学則 / 学則一
或曰。一匹錦覆以眎之。背面而殊。均之是物庸何傷乎。則安知夫中國無象。尙且象之。江北無橘。或者假之以枳乎。以此而誦夫楚人之頌。能不忒其臭味者幾希。夫中國之所有。四海之所無。亦猶是邪。詩書禮樂。中國之言。而吾眎猶吾。是其究必至於巴歈詩書兜昧其禮樂也哉。
新字:或曰。一匹錦覆以眎之。背面而殊。均之是物庸何傷乎。則安知夫中国無象。尚且象之。江北無橘。或者仮之以枳乎。以此而誦夫楚人之頌。能不忒其臭味者幾希。夫中国之所有。四海之所無。亦猶是邪。詩書礼楽。中国之言。而吾眎猶吾。是其究必至於巴歈詩書兜昧其礼楽也哉。
書き下し
或ひと曰く、一匹の錦、覆して以て之を眎れば、背面にして殊なり。之を均しくするに是の物なり、庸ぞ何ぞ傷まんや、と。則ち安くんぞ知らん、夫の中国に象無くして、尚ほ且つ之を象り、江北に橘無くして、或いは之を仮るに枳を以てせんことを。此を以て夫の楚人の頌を誦すれば、能く其の臭味を忒はざる者幾ど希なり。夫の中国の有する所、四海の無き所も、亦た猶ほ是くのごときか。詩書礼楽は中国の言なり。而るに吾れ眎ること猶ほ吾のごとし。是れ其の究、必ず其の詩書を巴歈にし、其の礼楽を兜昧にするに至らんかな。
現代語訳
ある人は言う。「一匹の錦を裏返して見れば、表と裏とでは模様が違って見える。だが同じ一つの物であることに変わりはない。何の差し支えがあろうか」と。しかし、それならどうしてわかるだろうか。中国に生きた象がいないのに象を思い描き、長江の北に橘がないのにその代わりに枳(からたち)を当てているのではないということが。そんなやり方で楚の人(屈原)の「橘頌」を読誦すれば、その香りや味わいを取り違えない者はほとんどいないだろう。中国にあって四方の海の外にない事物というのも、これと同じではないか。詩書礼楽は中国の言葉である。それなのに我々は自分の言葉と同じように見ている。その行き着く先は、きっと『詩経』『書経』を巴の地の田舎歌にし、礼楽を異民族の音楽にしてしまうことになるだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『学則』学則一副墨の子、洛誦の孫、執りて以て其の祖を廃すること、其の可なるを知らず。而るを況んや之の子の孫、冥令の肖に非ずんば、則ち嬴氏の呂なる者をや。此を以てして觚を操らんか。籀・斯の迹、粲然として簡に盈つれども、彼れ読むべからず、吾れ読むべからず。吾れ必ず夫の黄備氏の為す所に従事し、句に須有り、丁に尾有り、纍纍乎として星羅し、擾擾然として蜉蝣の来り集まるがごとくにして、而る後に得て言ふべきのみ。是れ迺ち黄備氏の詩書礼楽なり、中国の詩書礼楽に非ざるなり。則ち其の禍ひ殆ど侏儷鴃舌より甚だしき者有らんかな。
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『学則』学則一然らば則ち之を如何にして可ならん。亦た唯だ言語宜しきを異にす。其の黄備氏の業に於けるや、訓ずるに故を以てすべく、誦するに伝を以てすべからず。暫くすれば則ち仮り、久しくすれば則ち泥む。筌か筌か、魚を獲て筌を舎つ。口耳用ゐず、心と目と謀る。之を思ひ又た之を思へば、神其れ之を通ぜん。則ち詩書礼楽は中国の言なり、吾れ将に之を聴くに目を以てせんとす。則ち彼は彼、吾は吾、有は有、無は無、道を直くして以て之を行ふ。以て咸な諸を横目の民に被らしむべく、則ち以て天下の志を通ずべし。何ぞ唯だ東方のみならん。則ち仮使ひ仲尼桴に乗り、子路之に従ひて游ぶとも、旦暮に此に遇はん。則ち迺ち之を東海に聖人出づと謂ふも、良に誣ひざるのみ。是れ之を学則と謂ふ。迺ち之に申ぬるに戒めを以てして曰く、若し能く黄備氏と為らざる者は、迺ち能く黄備氏と為る者なり。嘻、若何ぞ必ずしも黄備氏を之れ為さん。
