配所残筆 / 配所殘筆4
同年より歌學を好、廿歲迄の內に源氏物語殘承候、源語秘訣迄も令相傳候、伊勢物語、大和物語、枕草紙、萬葉集、百人一首三部抄、三代集迄、廣田坦齋相傳仕候、依之源氏私抄、萬葉枕草紙三代集等之私抄注解大方撰述仕候て、詠歌に志ふかく、一年に千首の和歌を詠候得ども、存候仔細有之、其後は捨置候、今以右廣田坦齋方より歌學の儀も不殘相傳仕候段書付御座候、尤職原抄官位の次第道春講釋に不承座候、其後是又坦齋に具に承候て、猶合點不參候所は菊亭大納言殿へ申上候て、大納言殿より被染御筆、一々の口傳御書付被下候、此段人々存候事に候、就は我等に職原を傳授仕候者數多候、若年の時より湫兵右衞門殿、小栗仁右衞門殿御取持にて、紀伊大納言樣へ七拾人扶持被下置被召出、御小姓近習に可被召之由御約束にて、頓て御目見の用意仕候、內證者岡野權右衞門殿萬事御取持候、其節阿部豐後守殿被及聞、卽尾畑勘兵衞殿、北條安房守殿被成御賴、我等を御抱被成度由被仰候へ共、右之御先約故御斷申上候、然る所大納言樣御事豐後守殿御抱有之度由被成御聞、布施佐五右衞門殿爲御使者兵右衞門殿仁右衞門殿迄被仰出候は、豐後守殿御抱有之度由御申者を、大納言樣へ御引取被成候段、御遠慮に思召され候、
新字:同年より歌学を好、廿歳迄の内に源氏物語残承候、源語秘訣迄も令相伝候、伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集、百人一首三部抄、三代集迄、広田坦斎相伝仕候、依之源氏私抄、万葉枕草紙三代集等之私抄注解大方撰述仕候て、詠歌に志ふかく、一年に千首の和歌を詠候得ども、存候仔細有之、其後は捨置候、今以右広田坦斎方より歌学の儀も不残相伝仕候段書付御座候、尤職原抄官位の次第道春講釈に不承座候、其後是又坦斎に具に承候て、猶合点不参候所は菊亭大納言殿へ申上候て、大納言殿より被染御筆、一々の口伝御書付被下候、此段人々存候事に候、就は我等に職原を伝授仕候者数多候、若年の時より湫兵右衛門殿、小栗仁右衛門殿御取持にて、紀伊大納言様へ七拾人扶持被下置被召出、御小姓近習に可被召之由御約束にて、頓て御目見の用意仕候、内証者岡野権右衛門殿万事御取持候、其節阿部豊後守殿被及聞、即尾畑勘兵衛殿、北条安房守殿被成御頼、我等を御抱被成度由被仰候へ共、右之御先約故御断申上候、然る所大納言様御事豊後守殿御抱有之度由被成御聞、布施佐五右衛門殿為御使者兵右衛門殿仁右衛門殿迄被仰出候は、豊後守殿御抱有之度由御申者を、大納言様へ御引取被成候段、御遠慮に思召され候、
書き下し
同年より歌學を好、廿歲迄の內に源氏物語殘承候、源語秘訣迄も令相傳候、伊勢物語、大和物語、枕草紙、萬葉集、百人一首三部抄、三代集迄、廣田坦齋相傳仕候、依之源氏私抄、萬葉枕草紙三代集等之私抄注解大方撰述仕候て、詠歌に志ふかく、一年に千首の和歌を詠候得ども、存候仔細有之、其後は捨置候、今以右廣田坦齋方より歌學の儀も不殘相傳仕候段書付御座候、尤職原抄官位の次第道春講釋に不承座候、其後是又坦齋に具に承候て、猶合點不參候所は菊亭大納言殿へ申上候て、大納言殿より被染御筆、一々の口傳御書付被下候、此段人々存候事に候、就は我等に職原を傳授仕候者數多候、若年の時より湫兵右衞門殿、小栗仁右衞門殿御取持にて、紀伊大納言樣へ七拾人扶持被下置被召出、御小姓近習に可被召之由御約束にて、頓て御目見の用意仕候、內證者岡野權右衞門殿萬事御取持候、其節阿部豐後守殿被及聞、卽尾畑勘兵衞殿、北條安房守殿被成御賴、我等を御抱被成度由被仰候へ共、右之御先約故御斷申上候、然る所大納言樣御事豐後守殿御抱有之度由被成御聞、布施佐五右衞門殿爲御使者兵右衞門殿仁右衞門殿迄被仰出候は、豐後守殿御抱有之度由御申者を、大納言樣へ御引取被成候段、御遠慮に思召され候、
現代語訳
同じ年から歌学を好み、二十歳までのうちに『源氏物語』をすべて承り、源語秘訣まで相伝を受けました。伊勢物語、大和物語、枕草子、万葉集、百人一首三部抄、三代集まで、廣田坦斎が相伝してくれました。このため『源氏私抄』や、万葉・枕草子・三代集などの私抄・注解をおおかた撰述し、詠歌にも深く志して、一年に千首の和歌を詠みましたが、思うところがあって、その後は捨て置きました。今も廣田坦斎方から歌学のことも残らず相伝した書付があります。また『職原抄』の官位の次第は、道春の講釈の席には出ませんでした。その後これも坦斎に詳しく承り、なお納得がいかない所は菊亭大納言殿に申し上げ、大納言殿が御筆で一々の口伝を書き付けてくださいました。