福沢諭吉小品集 / 家庭習慣の教えを論ず・第3段
然るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額に瘤を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓と区別はなきことなれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故なるか。畢竟親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙らしむることあれば、憤怒の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧しきを厭い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。そのほか叱るべきことあるも父母の気向次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞め、機嫌悪しければあるいはこれを叱る等の不都合は甚だ尠なからず。
書き下し
然るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額に瘤を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓と区別はなきことなれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故なるか。畢竟親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙らしむることあれば、憤怒の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧しきを厭い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。そのほか叱るべきことあるも父母の気向次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞め、機嫌悪しければあるいはこれを叱る等の不都合は甚だ尠なからず。
現代語訳
ところが今、この大切な仕事を引き受けている世間の父母を見ると、子供を家庭で教育する道を学んだことがなく、ひどいものは、家庭教育の大切さすら知らず、非常に容易なものと心得て、いつも気の向くまま、その時その時の出任せで処置する者が多いようです。今、その最も普通な実例を一、二示しましょう。子供が誤って溝に落ち、着物を汚すことがあれば、その子を厳しく叱ることがあります。またもし、誤って柱にぶつかり、額にこぶをつくって泣き出すことがあれば、これは叱らず、かえって過ちを柱のせいにして、柱を叩いて子供を慰めることがあります。さて、この二つの場合において、子供の側ではいずれも自分の過ちであって、少しも区別はないのに、一方は叱られ、一方は慰められるのは、いったい何故でしょうか。結局、親の側では特に深い考えもなく、ただ一時の感情から出たものでしょう。第一の例の衣服を汚した方は、母にどれほどか面倒をかけ、あるいは損害を与えたので、怒りの気持ちを抑えられず、前後の考えもなく思わず叱りつけたのでしょう。また第二の方は、それほど面倒も損害もないので、なんとなく子供の痛みを憐れみ、また泣き声のやかましさを嫌って、これを避けるために過ちを柱のせいにして、しばらく慰めるのでしょう。しかし父母のすることなすことは、良いことも悪いことも、すべて一々子供の手本となり教えとなるものですから、たとえ父母に深い考えがなくても、よくよくその関わりを調べてみると、一方は怒りの感情を抑えきれない手本になり、一方は過ちを他人のせいにして自ら省みず、むやみに仕返しの気持ちを教え込むもので、まことにありがたくない教育です。そのほか、叱るべきことがあっても父母の気分次第で、機嫌の良いときはかえって褒め、機嫌の悪いときは叱るなどの不都合は、決して少なくありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・顔淵篇子張、徳を崇くし、惑いを辨ずるを問う。子曰く、「忠信を主とし、義に徙るは、徳を崇くするなり。之を愛しては其の生を欲し、之を悪みては其の死を欲す。既に其の生を欲し、又其の死を欲するは、是れ惑いなり。」誠に富を以てせず、亦た祇だ異を以てす。
-
『養生訓』巻第四・飲食下一怒の後早く食すべからず、食後怒るべからず。憂ひて食すべからず、食して憂ふべからず。一腹中の食いまだ消化せざるに、又食すれば、性よき物も毒となる。腹中空虚になりて食すべし。一永夜寒甚しき時、もし夜飲食して寒を防ぐに宜しくば、晩饌の酒飯を数口減ずべし。又已むことを得ずして人の招に応じ、夜話に人の許に行きて食客とならば、晩饌の酒食をかねて減ずべし。如此にして、夜少し飲食すればやぶれなし、夜食は朝晩より進みやすし。心に任せて、恣にすべからず。
-
孫子・謀攻篇将その忿に勝えずしてこれに蟻附すれば、士卒の三分の一を殺し、城抜けざる者、此れ攻の災なり。
-
『晏子春秋』外篇上・景公欲誅斷所愛橚者晏於諫景公箐室に登りて望み、人の雍門の橚を断つ者有るを見る。公吏をして之を拘えしめ、顧みて晏子に謂い、趣ぎ之を誅せしむ。晏子黙然として対えず。公曰く、「雍門の橚は、寡人の甚だ愛する所なり。比ろ断たるるを見る。故に夫子をして之を誅せしむ。黙然として応えざるは何ぞや」と。晏子対えて曰く、「嬰之を聞く、古の人君出ずれば、則ち道を辟くること十里なるは、畏るるに非ざるなり。冕の前に旒有るは、多く見る所を悪めばなり。纊紘の耳を充たすは、多く聞く所を悪めばなり。泰帯の重さ半鈞、舄履の倍重きは、軽きを欲せざればなり。刑死の罪も、日中の朝に、君之を過ぎれば、則ち之を赦す。嬰未だ嘗て人君と為りて、自ら其の民を坐する者を聞かざるなり」と。公曰く、「之を赦せ。夫子をして復た言わしむる無かれ」と。
-
論語・雍也篇子、仲弓を謂いて曰く、「犁牛の子、騂くして且つ角あらば、用うること勿からんと欲すと雖も、山川其れ諸を舎てんや。」
-
『呻吟語』内篇・談道・過ちは已發の後に在らず發して節に中たらざるは、過ち已發の後に在らず。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る