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福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第7段

いずれも皆、国の文明のために重大なる事件にして、学者のこれに着眼するは祝すべきことなれども、学者はただこれに眼を着し、これを議論に唱うるのみにして、その施行の一段にいたりては、ことごとくこれを政府の政に托し、政府はこの法をかくの如くしてこの事をかくの如くなすべしといい、この事の行われざることあらば、この法をもってこれを禁ずべしといい、これを禁じこれを勧め、一切万事、政府の道具仕掛けをもって天下の事を料理すべきものと思い、はなはだしきは己れ自から政府の地位に進み、自からその事を試んとする者なきに非ず。これすなわち上書建白の多くして、官府に反故のうずたかきゆえんなり。 かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢の命を拝することあらん。而してその素志果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合あるべきのみ。この不都合をもかえりみず、この失望にも懲りず、なおも奇計妙策をめぐらして、名は三千余方の兄弟にはかるといい、その内実の極意は、暗に政府を促して己が妙計を用いしめんと欲するにすぎず。区々たる政府の政に熱中奔走して、自家の領分はこれを放却して忘れたるが如し。内を外にするというべきか、外を内にするというべきか、いずれにも本気の沙汰とは認め難し。政の字の広き意味にしたがえば、人民の政事には際限あるべからず。これを放却して誰に託せんと欲するか、思わざるのはなはだしきものというべし。この人民の政を捨てて政府の政にのみ心を労し、再三の失望にも懲りずして無益の談論に日を送る者は、余輩これを政談家といわずして、新奇に役談家の名を下すもまた不可なきが如く思うなり。

書き下し

いずれも皆、国の文明のために重大なる事件にして、学者のこれに着眼するは祝すべきことなれども、学者はただこれに眼を着し、これを議論に唱うるのみにして、その施行の一段にいたりては、ことごとくこれを政府の政に托し、政府はこの法をかくの如くしてこの事をかくの如くなすべしといい、この事の行われざることあらば、この法をもってこれを禁ずべしといい、これを禁じこれを勧め、一切万事、政府の道具仕掛けをもって天下の事を料理すべきものと思い、はなはだしきは己れ自から政府の地位に進み、自からその事を試んとする者なきに非ず。これすなわち上書建白の多くして、官府に反故のうずたかきゆえんなり。 かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢の命を拝することあらん。而してその素志果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合あるべきのみ。この不都合をもかえりみず、この失望にも懲りず、なおも奇計妙策をめぐらして、名は三千余方の兄弟にはかるといい、その内実の極意は、暗に政府を促して己が妙計を用いしめんと欲するにすぎず。区々たる政府の政に熱中奔走して、自家の領分はこれを放却して忘れたるが如し。内を外にするというべきか、外を内にするというべきか、いずれにも本気の沙汰とは認め難し。政の字の広き意味にしたがえば、人民の政事には際限あるべからず。これを放却して誰に託せんと欲するか、思わざるのはなはだしきものというべし。この人民の政を捨てて政府の政にのみ心を労し、再三の失望にも懲りずして無益の談論に日を送る者は、余輩これを政談家といわずして、新奇に役談家の名を下すもまた不可なきが如く思うなり。

現代語訳

これらはいずれも国の文明のために重大な事柄で、学者がここに着眼するのは喜ばしいことですが、学者はただ目を向けて議論を唱えるだけで、その実施の段になると、ことごとくこれを政府の政に任せています。政府はこの法をこうしてこの事をこうすべきだと言い、この事が行われなければ、この法で禁じるべきだと言い、これを禁じ、これを勧め、一切万事、政府の道具仕掛けで天下の事を料理できると思っています。ひどい場合には、自分自身が政府の地位に進んで、みずからその事を試みようとする者もいます。これが上書や建白の多いこと、官庁に反故が高く積まれているゆえんです。 かりにその上書や建白が採用の栄を得、さらに一歩進んで本人も抜擢の辞令を受けることがあったとします。それでその素志が本当に行われたかといえば、おそらく期待に反して失望するでしょう。人事の失望は十のうち八、九で、弟は兄が勝手に外出するのをうらやみ、兄は親父が勝手に物を買うのをうらやみ、親父はまた隣の翁の富貴で自在なのをうらやみますが、この弟が兄の年齢になり、兄が父になり、親父が隣家の富を得ても、決して自由自在ではなく、期待に反する不都合があるだけです。この不都合も顧みず、この失望にも懲りず、なお奇計妙策をめぐらし、名目は三千余万の同胞と相談するといいながら、その内実の極意は、ひそかに政府を促して、自分の妙計を用いさせようとするにすぎません。小さな政府の政に熱中して奔走し、自分の領分は放り出して忘れたかのようです。内を外にするというべきか、外を内にするというべきか、いずれにしても本気の沙汰とは認め難いものです。政の字の広い意味に従えば、人民の政事には際限がありません。これを放り出して誰に任せようというのか、思慮のなさも甚だしいというべきです。この人民の政を捨てて、政府の政にのみ心を労し、再三の失望にも懲りずに無益な談論に日を送る者は、私はこれを政談家とは呼ばず、新しく『役談家』と名づけても差し支えないように思います。

解説

学者たちは、議論するだけで実施は政府に任せ、建白書ばかりが官庁に積まれる。福沢はこれを辛辣に批判し、政談家ではなく役談家と呼びます。たとえ採用されても失望するのが人の常で、うらやみの連鎖の例えが皮肉です。自分の領分を放り出して政府を動かそうとする姿勢への疑問ですが、現代の企業でも、現場の改善を放置して本社への要望に終始する構図に通じます。ただし、建白という民意の回路そのものの価値を福沢が軽んじすぎている面もありえます。

この章句が説くこと

建白役談家政談家失望自分の領分政府の政

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