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福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第5段

されば人民たる者が一国にいて公に行うべき事の箇条は、政府の政に比して幾倍なるを知るべからず。外国商売の事あり、内国物産の事あり、開墾の事あり、運送の事あり、大なるは豪商の会社より、小なるは人力車挽の仲間にいたるまで、おのおのその政を施行して自家の政体を尊奉せざる者なし。かえりみて学者の領分を見れば、学校教授の事あり、読書著述の事あり、新聞紙の事あり、弁論演説の事あり。これらの諸件、よく功を奏して一般の繁盛をいたせば、これを名づけて文明の進歩と称す。 一国の文明は、政府の政と人民の政と両ながらその宜を得てたがいに相助くるに非ざれば、進むべからざるものなり。就中、人民の政は思いのほかに有力なるものにして、ややもすれば政府の政をもってこれを制すること能わざるもの多し。たとえば今の人力車の如し。その創業わずかに五、六年に過ぎざれども、すでにその通用の政体をなせば、たとい政府の力をもって前の四ツ手駕籠に復古せんとするも、決してよくすべからず。 また今の学者を見るに、維新以来の官費生徒はこれを別にし、天保年間より、漢学にても洋学にても学問に志して、今日国の用をなす者は、たいがい皆私費をもって私塾に入り、人民の学制によって成業したる者多し。今日においても官学校の生徒と私学校の生徒とを比較すれば、その学芸の進歩、一得一失、未だ優劣を決すべからず。あるいは学校費用の一点について官私を比較すれば、私立の方に幾倍の便利あること明らかに保証すべし。されば人民の政は、ただ多端なるのみに非ず、また盛大有力なりといわざるべからず。

書き下し

されば人民たる者が一国にいて公に行うべき事の箇条は、政府の政に比して幾倍なるを知るべからず。外国商売の事あり、内国物産の事あり、開墾の事あり、運送の事あり、大なるは豪商の会社より、小なるは人力車挽の仲間にいたるまで、おのおのその政を施行して自家の政体を尊奉せざる者なし。かえりみて学者の領分を見れば、学校教授の事あり、読書著述の事あり、新聞紙の事あり、弁論演説の事あり。これらの諸件、よく功を奏して一般の繁盛をいたせば、これを名づけて文明の進歩と称す。 一国の文明は、政府の政と人民の政と両ながらその宜を得てたがいに相助くるに非ざれば、進むべからざるものなり。就中、人民の政は思いのほかに有力なるものにして、ややもすれば政府の政をもってこれを制すること能わざるもの多し。たとえば今の人力車の如し。その創業わずかに五、六年に過ぎざれども、すでにその通用の政体をなせば、たとい政府の力をもって前の四ツ手駕籠に復古せんとするも、決してよくすべからず。 また今の学者を見るに、維新以来の官費生徒はこれを別にし、天保年間より、漢学にても洋学にても学問に志して、今日国の用をなす者は、たいがい皆私費をもって私塾に入り、人民の学制によって成業したる者多し。今日においても官学校の生徒と私学校の生徒とを比較すれば、その学芸の進歩、一得一失、未だ優劣を決すべからず。あるいは学校費用の一点について官私を比較すれば、私立の方に幾倍の便利あること明らかに保証すべし。されば人民の政は、ただ多端なるのみに非ず、また盛大有力なりといわざるべからず。

現代語訳

ですから、人民が一国にいて公に行うべき事柄の箇条は、政府の政に比べて、何倍あるか分からないほどです。外国との商売の事があり、国内の物産の事があり、開墾の事があり、運送の事があり、大きなものは豪商の会社から、小さなものは人力車引きの仲間にいたるまで、それぞれの政を施行して、自分たちの政体を尊び守らない者はありません。振り返って学者の領分を見れば、学校で教える事、読書や著述の事、新聞紙の事、弁論や演説の事があります。これらの事がよく成果を上げて全体の繁栄をもたらせば、これを名づけて文明の進歩といいます。 一国の文明は、政府の政と人民の政とが、ともにその宜しきを得て、互いに助け合うのでなければ進むことができません。なかでも人民の政は思いのほか有力で、ともすれば政府の政によって制することができないものが多くあります。たとえば今の人力車がそうです。その創業はわずか五、六年にすぎませんが、すでに通用の政体をなしていますから、たとえ政府の力で前の四つ手駕籠に復古させようとしても、決してできません。 また今の学者を見ると、維新以来の官費生徒は別として、天保年間から漢学でも洋学でも学問に志して、今日国の役に立っている者は、おおむね皆、私費で私塾に入り、人民の学制によって学業を成した者が多くいます。今日でも官立学校の生徒と私立学校の生徒を比べれば、その学芸の進歩、一長一短で、まだ優劣を決められません。あるいは学校の費用という一点で官立と私立を比べれば、私立の方に何倍もの便利があることは明らかに保証できます。ですから、人民の政は、ただ多方面にわたるだけでなく、盛大で有力であるといわなければなりません。

解説

この段は、人民の営みの広さと強さを具体例で示します。人力車の例は象徴的で、わずか五、六年で定着した制度は、政府の力でも元の駕籠に戻せない。私塾の成果や学校費用の比較から、民間の学びが決して官立に劣らないとも述べます。福沢自身が私塾を営む立場であり、その自負も背後にあります。現代でも、市場や現場から自然に生まれた仕組みの強さを、トップダウンの施策が覆せない例は少なくありません。

この章句が説くこと

人民の政文明の進歩人力車私塾官立と私立学者の領分

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