言志四録 / 言志晩録 第二百八十六条 始めを原ね終りに反る
凡人忘少壯之過去。而圖老歿之將來。人情皆莫不然。即是竺氏權敎之所由以誘人。吾儒則在易。曰。原始反終。故知死生之說。何其易簡而明白也。
新字:凡人忘少壮之過去。而図老歿之将来。人情皆莫不然。即是竺氏権教之所由以誘人。吾儒則在易。曰。原始反終。故知死生之説。何其易簡而明白也。
書き下し
凡そ人は少壮の過去を忘れて、老歿の将来を図る。人情皆然らざるは莫し。即ち是れ竺氏の権教の由りて以て人を誘ふ所なり。吾が儒は則ち易に在りて曰く、「始めを原ね終りに反る。故に死生の説を知る」と。何ぞ其れ易簡にして明白なるや。
現代語訳
およそ人は若く壮んだった過去のことは忘れて、老いて死んだ後の将来のことを思いはかる。人の情として皆そうでないものはない。これこそ竺氏(仏教)が方便の教えによって人を誘い込むよりどころである。我が儒学では、『易経』に「始めをたずね、終わりに立ち返る。だから死生の説を知る」とある。なんと平易簡明で明白なことか。
解説
人は自分がどこから来たかは忘れているのに、死んだ後どこへ行くかばかりを気にかけます。一斎は、その不安こそが仏教(竺氏、天竺の教え)が方便の教え(権教)で人を引きつける入口だと指摘します。これに対して儒学は『易経』繋辞上伝の「始めを原ね終りに反る、故に死生の説を知る」を示します。生の始まりをたずねれば、死という終わりもそこに帰っていくのがわかる、という考えです。死後の世界を説かず、生と死を始めと終わりの一続きとして見れば足りる、その簡明さを一斎は評価しています。見えない先行きへの不安にとらわれるとき、まず来し方をたどり直すことで落ち着いて考えられる、という示唆とも読めます。
この章句が説くこと
死生観易原始反終儒と仏不安
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