福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第13段
今政府と人民とは他人の間柄なり。未だ遠ざからずして、まず相近づかんとするは、事の順序を誤るものというべし。けだし各種の人がめいめいの地位にいて、その地位の利害におおわれ、ついに事柄の判断を誤るものは、他の地位の有様を詳にすること能わざるがゆえなり。その有様に密接すること、同居人が眠食をともにするが如くなるがゆえなり。その相接すること密に過ぎ、かえって他の全体を見ること能わずして、局処をうかがうに察々たるがゆえなり。なお、かの、山を望み見ずして山に登りて山を見るが如く、とうてい物の真情を知るによしなし。真情相通ぜざれば、双方の交際は、ただ局処の不平と不平と敵対の勢をなすのみ。 ここにおいてか、人を妬み人を悪て、たがいに寸分の余地をのこさず、力ある者は力をつくし、智恵ある者は智恵をたくましゅうし、ただ一片の不平心を慰めんがために孜々として、永遠の利害はこれを放却して忘れたるが如くなるにいたる者、すくなからず。ひっきょう、その本は、たがいに近づくべからざるの有様をもって、強いて相近づかんとし、たがいにその有様を誤解して、かえってますます遠隔敵視の禍を増すものというべし。 今世間の喋々を聞けば、一方の説にいわく、人民無智無法なるがゆえに政府これに権力を附与すべからずと。また一方はいわく、政府はさまざまの事に手を出し、さまざまの法をつくりて人民の働をたくましゅうせしめずと。いわゆる水掛論なり。然りといえども、智愚相対してその間に不和あれば、智者まず他を容れてこれを処置せざるべからず。 ゆえに真の愚民に対しては、政府まずその愚を容れてこの水掛論の処置に任せざるべからずといえども、本編の主として論ずる学者にいたりては、すなわちこれを愚民と同一視すべからず。この流の人は、改進政談家をもって自からおり、肉を裁するをいさぎよしとせずして、天下を裁するの志を抱き、政府に対してこれに感服せざるのみならず、つねに不平を訴うるほどのことなれば、その心志のとどまるところは、かえって政府の上流にありといわざるをえず。
書き下し
今政府と人民とは他人の間柄なり。未だ遠ざからずして、まず相近づかんとするは、事の順序を誤るものというべし。けだし各種の人がめいめいの地位にいて、その地位の利害におおわれ、ついに事柄の判断を誤るものは、他の地位の有様を詳にすること能わざるがゆえなり。その有様に密接すること、同居人が眠食をともにするが如くなるがゆえなり。その相接すること密に過ぎ、かえって他の全体を見ること能わずして、局処をうかがうに察々たるがゆえなり。なお、かの、山を望み見ずして山に登りて山を見るが如く、とうてい物の真情を知るによしなし。真情相通ぜざれば、双方の交際は、ただ局処の不平と不平と敵対の勢をなすのみ。 ここにおいてか、人を妬み人を悪て、たがいに寸分の余地をのこさず、力ある者は力をつくし、智恵ある者は智恵をたくましゅうし、ただ一片の不平心を慰めんがために孜々として、永遠の利害はこれを放却して忘れたるが如くなるにいたる者、すくなからず。ひっきょう、その本は、たがいに近づくべからざるの有様をもって、強いて相近づかんとし、たがいにその有様を誤解して、かえってますます遠隔敵視の禍を増すものというべし。 今世間の喋々を聞けば、一方の説にいわく、人民無智無法なるがゆえに政府これに権力を附与すべからずと。また一方はいわく、政府はさまざまの事に手を出し、さまざまの法をつくりて人民の働をたくましゅうせしめずと。いわゆる水掛論なり。然りといえども、智愚相対してその間に不和あれば、智者まず他を容れてこれを処置せざるべからず。 ゆえに真の愚民に対しては、政府まずその愚を容れてこの水掛論の処置に任せざるべからずといえども、本編の主として論ずる学者にいたりては、すなわちこれを愚民と同一視すべからず。この流の人は、改進政談家をもって自からおり、肉を裁するをいさぎよしとせずして、天下を裁するの志を抱き、政府に対してこれに感服せざるのみならず、つねに不平を訴うるほどのことなれば、その心志のとどまるところは、かえって政府の上流にありといわざるをえず。
現代語訳
