福沢諭吉小品集 / 慶応義塾の記・第2段
けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来舶するや、ただ西陲の一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未だ隔靴の憾を免れず。然るに嘉永の季、亜美利駕人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好を英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を首唱し、生徒を教育し、ここにいたりてはじめて洋学の名、起れり。これあに文学の一大進歩ならずや、おもうに一事一運の将に開かんとするや、進むに必ず漸をもってす。たとえばなお楼閣にのぼるに階級あるが如し。すなわち天保・弘化の際、蘭学の行われしは、宝暦・明和の諸哲これが初階を成し、方今、洋学のさかんなるは、各国の通好によるといえども、実に天保・弘化の諸公、これが次階をなせり。然らばすなわち吾が党、今日の盛際に遇うも、古人の賜に非ざるをえんや。 そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚胎し、物理を格致し、人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの要務なれば、これを天真の学というて可ならんか。吾が党、この学に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩澣、つねに望洋の嘆を免れず。実に一大事業と称すべし。 然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りてかりに慶応義塾と名づく。 ことし四月某日、土木、功を竣め、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈を担うてここに集り、才を育し智を養い、進退必ず礼を守り、交際必ず誼を重じ、もって他日世になす者あらば、また国家のために小補なきにあらず。かつまた、後来この挙に傚い、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾曹をみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。
書き下し
けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来舶するや、ただ西陲の一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未だ隔靴の憾を免れず。然るに嘉永の季、亜美利駕人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好を英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を首唱し、生徒を教育し、ここにいたりてはじめて洋学の名、起れり。これあに文学の一大進歩ならずや、おもうに一事一運の将に開かんとするや、進むに必ず漸をもってす。たとえばなお楼閣にのぼるに階級あるが如し。すなわち天保・弘化の際、蘭学の行われしは、宝暦・明和の諸哲これが初階を成し、方今、洋学のさかんなるは、各国の通好によるといえども、実に天保・弘化の諸公、これが次階をなせり。然らばすなわち吾が党、今日の盛際に遇うも、古人の賜に非ざるをえんや。 そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚胎し、物理を格致し、人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの要務なれば、これを天真の学というて可ならんか。吾が党、この学に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩澣、つねに望洋の嘆を免れず。実に一大事業と称すべし。 然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りてかりに慶応義塾と名づく。 ことし四月某日、土木、功を竣め、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈を担うてここに集り、才を育し智を養い、進退必ず礼を守り、交際必ず誼を重じ、もって他日世になす者あらば、また国家のために小補なきにあらず。かつまた、後来この挙に傚い、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾曹をみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。
現代語訳
思うに、この時代であっても、通商の相手国はオランダ一国に限られ、その船が来るのも西の端の長崎だけでしたから、書籍の乏しさはもちろんのこと、すべて修学の道は大変不便で、まだ靴の上から足をかくようなもどかしさを免れませんでした。ところが嘉永の末、アメリカ人がわが国に来航し、はじめて和親と貿易の盟約を結び、またその友好をイギリス、フランス、ロシアなどの諸国にも通じるようになってから、わが国の形勢はついに一変し、世の識者はみな、かの国々の事情に通じることが急務であると知り、そこで諸学科が一時に興り、それぞれその学問を唱え、生徒を教育するようになり、ここに至ってはじめて洋学の名が起こりました。これは文学の大きな進歩ではないでしょうか。思うに、一つの事業や運が開こうとするとき、進むには必ず少しずつ段階を踏みます。たとえば高い建物に登るのに階段があるようなものです。つまり、天保、弘化のころに蘭学が行われたのは、宝暦、明和の諸賢がその初段をつくり、今日の洋学の盛んなことは、各国との通好によるとはいえ、実に天保、弘化の諸公がその次の段をつくったのです。