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『学則』学則一東海に聖人出でず。西海に聖人出でず。是れ唯だ詩書礼楽の教へと為るなり。古の時、楚は大邦なりと雖も、其の左史倚相の誦する所為るは、三墳・五典・九丘・八索の書なり。是を舎きては学と為す無し。而して後の豪傑、陳良の徒よりして、蓋し皆北のかた中国に学ぶと云ふ。則ち吾が東方の民、又た奚くにか適かん。亦た唯だ言語宜しきを異にす。鐘呂もて爰居を饗す。彼の之を侏儷鴃舌と謂ふ者、吾れ眎ること猶ほ彼のごとし。仮使ひ仲尼桴に乗り、子路之に従ひて游ぶとも、亦た之を如何ともする未きのみ。
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『学則』学則一黄備氏なる者有りて出づ。西のかた中国に学び、和訓を作為して以て国人に教ふ。亦た猶ほ乳を易ふるに㝅を以てし、虎は廼ち於菟たるがごとし。其の読みを顛倒し、錯へて之を綜べ、以て二邦の志を通ず。是に於てか吾が之を侏儷鴃舌と謂ふ者、吾れ眎ること猶ほ吾のごとし。是れ則ち詩書礼楽の教へと為るや、庶はくは以て諸を海表に被らしむるに足らんか。黄備氏の東方に功徳有る、民今に至るまで之に頼る。然りと雖も、乳を易ふるに㝅を以てし、虎は廼ち於菟たり、其の読みを顛倒し、錯へて之を綜ぶれば、吾が之を侏儷鴃舌と謂ふ者、吾れ眎ること猶ほ吾のごとく、吾れ視ること猶ほ吾のごとくにして、詩書礼楽は復た中国の言たらず。則ち仮使ひ仲尼桴に乗り、子路之に従ひて游ぶとも、之を目にすれば則ち是にして、之を耳にすれば則ち非なり。彼れ廼ち猶ほ鐘呂の爰居を饗するがごときのみ。
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『学則』對西肥水秀才問足下、詩を紬ねて琴歌と為し、書を紬ねて古史と為す。詩は乃ち琴を弾じて歌ふべく、書も亦た史官の録する所なり。豈に此を以て二者を病ましむるに足らんや。書を以て文字の学と為すに至りては、則ち大いに然らず。論語に曰く、何ぞ必ずしも書を読まんと。易伝に曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意は見るべからざるかと。孟子曰く、尽く書を信ずと。豈に文字の学を以て書と為すべけんや。易・春秋の如きは、則ち韓宣子の言を観るに、乃ち魯国の伝ふる所なり。故に孔門之を伝ふ。而れども其の実は楽正の四教の広く天下に被る者の比に非ず。故に論語・孟・荀・晏・墨の諸書、多く引用せず。其の士子の通用する者に非ざること審かなり。
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『学則』對西肥水秀才問士の今に生まるる、礼残はれ楽亡ぶ。之を如何ともする無し。苟も聖人復た生まるるに非ずんば、孰か能く制作せん。故に学者は唯だ能く詩書と礼とに涵濡し、優游厭飫し、久しくして之に化し、習ひて以て性と成らば、而ち徳慧術知、此に由りて以て出づ。則ち其の見る所、習俗泱涊の中に濯然として、庶はくは以て悖らざるに足らんのみ。伝に曰く、詩書は義の府なり。礼楽は徳の則なりと。不佞謂へらく、詩書は辞なり。礼楽は事なり。義は辞に存し、礼は事に在り。故に学問の要は、卑く諸を辞と事とに求めて、高く諸を性命の微、議論の精に求めざれば、則ち憑拠する所有りて、後世の紕繆の所在を識るべし。爾らずんば、徒らに己の心と理とを以て之を言ひ、泛然として底止すること莫きのみ。
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