今、政府と人民とは他人の間柄です。まだ遠ざからないうちに、まず近づこうとするのは、事の順序を誤るものというべきです。思うに、各種の人がそれぞれの地位にいて、その地位の利害に覆われ、ついに事柄の判断を誤るのは、他の地位の有様を詳しく知ることができないからです。その有様に密接すること、同居人が寝食を共にするようなものだからです。接することが密になりすぎて、かえって全体を見ることができず、局部をのぞくことには細かくなるからです。山を望み見ず、山に登って山を見るようなもので、とうてい物の真情を知る方法がありません。真情が通じなければ、双方の交際は、ただ局部の不平と不平とが敵対する勢いをなすだけです。 そこで、人を妬み、人を憎み、互いに寸分の余地も残さず、力のある者は力を尽くし、知恵のある者は知恵を働かせ、ただ一片の不平の心を慰めるためにせっせと努めて、永遠の利害は放り出して忘れたかのようになる者が少なくありません。結局のところ、その根本は、互いに近づくべきでない状態なのに無理に近づこうとし、互いにその有様を誤解して、かえってますます遠く隔てて敵視する災いを増すものというべきです。 今、世間のうわさを聞くと、一方の説は、人民は無智無法だから政府は権力を与えるべきではない、という。他方は、政府はさまざまなことに手を出し、さまざまな法をつくって人民の働きを活発にさせない、という。いわゆる水掛け論です。しかし、知恵のある者と愚かな者が向き合ってその間に不和があれば、まず知恵のある者が相手を受け入れて処置しなければなりません。 ですから、本当の愚民に対しては、政府がまずその愚かさを受け入れて、この水掛け論の処置に任せなければなりませんが、本編が主として論じる学者となると、愚民と同一視すべきではありません。この流れの人は、改進の政談家をもって自任し、一人ひとりの細事を裁くことをいさぎよしとせず、天下を裁く志を抱き、政府に対して感服しないばかりか、いつも不平を訴えるほどですから、その心志の行きつくところは、かえって政府の上流にあるといわざるをえません。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第14段この一事は学者も私に自から許すところならん。ゆえに学者の考にしたがえば、今の学者の品格は政府よりも高くしてはるかにその右に出で、政府は愚にして学者は智なりというべし。智愚はまずここに定まりたり。然らばすなわちかの水掛論は如何すべきや。余輩あえて政府に代りて苦情を述べん。政談家はさまざまの事に口を出し、さまざまの理屈を述べて政府の働を逞しゅうせしめずと。学者はなおもこの政府に直接して衝くが如く刺すが如く、かの小姑を学びて家嫂を煩わさんと欲するか。智者の所業にははなはだもって不似合なり。いわゆる智者にして愚を働くものというべし。 ひっきょう、この水掛論は、元素の異同より生じたるものに非ず。その原因は、近く地位の異同より心情の偏重を生ずるによりて来りしものなれども、今日の有様にては、その是非を分つべからず。余輩はただ今後の成行に眼をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着を待つのみ。 この全編の大略を概していえば、天下の人心、直接すればその交をまっとうすべからず。今の世間に、この流行病あり。開国以来、我が日本の人心は、守旧と改進と二流に分れて、今の政府は改進の方にあるものなり。然るに、改進の学者流と政府との間に不和あるは何ぞや。この流の人は、民権を論ずれども、その眼をただ政府の一方にのみ着して、自家の事務を忘るるがゆえなり。今の如く政談家の多きは国のために祝すべからず。これを用うるも害あり、これを用いざるもまた害あり。民権論者と政府との不和は、あたかも一流中の内乱にして、これがため事情の紛紜をいたし、ついには守旧と改進との分界も分明ならざるの禍を招くべし。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第8段今の如く役談家の繁昌する時節において、国のために利害をはかれば、政府をしてその議論を用いしむるも害あり、用いしめざるもまた害あり。これを用いんか、奇計妙策、たちまち実際に行われて、この法を作り、かの律を製し、この条をけずり、かの目を加え、したがって出だせばしたがって改め、無辜の人民は身の進退を貸して他の草紙に供するが如きことあらん。国のために大なる害なり。あるいはこれを捨てて用いざらんか、怨望満野、建白の門は市の如く、新聞紙の面は裏店の井戸端の如く、その煩わしきや衝くが如く、その面倒なるや刺すが如く、あたかも無数の小姑が一人の家嫂を窘るに異ならず。いかなる政府も、これに堪ゆること能わざるにいたらん。これに堪えずして手を出だせば、ついに双方の気配を損じ、国内に不和を生ずることあらん。