福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第14段
中津藩はすでにこの偶然の僥倖に由て維新の際に諸藩普通の禍を免かれ、爾後また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分ち旧藩の積金と合して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名けたり。学校の規則もとより門閥貴賤を問わずと、表向の名に唱るのみならず事実にこの趣意を貫き、設立のその日より釐毫も仮すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。 けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴を入れず、旧藩地に何等の事変あるも恬として呉越の観をなしたる者なれば、往々誤て薄情の譏は受るも、藩の事務を妨げその何れの種族に党するなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼をもってこれを視るも、上士を先にするというべからず、下士を後にするというべからず、その目的とするところは正しく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共に与に日本社会の虚威を圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰すると否とはその自然に任したりしに、士族の上下に別なく漸く学に就く者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。
書き下し
中津藩はすでにこの偶然の僥倖に由て維新の際に諸藩普通の禍を免かれ、爾後また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分ち旧藩の積金と合して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名けたり。学校の規則もとより門閥貴賤を問わずと、表向の名に唱るのみならず事実にこの趣意を貫き、設立のその日より釐毫も仮すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。 けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴を入れず、旧藩地に何等の事変あるも恬として呉越の観をなしたる者なれば、往々誤て薄情の譏は受るも、藩の事務を妨げその何れの種族に党するなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼をもってこれを視るも、上士を先にするというべからず、下士を後にするというべからず、その目的とするところは正しく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共に与に日本社会の虚威を圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰すると否とはその自然に任したりしに、士族の上下に別なく漸く学に就く者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。
現代語訳
中津藩はこの偶然の幸運によって、維新の際に諸藩に共通した災いを免れ、その後もさらにこの幸運を固めたものがあります。それが市学校の設立です。明治四年の廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾が相談して、旧藩知事の家禄を分け、旧藩の積立金と合わせて洋学の資本とし、中津の旧城下に学校を建て、市学校と名づけました。学校の規則は、門閥や貴賤を問わないと表向きに掲げただけでなく、事実としてもこの趣旨を貫き、設立のその日から少しも例外を許さず、あたかも封建門閥の名残の夢のただなかに、まったくの四民平等の新しい世界を開いたかのようでした。 思うに、慶応義塾の社員には中津の旧藩士族出身の者が多いのですが、従来、少しも藩政に口を出さず、旧藩地にどんな事変があっても平然と他人事のように見ていたため、ときに誤って薄情だという非難を受けることはあっても、藩の事務を妨げるとか、どちらかの身分に肩入れするなどと評されたことはありません。ですから、この市学校を設立するにも、本当に旧藩地全体のためにするという事実が明白で、どんな狭い目で見ても、上士を先にするとも下士を後にするとも言えません。その目的は、まさに中津旧藩の格式の誇示を抑え、これを抑えたうえで、ともに日本社会の虚威を押しつぶそうとするもののようでした。藩士がこの学校に来るかどうかは自然にまかせましたが、士族の上下の別なく次第に学ぶ者が多くなり、とりわけ上等士族の有力な人物で、子弟を学校に入れる者も少なくありませんでした。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第15段すでに学校に心を帰すれば、門閥の念も同時に断絶してその痕跡を見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮を測量する試験器というも可なり。(余輩もとより市学校に入らざる者を見て悉皆これを門閥守旧の人というに非ず。近来は市校の他に学校も多ければ、子弟のために適当の場所を選ぶは全く父母の心に存することにして、これがため、敢てその人物を軽重するにはあらざれども、真に市校に心を帰して疑わざる者は、果して門閥の念を断絶する人物なるが故に、本文のごとくこれを証するのみ。)下等士族の輩が上士に対して不平を抱く由縁は、専ら門閥虚威の一事に在て、然もその門閥家の内にて有力者と称する人物に向て敵対の意を抱くことなれども、その好敵手と思う者が首として自から門閥の陋習を脱したるが故に、下士は恰も戦わんと欲して忽ち敵の所在を失うたる者のごとし。敵のためにも、味方のためにも、双方共に無上の幸というべし。故にいわく、市学校は旧中津藩の僥倖を重ねて固くして真の幸福となしたるものなり。 余輩の所見をもって、旧中津藩の沿革を求め、殊に三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明に原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡を見ざるは事実において明白なり。(今年数十名の藩士が脱走して薩に入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余の藩士に関係あることなし。)然りといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患なきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退くものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期するところ左のごとし。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第13段この事情に従て維新の際に至り、ますます下士族の権力を逞うすることあらば、或は人物を黜陟し或は禄制を変革し、なお甚しきは所謂要路の因循吏を殺して、当時流行の青面書生が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋し、また謂れなきに非ず。下等士族の輩が、数年以来教育に心を用るといえども、その教育は悉皆上等士族の風を真似たるものなれば、もとよりその範囲を脱すること能わず。剣術の巧拙を争わん歟、上士の内に剣客甚だ多くして毫も下士の侮を取らず。漢学の深浅を論ぜん歟、下士の勤学は日浅くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。 また下士の内に少しく和学を研究し水戸の学流を悦ぶ者あれども、田舎の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出ること少なく他藩人に交ること稀なるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視して憚るところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚てこれを実地に活用すること能わず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥なり、おおよそ一様同等にして抜群の巨魁なきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県の時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事静穏なりし由縁なり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾することあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然らざるは、これを偶然の幸福、因循の賜というべし。