この件は人々も知っていることです。それで、私に職原を伝授された者は数多くいます。若年のころから、湫兵右衛門殿・小栗仁右衛門殿のお取り持ちで、紀伊大納言様へ七十人扶持をいただいて召し出され、御小姓・近習に召されるというお約束で、まもなく御目見の用意をしました。内証者の岡野権右衛門殿が万事お取り持ちくださいました。そのとき阿部豊後守殿がお聞き及びになり、すぐに尾畑勘兵衛殿・北条安房守殿に頼まれて、私を召し抱えたいと仰せられましたが、先のお約束があるのでお断り申し上げました。ところが、大納言様は、豊後守殿が私を召し抱えたがっているとお聞きになり、布施佐五右衛門を使者として兵右衛門殿・仁右衛門殿へ仰せ出されたことには、豊後守殿が召し抱えたいと申される者を、大納言様が引き取られるのは、ご遠慮に思し召される、ということでした。
解説
この章句が説くこと
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『配所残筆』配所殘筆(2)十四歲之頃は、詩文共に達者に仕候故、傳奏飛鳥井大納言殿被及聞召被召寄、卽座に詩を作候て懸御目候處、大納言殿和歌を御詠吟候て和韻被下候、烏丸大納言殿被及聞召候て、卽座に章句を被成下候、乍慮外我等も卽座に對を仕候、若輩の時分殊更卽座の事に御座候間、只今見申候ては笑草成儀に候へ共、各御感不淺候、其後兩公御懇請に被成下、折々奉得御意候て、詩文贈答御座候、 十五歲の時、初て大學之講釋仕、聽衆大勢有之候、 十六歲之時、大森信濃守殿(其頃者佐久間久七)黑田信濃守殿(其頃者源右衞門)御所望にて、孟子之講釋仕候、蒔田甫庵老論語御所望、是亦同年講釋、いづれも翌年迄に講終候、是亦若輩之時分故、定て不埒成事計可有之候へ共、其時分之義、蒔田權助殿富永甚四郎殿抔今以能覺候、 我等幼弱より武藝軍法不怠候、十五之時に尾畑勘兵衞殿北條安房守殿へ逢申候て兵學令稽古、修行候、廿歲ゟ內にて門弟中に我等大方上座仕候て、則北條安房守殿筆者にて尾畑勘兵衞殿印免之狀給候、 廿一歲之時尾畑勘兵衞殿印可被仕候て、殊更門弟中一人も無之候印可之副狀と申候を我等に被與之候、筆者は高野按察院光宥にて御座候、其文に、於文而感其能勤。於武而歎其能修、噫有文章者必有武備、古人云我又云と、末句に我等を御稱美之此文言をば、勘兵衞殿直に御好に御座候、
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『配所残筆』配所殘筆(1)我等儀、凡下之者、殊更無德短才、中々御歷々之御末席へも出座仕候者に無之候所、幼少之時分より、似合に人も存候て、御歷々方御取持被下候、此段全く我等德義の故とは不存候、天道之冥加に相成候故に可有之、愈天命をおそれ候て、物毎日用相愼候事候、 六歲より親申付候て、學問被爲仕候へ共、無器用に候て、漸八歲之頃迄に、四書五經七書詩文之書大方よみ覺候、 九歲之時、稻葉丹後守殿御來家塚田杢助我等親近付に候故、我等を林道春老弟子に仕度由賴入候、杢助序に丹後守殿迄申上候へば、幼少にて學問仕候事奇特成由被仰、於御城林道春へ直に丹後殿御賴被下候、就は杢助拙者を同道仕候而道春へ參り、道春永喜一座にて、我等に論語の序無點の唐本にて讀せ被申候、我等讀候へば、山谷も取出候て被爲讀候、永喜被申候は、幼少にと如斯讀候事奇特に候、乍然田舍學問之者師を仕候と相見え、點惡敷候由被申候、道春も永喜同意に被申候て感悅被仕、別而念頃に候て、十一歲迄以前讀候書物共又點を改、無點之本にて讀直申候、 十一歲の春、歲旦之詩を初て作候て道春へ見せ候へば、一字改被申候て、則序文を書、幼小之述作別 而感入候之由書狀被副之、和韻被仕候、 同年堀尾山城守殿家老揖斐伊豆我等へ被懸目候て、則山城守殿へ被召寄、書物を讀、伊豆是非共山城守殿へ奉公に出候樣、二百石は可被下候由申候へ共、我等親同心不仕候、
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『配所残筆』配所殘筆(3)十七歲之冬、高野按察院光宥法印ゟ神道令傳受候、神代之卷者不及申、神道之秘傳不殘令傳授候、其後壯年の頃、廣田坦齋と申忌部氏之嫡流之者有之、根本宗源の神道令相傳候、其節忌部氏神道之口決不殘相傳候書付證文を越候、其中頃より石出帶刀參候て、我等へ斷り神書承候、坦齋は頓て死去仕候に付、神書之事帶刀事拙者を賴候て、合點不參候は所々皆承候得者、是亦其書付今以有之候、