また国のために害ありというべし。左にその一例をしめさん。 今の民権論者は、しきりに政府に向いて不平を訴うるが如くなるは何ぞや。政府は、果して論者と思想の元素を殊にして、その方向まったく相反するものか。政府は、前にいえる廃藩置県以下の諸件を慊とせずして、論者の持張する改進の旨とまったく相戻るものか。あるいはかりに政府をして改進を悦ばざるものとするも、この事物の変革、人心の騒乱に際して、政府のみひとりその方向を別にするを得べきか。余輩決してこれを信ぜず。論者といえどもまた然らん。政府は人事変革の原因に非ずして人心変革の結果なりとのことは、前すでにこれを述べて、論者もこれに同意したることならん。 然らばすなわち論者が不平を訴うるところは、事の元素にあらずしてその枝葉にあり、政府の精神にあらずしてその外形にあること、明らかに知るべし。この枝葉・外形の事よりして双方の間に不和を生じ、改進の一元素中に意外の変を起すは、国のためにもっとも悲しむべき事ならずや。すなわち、編首にいわゆる直接のために眼光を掩われて地位の利害に眩するものなり。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第15段一国の政は正しく人民の智愚に応ずるものなれば、人力をもって容易に料理すべからず。さりとて、政府もまた、よく人智の進歩に着目して油断すべからざるなり。政府と学者と直接に相対すること、今日の如くしては際限あるべからず。ゆえに、たがいに相遠ざかりて、相近づくの法を求めざるべからず。離は合の術なり、遠は近の方便なりとの趣意にして、結局は政府と学者と直接の関係を止め、ともに高尚の域に昇りて永遠重大の喜憂をともにせんとするの旨を述べたるものなり。たとえばここに一軒の家あらん。楼下は陋しき一室にして、楼上には夥多の美室あり。地位職分を殊にする者が、この卑陋なる一室に雑居して苦々しき思をなさんより、高く楼に昇りてその室を分ち、おのおの当務の事を務むるはまた美ならずや。室を異にするも、家を異にするに非ず。居所高ければもって和すべく、居所卑ければ和すべからざるの異あるのみ。 末段にいたり、なお一章を附してこの編を終えん。すべて事物の緩急軽重とは相対したる意味にて、これよりも緩なり彼よりも急なりというまでのことなれば、時の事情によりて、緩といえば緩ならざるはなし、急といえば急ならざるはなし。この緩急軽重の判断にあたりては、もっとも心情の偏重によりて妨げらるるものなり。ゆえに今政府の事務を概して尋ぬれば、大となく小となく悉皆急ならざるはなしといえども、逐一その事の性質を詳にするときは、必ず大いに急ならざるものあらん。また、学者が新聞紙を読みて政を談ずるも、急といえば急なれども、なおこれよりも急にしてさらに重大なる事の箇条は枚挙にいとまあらざるべし。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第7段いずれも皆、国の文明のために重大なる事件にして、学者のこれに着眼するは祝すべきことなれども、学者はただこれに眼を着し、これを議論に唱うるのみにして、その施行の一段にいたりては、ことごとくこれを政府の政に托し、政府はこの法をかくの如くしてこの事をかくの如くなすべしといい、この事の行われざることあらば、この法をもってこれを禁ずべしといい、これを禁じこれを勧め、一切万事、政府の道具仕掛けをもって天下の事を料理すべきものと思い、はなはだしきは己れ自から政府の地位に進み、自からその事を試んとする者なきに非ず。これすなわち上書建白の多くして、官府に反故のうずたかきゆえんなり。 かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢の命を拝することあらん。而してその素志果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合あるべきのみ。この不都合をもかえりみず、この失望にも懲りず、なおも奇計妙策をめぐらして、名は三千余方の兄弟にはかるといい、その内実の極意は、暗に政府を促して己が妙計を用いしめんと欲するにすぎず。区々たる政府の政に熱中奔走して、自家の領分はこれを放却して忘れたるが如し。内を外にするというべきか、外を内にするというべきか、いずれにも本気の沙汰とは認め難し。政の字の広き意味にしたがえば、人民の政事には際限あるべからず。これを放却して誰に託せんと欲するか、思わざるのはなはだしきものというべし。