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第2段余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望すること切なれども、誰に向てその利害を説くべき路を知らず。故に今この冊子を記して、幸に華族その他有志者の目に触れ、為に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚というべきのみ。 一、維新の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人の目撃するところにして、これを記すはほとんど無益なるに似たれども、光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。故にこの冊子、たとい今日に陳腐なるも、五十年の後には却て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。 明治十年五月三十日 福沢諭吉 記 旧藩情 旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓(旧厩格)供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明に上下両等の間に分界を画すべき事実あり。すなわちその事実とは、
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第1段旧藩情緒言 一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を与にすといえども、動もすれば自から運動の遅速方向に心付かざること多し。ただ岸上より望観する者にして始てその精密なる趣を知るべし。中津の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居てかえって自からその動くところの趣に心付かず、不知不識以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊かその望観のままを記したるのみ。 一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態を記したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士と下士との軋轢あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害栄辱を与にして、公共のためを謀る者あるを聞かず。故に世上有志の士君子が、その郷里の事態を憂てこれが処置を工夫するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。 一、旧藩地に私立の学校を設るは余輩の多年企望するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄と旧官員の周旋とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡を以て見れば未だ失望の箇条もなく、先ず費したる財と労とに報る丈けの功をば奏したるものというべし。蓋し廃藩以来、士民が適として帰するところを失い、或はこれがためその品行を破て自暴自棄の境界にも陥るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立の景影だにも論ずべき場所として学校の設あれば、その状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明を取るに足らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。
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福沢諭吉小品集・慶応義塾の記・第2段けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来舶するや、ただ西陲の一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未だ隔靴の憾を免れず。然るに嘉永の季、亜美利駕人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好を英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を首唱し、生徒を教育し、ここにいたりてはじめて洋学の名、起れり。これあに文学の一大進歩ならずや、おもうに一事一運の将に開かんとするや、進むに必ず漸をもってす。たとえばなお楼閣にのぼるに階級あるが如し。すなわち天保・弘化の際、蘭学の行われしは、宝暦・明和の諸哲これが初階を成し、方今、洋学のさかんなるは、各国の通好によるといえども、実に天保・弘化の諸公、これが次階をなせり。然らばすなわち吾が党、今日の盛際に遇うも、古人の賜に非ざるをえんや。 そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚胎し、物理を格致し、人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの要務なれば、これを天真の学というて可ならんか。吾が党、この学に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩澣、つねに望洋の嘆を免れず。実に一大事業と称すべし。 然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りてかりに慶応義塾と名づく。 ことし四月某日、土木、功を竣め、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈を担うてここに集り、才を育し智を養い、進退必ず礼を守り、交際必ず誼を重じ、もって他日世になす者あらば、また国家のために小補なきにあらず。かつまた、後来この挙に傚い、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾曹をみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第12段これに反して上士は古より藩中無敵の好地位を占るが為に、漸次に惰弱に陥るは必然の勢、二、三十年以来、酒を飲み宴を開くの風を生じ(元来飲酒会宴の事は下士に多くして、上士は都て質朴なりき)、殊に徳川の末年、諸侯の妻子を放解して国邑に帰えすの令を出したるとき、江戸定府とて古来江戸の中津藩邸に住居する藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻りに都会の地に往来してその風俗に慣れ、その物品を携えて帰り、中津へ移住する江戸の定府藩士は妻子と共に大都会の軽便流を田舎藩地の中心に排列するの勢なれば、すでに惰弱なる田舎の士族は、あたかもこれに眩惑して、ますます華美軽薄の風に移り、およそ中津にて酒宴遊興の盛なる、古来特にこの時を以て最とす。故に中津の上等士族は、天下多事のために士気を興奮するには非ずして、かえってこれがためにその懶惰不行儀の風を進めたる者というべし。 右のごとく上士の気風は少しく退却の痕を顕わし、下士の力は漸く進歩の路に在り。一方に釁の乗ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙せざるもまた自然の勢、これを如何ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役なる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関らざる者なり)数十名、ひそかに相議して、当時執権の家老を害せんとの事を企てたることあり。中津藩においては古来未曽有の大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛して遺類なきは疑を容れざるところなれども、如何せん、この時の事勢においてこれを抑制すること能わず、ついに姑息の策に出で、その執政を黜けて一時の人心を慰めたり。二百五十余年、一定不変と名けたる権力に平均を失い、その事実に顕われたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三癸亥の年に在り)
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