福沢諭吉小品集 / 家庭習慣の教えを論ず・第4段
全体これらの父母たるものが、教育といえばただ字を教え、読み書きの稽古をのみするものと心得、その事をさえ程能く教え込むときは立派な人間になるべしと思い、自身の挙動にはさほど心を用いざるものの如し。されども少しく考え見るときは、身の挙動にて教うることは書を読みて教うるよりも深く心の底に染み込むものにて、かえって大切なる教育なれば、自身の所業は決して等閑にすべからず。つまる処、子供とて何時までも子供にあらず、直に一人前の男女となり、世の中の一部分を働くべき人間となるべきものなれば、事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益あるか妨げあるかを考え合わせて、然る後に手を下すべきのみ。然らずんば、人間の腹より出でたる犬豕を生ずること必定なり。斯る化物は街道に連れ出して見世物となすには至極面白かるべけれども、世の中のためには甚だ困りものなり。
書き下し
全体これらの父母たるものが、教育といえばただ字を教え、読み書きの稽古をのみするものと心得、その事をさえ程能く教え込むときは立派な人間になるべしと思い、自身の挙動にはさほど心を用いざるものの如し。されども少しく考え見るときは、身の挙動にて教うることは書を読みて教うるよりも深く心の底に染み込むものにて、かえって大切なる教育なれば、自身の所業は決して等閑にすべからず。つまる処、子供とて何時までも子供にあらず、直に一人前の男女となり、世の中の一部分を働くべき人間となるべきものなれば、事の大小軽重を問わず、人間必要の習慣を成すに益あるか妨げあるかを考え合わせて、然る後に手を下すべきのみ。然らずんば、人間の腹より出でたる犬豕を生ずること必定なり。斯る化物は街道に連れ出して見世物となすには至極面白かるべけれども、世の中のためには甚だ困りものなり。
現代語訳
そもそもこれらの父母たる者は、教育といえばただ字を教え、読み書きの稽古をさせるものとだけ心得て、そのことさえほどよく教え込めば立派な人間になるだろうと思い、自分の行動にはさほど心を用いないようです。けれども少し考えてみると、自分の行動で教えることは、書物を読んで教えるよりも深く心の底に染み込むもので、かえって大切な教育ですから、自分の行いは決して疎かにしてはなりません。結局のところ、子供といっても、いつまでも子供ではなく、すぐに一人前の男女になり、世の中の一部分を担って働く人間になるものですから、事の大小軽重を問わず、人間に必要な習慣をつくるのに役立つか妨げになるかを考え合わせて、その後で手を下すべきなのです。そうでなければ、人間の腹から出た犬や豚を生み出すことは必定です。こうした化け物は、街道に連れ出して見世物にするには非常に面白いでしょうが、世の中のためには非常に困りものです。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・家庭習慣の教えを論ず・第2段故に一口に教育と呼び做せども、その領分はなかなか広きものにて、ただに読み書きを教うるのみを以て教育とは申し難し。読み書きの如きはただ教育の一部分なるのみ。実に教育の箇条は、前号にも述べたる如く極めて多端なりといえども、早くいえば、人々が天然自然に稟け得たる能力を発達して、人間急務の仕事を仕遂げ得るの力を強くすることなり。その天稟の能力なるものは、あたかも土の中に埋れる種の如く、早晩萌芽を出すの性質は天然自然に備えたるものなり。されども能くその萌芽を出して立派に生長すると否らざるとは、単に手入れの行届くと行届かざるとに依るなり。即ち培養の厚薄良否に依るというも可なり。いわゆる教育なるものは則ち能力の培養にして、人始めて生まれ落ちしより成人に及ぶまで、父母の言行によって養われ、あるいは学校の教授によって導かれ、あるいは世の有様に誘われ、世俗の空気に暴されて、それ相応に萌芽を出し生長を遂ぐるものなれば、その出来不出来は、その培養たる教育の良否によって定まることなり。就中幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真に人の賢不肖は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭の教育、謹むべきなり。
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福沢諭吉小品集・家庭習慣の教えを論ず・第3段然るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額に瘤を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓と区別はなきことなれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故なるか。畢竟親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙らしむることあれば、憤怒の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧しきを厭い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。そのほか叱るべきことあるも父母の気向次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞め、機嫌悪しければあるいはこれを叱る等の不都合は甚だ尠なからず。
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福沢諭吉小品集・中津留別の書・第3段世間にて、子の孝ならざるをとがめて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり。人の父母たる者、その子に対して、我が生たる子と唱え、手もて造り、金もて買いし道具などの如く思うは、大なる心得ちがいなり。天より人に授かりたる賜なれば、これを大切に思わざるべからず。子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許に置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、すでに学問の下地できれば学校に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立ること、父母の役目なり、天に対しての奉公なり。