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云いし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、この人のあらわしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、その外もつぎつぎに、もとめ出でて見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけじめをも、ようようにわきまえさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思えるむねは、大かた心にかなわず、その歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、ただ世の人なみに、ここかしこの会などにも出でまじらいつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなわざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有りける。そはさるべき理りあり、別に云いてん。さて後、国にかえりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出でたりとて冠辞考と云う物を見せたるにぞ、縣居の大人の御名をも、始めて知りける。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうおのれいときなかりし程より、書を読む事をなむ、よろずよりも面白く思いて、読みける。さるははかばかしく師に附きて、わざと学問すとにも有らず、何と心ざす事も無く、そのすじと定めたるかたも無くて、ただからのやまとの、くさぐさのふみを、有るにまかせ、うるにまかせて、古き近きをも云わず、何くれと読みけるほどに、十七八なりし程より、歌詠ままほしく思う心いできて、詠みはじめけるを、それは師に従いて、学べるにも有らず、人に見する事などもせず、ただひとり詠み出ずるばかりなりき。集どもも、古き近きこれかれと見て、かたの如く今の世の詠みざまなりき。斯くてはたちあまりなりし程、学問しにとて、京になんのぼりける。さるは十一の年、父におくれしにあわせて、江戸に在りし、家のなりわいをさえに、失いたりし程にて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざを習い、またそのために、世のつねの儒学をもせむとてなりけり。
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『配所残筆』配所殘筆(20)我等得御意奉り候て、兵學學問御聞被成、我等弟子に御成被成候御方々には、松平越中守をはじめ、右に申候如く別而御崇敬被成候、其外板倉内膳正殿、御老中被爲成候ても、拙者所へ御狀は、拙者名に樣之字御付被成候故、度々御斷申上候得共、不被聞召分候、淺野内匠頭は主人にて候へ共、上々樣へ口切の茶獻上候後、必拙者へ口切之茶肴被給候て令頂戴候、采女殿尚以其通に候、其外之御衆大方上々樣へ御茶被爲進候以後、口切之御茶被下令頂戴候、尤以前御出入仕候大名衆迄私參り候へば、御送迎被遊候て、御門を開候樣彼仰付、御懇惠にて迷惑仕候段御斷申上候得共、左樣にて無之候、私へ御禮とは不被思召候、兵法之禮儀師弟之道にて候由被仰候、然共冥加おそろしく存候て、度々御斷申上候は、凡下之拙者無德之者にて、任御意御指南申上候とても、左樣に被遊候程の御傳授不相成候由、度々御辭退申候得共、侍從四品諸大夫之御方々樣如此次第、天命も恐多候故、せめて自分に驕無之。日夜之勤聊無怠慢候段、此上我等愼と令覺悟候故、此段常々子孫共迄令敎戒候、今年配所に十年有之、唯今者一入天道のとがめを存候て、病中之外雖一日朝寢不仕、不作法成體を不仕候、此段朝夕之儀、下々迄存候事に候、就中磯貝平助殿能存候、以前より如斯心掛候故、益も無之候へ共、我等述作之書物は千卷計有之候、(目錄別に有之候)我等人に勝れ愚に候て、言行不正候、子孫共は愚成我等に十倍勤不申候はば、人間之正義に不可叶被存候、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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