀打に成候へば勝能ものゝ由申傳候。
新字:弓を持たる者に掛り様同切所の事 一 弓を持たる者五六間より遠く候ては弓もあたりかね、又ぬけも少くさのみやうまへ少キ物の由申伝候。尤弓も弓により鉄炮におとらぬ程のせひ兵も可有之候得共、先左様成は十人に一人も有る無しに候。都べて五間十間にて如形に射合候者少く候。ヶ様の弓に立相候時の義に候。十間十五間の間にて放候矢は、中り候儀も稀に、又射中て候てもうらかく程の事は中々難有候。亦一の矢を放二の矢をつがひ候時は、此方も近く寄候故、いよ〱あはて放に候へば、猶以ておそるゝにたらず候。然時は弓武者にかゝる折は、左右共に身をひとへになし矢つぼ少キ様の心持にてひたとかゝり、刀脇指はかの矢留めの時の心持のごとく、両腰を打違楯につきむざ〱とかゝるものにて候。然る時は総ての人の身幅四寸とは申ならはし候得ども外を取候て五寸に致、其内に両腰等有之儀候へば、矢つぼ殊の外少く候。殊にあはて放の矢に候へば、射中て候儀十をに三にて候。此上は運次第の儀候得ばひた〱とかゝり、持候弓をさへ切候はゞ頼たる弓をきられ気をくれ太刀打に成候へば勝能ものゝ由申伝候。
書き下し
弓を持たる者に掛り樣同切所の事 一 弓を持たる者五六間より遠く候ては弓もあたりかね、又ぬけも少くさのみやうまへ少キ物の由申傳候。尤弓も弓により鐵炮におとらぬ程のせひ兵も可有之候得共、先左樣成は十人に一人も有る無しに候。都べて五間十間にて如形に射合候者少く候。ヶ樣の弓に立相候時の義に候。十間十五間の間にて放候矢は、中り候儀も稀に、又射中て候てもうらかく程の事は中々難有候。亦一の矢を放二の矢をつがひ候時は、此方も近く寄候故、いよ〱あはて放に候へば、猶以ておそるゝにたらず候。然時は弓武者にかゝる折は、左右共に身をひとへになし矢つぼ少キ樣の心持にてひたとかゝり、刀脇指はかの矢留めの時の心持のごとく、兩腰を打違楯につきむざ〱とかゝるものにて候。然る時は總ての人の身幅四寸とは申ならはし候得ども外を取候て五寸に致、其內に兩腰等有之儀候へば、矢つぼ殊の外少く候。殊にあはて放の矢に候へば、射中て候儀十をに三にて候。此上は運次第の儀候得ばひた〱とかゝり、持候弓をさへ切候はゞ頼たる弓をきられ氣をくれ太刀打に成候へば勝能ものゝ由申傳候。
現代語訳
弓を持つ者に掛かり様、同じく切る所のこと。一、弓を持った者は、五六間より遠くなると弓も当たりかね、また抜けも少なく、さほど矢前は強くないという言い伝えである。もっとも弓も弓により、鉄砲に劣らないほど強い兵もいようが、そのような者は十人に一人もいるかどうかである。総じて五間・十間で形のとおりに射合う者は少ない。このような弓に立ち会う場合のことである。十間・十五間の間で放った矢は当たることも稀で、また射当てても裏をかくほどのことはなかなかない。また一の矢を放って二の矢をつがえるときは、こちらも近く寄っているので、いよいよ慌てて放つから、いっそう恐れるに足りない。そうであれば、弓武者に掛かるときは、左右とも身を一重にして矢壺を小さくするつもりで、ひたと掛かり、刀・脇指は例の矢留めのときの心持ちのように、両腰を打ち違えて楯について、むざむざと掛かるものである。そうすれば、すべての人の身幅は四寸と言い習わしているけれども、外を取って五寸とし、その内に両腰などがあるので、矢壺は殊のほか小さい。ことに慌てて放つ矢であるから、射当てることは十に三である。このうえは運しだいのことであるから、ひたひたと掛かり、持っている弓さえ切れば、頼みの弓を切られて気をくれ、太刀打ちになれば勝ちやすいものだと言い伝えている。
解説
この章句が説くこと
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