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五常訓 / 巻之四・義

張南軒、義と利とを說いて曰、義は爲にする處なくして爲るなり。利は有所爲而爲之也。いふ意は、義は唯我がすべき道なればするなり。名聞利養か何ぞ、わが身の爲にするにはあらず。もし名聞利祿私愛のためにするは、義にあらず。是利なり。董子の言まことに至れるかな。張南軒の說も、亦道理分明なり。共に諸子にすぐれたり。君子の道は、萬事の行皆義理に志して、我が身のために計らず。是君子の心とする處、小人のことなる處なり。たとひ天下に公なる善事を行ふとも、心にわが爲にする私あらば、是義に非ず、利なり。小人の身に善行なくして、心ひとへに利をむさぼりて、義をすつるは、言ふに足らず。たとひ人ありて、身に行ふこと善なれど、其心に露ほども、わが利を計りねがふ所ありて行はゞ、鄕里のほまれある人といへども、義にあらず。

新字:張南軒、義と利とを説いて曰、義は為にする処なくして為るなり。利は有所為而為之也。いふ意は、義は唯我がすべき道なればするなり。名聞利養か何ぞ、わが身の為にするにはあらず。もし名聞利禄私愛のためにするは、義にあらず。是利なり。董子の言まことに至れるかな。張南軒の説も、亦道理分明なり。共に諸子にすぐれたり。君子の道は、万事の行皆義理に志して、我が身のために計らず。是君子の心とする処、小人のことなる処なり。たとひ天下に公なる善事を行ふとも、心にわが為にする私あらば、是義に非ず、利なり。小人の身に善行なくして、心ひとへに利をむさぼりて、義をすつるは、言ふに足らず。たとひ人ありて、身に行ふこと善なれど、其心に露ほども、わが利を計りねがふ所ありて行はゞ、郷里のほまれある人といへども、義にあらず。

書き下し

張南軒、義と利とを説いて曰、義は為にする処なくして為るなり。利は為にする所有りて之を為すなり。いふ意は、義は唯我がすべき道なればするなり。名聞利養か何ぞ、わが身の為にするにはあらず。もし名聞利禄私愛のためにするは、義にあらず。是利なり。董子の言まことに至れるかな。張南軒の説も、亦道理分明なり。共に諸子にすぐれたり。君子の道は、万事の行皆義理に志して、我が身のために計らず。是君子の心とする処、小人のことなる処なり。たとひ天下に公なる善事を行ふとも、心にわが為にする私あらば、是義に非ず、利なり。小人の身に善行なくして、心ひとへに利をむさぼりて、義をすつるは、言ふに足らず。たとひ人ありて、身に行ふこと善なれど、其心に露ほども、わが利を計りねがふ所ありて行はば、郷里のほまれある人といへども、義にあらず。

現代語訳

張南軒は義と利とを説いて「義は何かのためにするところがなくて行うことである。利は何かのためにするところがあって行うことである」といいました。その意味は、義はただ自分のすべき道だからするのです。名声や利益の養いなど、自分の身のためにするのではありません。もし名声や利禄や私愛のためにするのは、義ではありません。これは利です。董子の言葉はまことに至れるものです。張南軒の説もまた道理が明らかです。ともに諸子にすぐれています。君子の道は、あらゆる事の行いがみな義理に志して、自分の身のために計りません。これが君子の心とするところで、小人と異なるところです。たとえ天下に公の善事を行っても、心に自分のためにする私があれば、これは義ではなく利です。小人が身に善行がなく、心がひたすら利をむさぼって義を捨てるのは、言うに足りません。たとえある人が身に行うことは善であっても、その心に露ほどでも自分の利を計り願うところがあって行えば、郷里で評判の人であっても、義ではありません。

解説

南宋の張栻(南軒)の「義は為にする所無くして為す、利は為にする所有りて為す」という義利の区別を紹介しています。朱子の親友でもあった張栻のこの説は、目的や下心の有無で義と利を分ける明快な基準として知られます。たとえ公の善事でも、評判や見返りを少しでも期待すれば義ではないという基準は非常に厳しいものです。人からどう見られるかではなく、自分の心の動機を問うというこの姿勢は、自分の行いを誠実に振り返るための鏡になります。

この章句が説くこと

義利張南軒君子動機

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