福沢諭吉小品集 / 瘠我慢の説・第6段
然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵の鋒敵すべからずといい、社会の安寧害すべからずといい、主公の身の上危しといい、或は言を大にして墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるもこれを憚らずして和議を説き、ついに江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、竊に冷笑したるも謂れなきにあらず。 蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答うる辞はなかるべし。一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。
新字:然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵の鋒敵すべからずといい、社会の安寧害すべからずといい、主公の身の上危しといい、或は言を大にして墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるもこれを憚らずして和議を説き、ついに江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、窃に冷笑したるも謂れなきにあらず。 蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答うる辞はなかるべし。一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。
書き下し
然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵の鋒敵すべからずといい、社会の安寧害すべからずといい、主公の身の上危しといい、或は言を大にして墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるもこれを憚らずして和議を説き、ついに江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、窃に冷笑したるも謂れなきにあらず。 蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答うる辞はなかるべし。一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。
現代語訳
ところが、あの講和論者である勝安房氏たちは、幕府の武士は使い物にならないと言い、薩摩・長州の兵は鋒先が強くて敵対できないと言い、社会の平穏を乱してはならないと言い、主君の身が危ういと言い、あるいは大きな言葉で「兄弟が垣根の内でいがみ合う禍は、外交の策ではない」などと、百方に奔走するだけでなく、ときには身を危うくすることがあっても憚らずに和議を説き、とうとう江戸城は明け渡され、徳川は七十万石の新しい封土となって、無事に局を結びました。まことに不思議きわまりない事態で、当時のある外国人の評に、「およそ生き物は、その死に臨んで抵抗を試みないものはない。うごめく虫けらが百貫目の鉄槌で打たれるときでも、なお足を張って抵抗の姿を見せるのが常である。それなのに、二百七十年の大政府が、二、三の強い藩の兵力に対して少しも敵対する意思なく、ひたすら和を講じ、哀れみを乞うて止まないとは、古今の世界中にいまだその例を見ない」と言って、ひそかに冷笑したのも、理由がないわけではありません。 思うに、勝氏たちの考えは、内乱の戦争を無上の災害・無益の労費と見なし、味方に勝つ見込みがない限り、速やかに和して速やかに事を収めるに越したことはない、という計算を信じたものにほかなりません。その口で説くところを聞けば、主君の安危や外交の利害などと言うものの、その心の底を叩いてこれを突き詰めると、あの哲学流の一種で、人事・国事に瘠我慢は無益だとして、古来、日本国の上流社会がもっとも重んじてきた一大主義を、曖昧模糊のうちにごまかした者だと評して、これに答える言葉はないでしょう。一時の豪気は臆病者の胆を驚かすに足り、一場のでたらめな言葉は少年たちの心をまるめこむに足りますが、見識の優れた君子は、ついに欺くことも惑わすこともできません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第7段左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。 或はいう、王政維新の成敗は内国の事にして、いわば兄弟朋友間の争いのみ、当時東西相敵したりといえどもその実は敵にして敵にあらず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解きたるは時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作すものあれども、一場の遁辞口実たるに過ぎず。内国の事にても朋友間の事にても、既に事端を発するときは敵はすなわち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、国家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したるその士人を率いて、一朝敵国外患の至るに当り、能くその士気を振うて極端の苦辛に堪えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢なきものは外に対してもまた然らざるを得ず。これを筆にするも不祥ながら、億万一にも我日本国民が外敵に逢うて、時勢を見計らい手際好く自から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。然り而して幕府解散の始末は内国の事に相違なしといえども、自から一例を作りたるものというべし。
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第9段騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、たとい弐心を抱かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈すでに収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、これを擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。誠に無慚なる次第なれども、自から経世の一法として忍んでこれを断行することなるべし。 すなわち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏のごときも斯る専制治風の時代に在らば、或は同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて、かつて怪しむ者なきこそ古来未曽有の奇相なれ。 我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊か所望の筋なきを得ず。その次第は前にいえるごとく、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向て云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第5段故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、むしろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。 然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものというべし。 そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第10段天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、ただその時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、いわんや今後敵国外患の変なきを期すべからざるにおいてをや。かかる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努吾維新の挙動を学んで権道に就くべからず、俗にいう武士の風上にも置かれぬとはすなわち吾一身の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。 すなわち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るがごとき、必ずしも窮屈なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須たず、世界立国の常情に訴えて愧るなきを得ず。啻に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲しむべきところのものなり。
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第8段然りといえども勝氏も亦人傑なり、当時幕府内部の物論を排して旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、これが為めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずというべし。この点に就ては我輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に曩きの敵国の士人と並立て得々名利の地位に居るの一事なり(世に所謂大義名分より論ずるときは、日本国人はすべて帝室の臣民にして、その同胞臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決して然らず。幕府の末年に強藩の士人等が事を挙げて中央政府に敵し、其これに敵するの際に帝室の名義を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古に復したるその挙を名けて王政維新と称することなれば、帝室をば政治社外の高処に仰ぎ奉りて一様にその恩徳に浴しながら、下界に居て相争う者あるときは敵味方の区別なきを得ず。事実に掩うべからざるところのものなればなり。故に本文敵国の語、或は不穏なりとて説を作すものもあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。 東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底終を全うすべき人にあらず。漢の高祖が丁公を戮し、清の康煕帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国の輩を誅し、豊臣秀吉が織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の挙動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて、これを信考の墓前に磔にしたるがごとき、是等の事例は実に枚挙に遑あらず。
-
福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第14段古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。 これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め、また一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀において士風消長の為めに軽々看過すべからざるところのものなり。 以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるにあらず。謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、以てその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるべからざるの場合あり。二氏のごときは正しくこの局に当る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る