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五行大義 / 第十五論律呂

蕤賓。安而服也。三禮義宗云。蕤者。垂下之義。賓者。敬也。五月陽氣下降。陰氣始起。共相賓敬。林鐘者。林。衆也。萬物成熟。種類衆多也。淮南子云。林鐘。引而止之也。三禮義宗云。林。茂盛也。六月之中。物皆盛茂。聚積於野。故爲林也。夷則者。夷。傷也。則。法也。言萬物始傷。被刑法也。淮南子云。夷則。易其則也。三禮義宗云。夷。平也。則。法也。七月。萬物將成。平均結實。皆有法則德吉也。南呂者。南。任也。言陽氣有任生孳長也。淮南子云。南呂者。任苞大也。三禮義宗云。南。任也。八月之中。物皆含秀。有懷任之象。助成功之義。無射者。射。終也。言萬物隨陽而終。當復隨陰而起。無終已也。淮南子云。無射者。人之無厭也。三禮義宗云。射。厭也。厭惡之義。九月物皆成實。無可厭惡。應鐘者。言萬物應時而鐘下藏也。淮南子云。應其所鐘。三禮義宗云。十月之時。歲功皆成。陰氣之用。應陽之功。收而聚積。故云鐘也。

新字:蕤賓。安而服也。三礼義宗云。蕤者。垂下之義。賓者。敬也。五月陽気下降。陰気始起。共相賓敬。林鐘者。林。衆也。万物成熟。種類衆多也。淮南子云。林鐘。引而止之也。三礼義宗云。林。茂盛也。六月之中。物皆盛茂。聚積於野。故為林也。夷則者。夷。傷也。則。法也。言万物始傷。被刑法也。淮南子云。夷則。易其則也。三礼義宗云。夷。平也。則。法也。七月。万物将成。平均結実。皆有法則徳吉也。南呂者。南。任也。言陽気有任生孳長也。淮南子云。南呂者。任苞大也。三礼義宗云。南。任也。八月之中。物皆含秀。有懐任之象。助成功之義。無射者。射。終也。言万物随陽而終。当復随陰而起。無終已也。淮南子云。無射者。人之無厭也。三礼義宗云。射。厭也。厭悪之義。九月物皆成実。無可厭悪。応鐘者。言万物応時而鐘下蔵也。淮南子云。応其所鐘。三礼義宗云。十月之時。歳功皆成。陰気之用。応陽之功。収而聚積。故云鐘也。

書き下し

蕤賓は、安んじて服するなり、と。『三礼義宗』に云う、蕤は垂下の義なり。賓は敬なり。五月は陽気下降し、陰気始めて起こり、共に相賓敬す、と。林鐘とは、林は衆なり。万物成熟し、種類衆多なり。『淮南子』に云う、林鐘は、引きてこれを止むるなり、と。『三礼義宗』に云う、林は茂盛なり。六月の中、物皆盛茂し、野に聚積す、故に林と為すなり、と。夷則とは、夷は傷なり、則は法なり。万物始めて傷つき、刑法を被るを言うなり。『淮南子』に云う、夷則は、その則を易うるなり、と。『三礼義宗』に云う、夷は平なり、則は法なり。七月、万物将に成らんとし、平均に実を結び、皆法則有りて徳吉なり、と。南呂とは、南は任なり。陽気任有りて生じ孳長するを言うなり。『淮南子』に云う、南呂とは、任苞大なるなり、と。『三礼義宗』に云う、南は任なり。八月の中、物皆秀を含み、懐任の象有り、成功を助くるの義なり、と。無射とは、射は終なり。万物陽に随いて終わり、当に復た陰に随いて起こるべく、終已無きを言うなり。『淮南子』に云う、無射とは、人の厭(いと)う無きなり、と。『三礼義宗』に云う、射は厭なり、厭悪の義なり。九月は物皆実を成し、厭悪すべき無し、と。応鐘とは、万物時に応じて鐘(あつま)り下に蔵するを言うなり。『淮南子』に云う、その鐘まる所に応ず、と。『三礼義宗』に云う、十月の時、歳功皆成る。陰気の用、陽の功に応じ、収めて聚積す、故に鐘と云うなり、と。

現代語訳

(『淮南子』にはこうある。)蕤賓とは、安らかに従うことである、と。『三礼義宗』にはこうある。蕤とは垂れ下がるという意味である。賓とは敬うことである。五月には陽の気が下って降り、陰の気がはじめて起こり、互いに客として敬い合う、と。林鐘とは、林は衆(多い)である。万物が成熟し、種類がきわめて多いことである。『淮南子』には、林鐘とは、引きとめてとどめることである、とある。『三礼義宗』にはこうある。林とは茂り盛んなことである。六月のうちに物はみな盛んに茂り、野に集まり積み重なる。だから林とするのである、と。夷則とは、夷は傷、則は法である。万物がはじめて傷つき、刑罰の法を受けることを言うのである。『淮南子』には、夷則とはその法則を改めることである、とある。『三礼義宗』にはこうある。夷とは平らか、則とは法である。七月には万物がまさに成熟しようとし、平らかに等しく実を結び、どれにも法則があって、徳があり吉である、と。南呂とは、南は任(はらむ)である。陽の気がはらむものを持ち、生まれて殖え育つことを言うのである。『淮南子』には、南呂とは、はらんで包み大きくなることである、とある。『三礼義宗』にはこうある。南とは任である。八月のうちに物はみな穂を含み、身ごもったかたちがある。これは成就を助けるという意味である、と。無射とは、射は終わりである。万物が陽に従って終わり、またふたたび陰に従って起こるはずであって、終わりがないことを言うのである。『淮南子』には、無射とは、人が飽くことがないことである、とある。『三礼義宗』にはこうある。射とは厭(いとう)であり、嫌うという意味である。九月には物がみな実を結び、嫌うべきものがない、と。応鐘とは、万物が時に応じて集まり、下に蔵されることを言うのである。『淮南子』には、その集まるところに応じる、とある。『三礼義宗』にはこうある。十月のころには、一年の働きがみな成しとげられる。陰の気の働きが陽の成果に応じ、収めて集め積む。だから鐘(あつまる)というのである、と。

解説

前段に続いて、蕤賓から応鐘まで、五月から十月に当たる律の名を解く段である。五月の蕤賓は陽が下り始め陰が起こる時で、陰陽が客として互いに敬い合うとされる。夏至を境に陽の盛りが傾く転換点を、争いではなく礼をもって迎え合う姿として描くところに、中国の季節観の穏やかさが表れている。六月の林鐘は草木が林のように茂る時、七月の夷則は秋の刑罰の気が万物を傷め始める時、八月の南呂は穂がはらむ時、九月の無射は実りが終わってもまた陰に従って次が始まるので終わりがない時、十月の応鐘は一年の成果を集めて蔵する時と読まれる。『淮南子』と『三礼義宗』で解釈が大きく違うものもあり、夷則を「傷つく」とも「平らかに実る」とも読むのはその例である。同じ秋を、衰えの始まりと見るか実りの時と見るかは、見る者の立場で変わる。季節の移ろいの一つ一つに意味を読み取るこうした見方は、日本の暦の二十四節気や季語の感覚にも通じ、変化を受け止める心の構えとして今も役に立つ。

この章句が説くこと

五行大義律呂十二律季節三礼義宗

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