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福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第6段

右の次第をもって考うれば、人民の世界に事務なきを患るに足らず。実はその繁多にしてこれに従事するの智力に乏しきこそ患うべけれ。これを勤めて怠らざれば、その事務よくあがりて功を奏したるの例も少なからず。一事に功を奏すれば、したがってまた一事に着手し、次第に進みてやむことなくば、政府の政は日に簡易に赴き、人民の政は月に繁盛をいたし、はじめて民権の確乎たるものをも定立するを得べきなり。余輩、つねに民権を主張し、人民の国政にかかわるべき議論を悦ばざるに非ずといえども、その趣意はただちに政府の内に突入して官員の事務を妨ぐるか、または官員に代りて事をなさんとするの義に非ず。人民は人民の地位にいて、自家の領分内に沢山なる事務に力をつくさんことを欲するのみ。 すなわち、これ広き字義にしたがいて国政にかかわるものというべし。ただちに政府に接せずして、間接にその政に参与するものというべし。間接の勢は直接の力よりもかえって強きものなり。学者これを思わざるべからず。今の人民の世界にいて事を企つるは、なお、蝦夷地に行きて開拓するが如し。事の足らざるは患に非ず、力足らざるを患うべきなり。 然るに、今の学者はその思想を一方に偏し、ひたすら政府の政に向って心を労するのみにして、自家の領分には毫も余地を見出さざるものの如し。たとえば世に、商売工業の議論あり、物産製作の議論あり、華士族処分の議論あり、家産相続法の議論あり、宗旨の得失を論ずる者あり、教育の是非を議する者あり、学校設立の説を述る者あり、文字改革の議を発する者あり。

書き下し

右の次第をもって考うれば、人民の世界に事務なきを患るに足らず。実はその繁多にしてこれに従事するの智力に乏しきこそ患うべけれ。これを勤めて怠らざれば、その事務よくあがりて功を奏したるの例も少なからず。一事に功を奏すれば、したがってまた一事に着手し、次第に進みてやむことなくば、政府の政は日に簡易に赴き、人民の政は月に繁盛をいたし、はじめて民権の確乎たるものをも定立するを得べきなり。余輩、つねに民権を主張し、人民の国政にかかわるべき議論を悦ばざるに非ずといえども、その趣意はただちに政府の内に突入して官員の事務を妨ぐるか、または官員に代りて事をなさんとするの義に非ず。人民は人民の地位にいて、自家の領分内に沢山なる事務に力をつくさんことを欲するのみ。 すなわち、これ広き字義にしたがいて国政にかかわるものというべし。ただちに政府に接せずして、間接にその政に参与するものというべし。間接の勢は直接の力よりもかえって強きものなり。学者これを思わざるべからず。今の人民の世界にいて事を企つるは、なお、蝦夷地に行きて開拓するが如し。事の足らざるは患に非ず、力足らざるを患うべきなり。 然るに、今の学者はその思想を一方に偏し、ひたすら政府の政に向って心を労するのみにして、自家の領分には毫も余地を見出さざるものの如し。たとえば世に、商売工業の議論あり、物産製作の議論あり、華士族処分の議論あり、家産相続法の議論あり、宗旨の得失を論ずる者あり、教育の是非を議する者あり、学校設立の説を述る者あり、文字改革の議を発する者あり。

現代語訳

以上の次第から考えれば、人民の世界に仕事がないことを心配する必要はありません。実際にはその仕事が多く、それに従事する知恵や力が乏しいことこそ心配すべきです。これを努めて怠らなければ、その仕事がよく進んで成果を上げた例も少なくありません。一つの事に成果を上げれば、続けて別の事に着手し、次第に進んでやむことがなければ、政府の政は日に日に簡単になり、人民の政は月ごとに盛んになって、はじめて民権のしっかりしたものを打ち立てることができるでしょう。私は常に民権を主張し、人民が国政に関わる議論を喜ばないわけではありませんが、その趣旨は、すぐに政府の中に突入して官員の仕事を妨げたり、官員に代わって事をなそうとするものではありません。人民は人民の地位にいて、自分の領分内にたくさんある仕事に力を尽くしたいだけです。 これこそ、広い字義に従って国政に関わるものというべきです。直接に政府に接せず、間接にその政に参与するものというべきです。間接の勢いは、直接の力よりもかえって強いものです。学者はこれを思わなければなりません。今の人民の世界で事を企てるのは、ちょうど蝦夷地に行って開拓するようなものです。事が足りないのは心配ではなく、力が足りないことこそ心配すべきです。 ところが、今の学者はその思想を一方に偏らせ、ひたすら政府の政に向かって心を労するだけで、自分の領分には少しも余地を見出さないかのようです。たとえば世間には、商売や工業の議論があり、物産製造の議論があり、華士族の処分の議論があり、家産相続法の議論があり、宗旨の得失を論じる者があり、教育の是非を議論する者があり、学校設立の説を述べる者があり、文字改革の議を発する者があります。

解説

人民の世界には仕事が多く、足りないのは知恵と力だ、と福沢は語ります。民権の主張とは、政府に突入して代わろうとすることではなく、自分の領分に力を尽くして間接に参与することだ、とも述べます。蝦夷地の開拓にたとえた点に、当時の開拓イメージが表れています。現代の仕事でも、制度や上司を批判する前に、自分の領域で打てる手が多いと気づくことがあります。なお原文の『蝦夷地』は当時の地名の呼称で、現在とは異なる語感を含みます。

この章句が説くこと

人民の領分間接の参与民権直接と間接蝦夷地知恵と力

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