この人民の政を捨てて政府の政にのみ心を労し、再三の失望にも懲りずして無益の談論に日を送る者は、余輩これを政談家といわずして、新奇に役談家の名を下すもまた不可なきが如く思うなり。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第1段学者安心論 店子いわく、向長屋の家主は大量なれども、我が大家の如きは古今無類の不通ものなりと。区長いわく、隣村の小前はいずれも従順なれども、我が区内の者はとかくに心得方よろしからず、と。主人は以前の婢僕を誉め、婢僕は先の旦那を慕う。ただに主僕の間のみならず、後妻をめとりて先妻を想うの例もあり。親愛尽きはてたる夫婦の間も、遠ざかればまた相想うの情を起すにいたるものならん。されば今、店子と家主と、区長と小前と、その間にさまざまの苦情あれども、その苦情は決して真の情実を写し出したるものに非ず。この店子をして他の家主の支配を受けしめ、この区長を転じて隣村の区長たらしめなば、必ずこれに満足せずして旧を慕うことあるべし。 而してその旧、必ずしも良なるに非ず、その新、必ずしも悪しきに非ず。ただいたずらに目下の私に煩悶するのみ。けだしそのゆえは何ぞや。直接のために眼光をおおわれて、地位の利害に眩すればなり。今、世の人心として、人々ただちに相接すれば、必ず他の短を見て、その長を見ず、己れに求むること軽くして人に求むること多きを常とす。すなわちこれ心情の偏重なるものにして、いかなる英明の士といえども、よくこの弊を免かるる者ははなはだ稀なり。 あるいは一人と一人との私交なれば、近く接して交情をまっとうするの例もなきに非ざれども、その人、相集まりて種族を成し、この種族と、かの種族と相交わるにいたりては、此彼遠く離れて精神を局外に置き遠方より視察するに非ざれば、他の真情を判断して交際を保つこと能わざるべし。たとえば、遠方より望み見れば円き山にても、その山に登れば円き処を見ず、はるかに眺むれば曲りたる野路も、親しくその路を践めば曲るところを覚えざるが如し。直接をもって真の判断を誤るものというべし。かかる弊害は、近日我が邦の政談上においてもおおいに流行するが如し。左にその次第を述べん。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第10段旧幕府の末年に、天下有志の士と唱うる人物の内には、真に攘夷家もあり、また真に開国家もあり。この開攘の二家ははじめより元素を殊にする者なれば、理において決して抱合すべきに非ざれども、当時の事情紛紜に際し、幕府に敵するの目的をもって、暫時の間、異種の二元素、たがいに相投じたることあり。これを思えば、今の民権論者が不平を鳴らすその間に、識らず知らずしてその分界を踏出し、あるいは他より来りてその界を犯し、不平の一点において、かの守旧家と一時の抱合をなすのおそれなしというべからず。理をもって論ずれば、万々心配なきが如くなれども、通常の人は、さまで深謀遠慮なきものなり。 民権論者とて悉皆老成人に非ず。あるいは白面の書生もあらん、あるいは血気の少年もあらん。その成行決して安心すべからず。万々一もこの二流抱合の萌を現わすことあらば、文明の却歩は識者をまたずして知るべし。これすなわち禍の大なるものなり。国の文明を進めんとしてかえってこれを妨ぐるは、愛国者の不面目これよりはなはだしきはなかるべし。 論者つねにいわずや、一国の政府は人民の反射なりと。この言、まことに是なり。瓜の蔓に茄子は実のるべからず。政府は人民の蔓に生じたる実なり。英の人民にして英の政府あり、仏の人民にして仏の政府あり。然らばすなわち今の日本人民にして今の政府あるは、瓜の蔓に瓜の実のりたるのみ。怪しむに足らざるなり。 ここに明鏡あらん。美人を写せば美人を反射し、阿多福を写せば阿多福を反射せん。その醜美は鏡によりて生ずるに非ず、実物の持前なり。人民もし反射の阿多福を見てその厭うべきを知らば、自から装うて美人たらんことを勉むべし。無智の人民を集めて盛大なる政府を立つるは、子供に着するに大人の衣服をもってするが如し。手足寛にしてかえって不自由、自から裾を踏みて倒るることあらん。あるいは身幅の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重の小袖をもってすれば、たちまち風を引て噴嚔することあらん。
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