子の年齢二十一、二歳にも及ぶときは、これを成人の齢と名づけ、おのおの一人の了管できるものなれば、父母はこれを棄てて顧みず、独立の活計を営ましめ、その好む所に行き、その欲する事をなさしめて可なり。 ただし親子の道は、生涯も死後も変るべきにあらざれば、子は孝行をつくし、親は慈愛を失うべからず。前にいえる棄てて顧みずとは、父子の間柄にても、その独立自由を妨げざるの趣意のみ。西洋書の内に、子生れてすでに成人に及ぶの後は、父母たる者は子に忠告すべくして命令すべからずとあり。万古不易の金言、思わざるべからず。 さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状正しからざるべからず。口に正理を唱るも、身の行い鄙劣なれば、その子は父母の言語を教とせずしてその行状を見慣うものなり。いわんや父母の言行ともに不正なるをや。いかでその子の人たるを望むべき。孤子よりもなお不幸というべし。 あるいは父母の性質正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。こは罪なきに似たれども、その実は子を愛するを知て子を愛するゆえんの道を知らざる者というべし。結局その子をして無智無徳の不幸に陥らしめ、天理人道に背く罪人なり。人の父母としてその子の病身なるを患ざるものなし。心の人にしかざるは、身体の不具なるよりも劣るものなるに、ひとりその身体の病を患て心の病を患えざるは何ぞや。婦人の仁というべきか、あるいは畜類の愛と名づくるも可なり。
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福沢諭吉小品集・家庭習慣の教えを論ず・第1段人間の腹より生まれ出でたるものは、犬にもあらずまた豕にもあらず、取りも直さず人間なり。いやしくも人間と名の附く動物なれば、犬豕等の畜類とは自ずから区別なかるべからず。世人が毎度いう通りに、まさしく人は万物の霊にして、生まれ落ちし始めより、種類も違い、階級にも斯くまで区別のあることなれば、その仕事にもまた区別なかるべからず。人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれば乃ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込みたるものなり。 大略これを区別すれば、第一に一身を大切にして健康を保つこと。第二に活計の道、渡世の法を求めて衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。第三に子供を養育して一人前の男女となし、二代目の世の中にては、その子の父母となるに差支なきように仕込むことなり。第四に人々相集まりて一国一社会を成し、互いに公利を謀り共益を起こし、力の及ぶだけを尽してその社会の安全幸福を求むること。この四ヶ条の仕事をよくして十分に快楽を覚ゆるは論を俟たずといえども、今また別に求むべきの快楽あり。その快楽とは何ぞや。月見なり、花見なり、音楽舞踏なり、そのほか総て世の中の妨げとならざる娯しみ事は、いずれも皆心身の活力を引立つるために甚だ緊要のものなれば、仕事の暇あらば折を以て求むべきことなり。これを第五の仕事とすべし。 右の五ヶ条は、いやしくも人間と名の附く動物にして社会の一部分を務むるものは、必ずともに行うべき仕事なり。この仕事をさえ充分に成し得れば、人間社会の一人たるに恥ずることなかるべし。然りといえども今の文明の有様にては、充分を希望するはとても六ヶしきことなれば、必ずしも充分にあらずとも、なるべきだけ充分に近づくことの出来るよう、精々注意せざるべからず。余輩が毎に勧むる所の教育とは、即ちこの有様に近づき得るの力を強くするの道にほかならざるなり。
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福沢諭吉小品集・徳育如何・第2段教育もまたかくの如し。人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議輿論とにあり。蝦夷人の子を養うて何ほどに教育するも、その子一代にては、とても第一流の大学者たるべからず。源家八幡太郎の子孫に武人の夥しきも、能力遺伝の実証として見るべし。また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母の気象を承るは、あまねく人の知る所にして、家風の人心を変化すること有力なるものというべし。 また、戦国の世にはすべて武人多くして、出家の僧侶にいたるまでも干戈を事としたるは、叡山・三井寺等の古史に徴して知るべし。社会の公議輿論、すなわち一世の気風は、よく仏門慈善の智識をして、殺人戦闘の悪業をなさしめたるものなり。右はいずれも、人生の智徳を発達せしめ退歩せしめ、また変化せしむるの原因にして、その力はかえって学校の教育に勝るものなり。学育もとより軽々看過すべからずといえども、古今の教育家が漫に多を予期して、あるいは人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶し出だすべしと思うが如きは、妄想のはなはなだしきものにして、その妄漫なるは、空気・太陽・土壌の如何を問わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに等しきのみ。
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『和俗童子訓』巻之一・総論上或は小児の気にさからひたる者をば、理をまげて小児の非をそだて、そらうちなどすれば、驕慢の心いでくるものなり。小児をもてあそびて、我が心を慰めんが為に、様々の詞にて、そびやかし苦め、いかり争はしめて、ひがみまがれる心をつけ、貪りねたむ心ざしを引出す。しかのみならず、父母の愛過ぐる故、あまえて父母を恐れず、兄を蔑にし、家人を苦め、よろづ恣にして人を侮る。いましむべき事をかへりてすすめ、咎むべき事をかへりて笑ひ悦び、色々あしき事どもを見聞かせ、言ひならはせ、しならはせて、やうやく年長じ、智恵いでくる時に至りて、俄に始ていましむれども、其悪しきならはし、年と共に長じ、久しくならひ染みて、本性も等しくなりにたれば、諫を用ひず。幼き時に教なく、年長じて俄に諫むれども随はざれば、本性悪しく生れつきたるとのみ思ふ事、いとおろかに、まどひの深き事ならずや。
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