そうであれば、私たちが今日の盛んな時代に出会えたのも、昔の人の賜物でないはずがありません。 そもそも洋学が洋学である理由は、自然に基づき、物の理を究め、人の道を教え、身を立て世を営む業であり、真実で偽りなく、大小のことを備えないものはなく、人として学ばなければならない要務ですから、これを天真の学と呼んでよいのではないでしょうか。私たちがこの学問に従事してすでに年を重ねましたが、わずかにその一端をうかがうばかりで、百科の広大さには、いつも海を前に嘆息するような思いを免れません。実に一大事業というべきです。 しかし、難しいと見てやらないのは大丈夫の志ではなく、益があると知りながら興さないのは国に報いる義がないようなものです。そもそもこの学問を世に広めるには、学校の規律を西洋に学び、生徒を教え導くことを第一の務めとします。そこで私たち同志の士が相談して、ひそかにあの共立学校の制度にならい、小さな学舎を一つ設け、創立の年号をとって仮に慶応義塾と名づけました。 今年四月某日に、土木の工事が終わり、新たに塾の規律と勧戒を立てました。願わくは同志の諸君が、千里の道をも書箱を担ってここに集まり、才を育て知恵を養い、進退には必ず礼を守り、交際には必ず誼を重んじ、そうして他日、世に事をなす者となるなら、国家のために少しの補いにならないこともないでしょう。かつまた、のちの人がこの挙にならい、ますますその規模を大きくし、ますますその会社を盛んにして、後世の私たちを見ることが、ちょうど私たちが先哲を慕うようになれるなら、これもまた一大快事ではないでしょうか。ああ同志の諸君、心を合わせて励み、その功を成し遂げてください。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・慶応義塾の記・第1段今ここに会社を立てて義塾を創め、同志諸子、相ともに講究切磋し、もって洋学に従事するや、事、もと私にあらず、広くこれを世に公にし、士民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。 そもそも洋学のよって興りしその始を尋ぬるに、昔、享保の頃、長崎の訳官某等、和蘭通市の便を計り、その国の書を読み習わんことを訴えしが、速やかに允可を賜りぬ。すなわち我が邦の人、横行の文字を読み習うるの始めなり。 その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫周、杉田斎等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋し、おのおの得るところありといえども、洋学草昧の世なれば、書籍はなはだ乏しく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩たき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質せり。けだしこの人々いずれも英邁卓絶の士なれば、ひたすら自レ我作レ古の業にのみ心をゆだね、日夜研精し寝食を忘るるにいたれり。あるいは伝う、蘭化翁、長崎に往きて和蘭語七百余言を学び得たりと。これによって古人、力を用ゆるの切なると、その学の難きとを察すべし。その後、大槻玄沢、宇田川槐園等継起し、降りて天保弘化の際にいたり、宇田川榛斎父子、坪井信道、箕作阮甫、杉田成卿兄弟および緒方洪庵等、接踵輩出せり。この際や読書訳文の法、ようやく開け、諸家翻訳の書、陸続、世に出ずるといえども、おおむね和蘭の医籍に止まりて、かたわらその窮理、天文、地理、化学等の数科に及ぶのみ。ゆえに当時、この学を称して蘭学といえり。
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福沢諭吉小品集・中津留別の書・第5段方今、我が国に外国の交易始り、外国人の内、あるいは不正の輩ありて、我が国を貧にし我が国民を愚にし、自己の利を営んとする者多し。されば今、我が日本人の皇学・漢学など唱え、古風を慕い新法を悦ばず、世界の人情世体に通ぜずして、自から貧愚に陥るこそ、外国人の得意ならずや。彼の策中に籠絡せらるる者というべし。 この時にあたって外人のはばかるものは、ひとり西洋学のみ。ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事を談じ、内には智徳を脩て人々の独立自由をたくましゅうし、外には公法を守て一国の独立をかがやかし、はじめて真の大日本国ならずや。これすなわち我が輩の着眼、皇漢洋三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。 願くは我が旧里中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、脩徳開智、鄙吝の心を却掃し、家内安全、天下富強の趣意を了解せらるべし。人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん。発足の期、近にあり。怱々筆をとって西洋書中の大意を記し、他日諸君の考案にのこすのみ。 明治三年庚午一一月二七夜、中津留主居町の旧宅敗窓の下に記す 福沢諭吉
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福沢諭吉小品集・成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ・第1段左の一篇は、去る一三日、東京芝区三田二丁目慶応義塾邸内演説館において、福沢先生が同塾学生に向て演説の筆記なり。 学問に志して業を卒りたらば、その身そのまま即身実業の人たるべしとは、余が毎に諸氏に勧告するところにして、毎度の説法、聴くもわずらわしなど思う人もあるべけれども、余が身に経歴したる時勢の変遷を想回えして、近く第二世の事を案ずれば、他人のためならで、自身の情に自から禁ずること能わざるものあれば、これを諸氏に説き明らかにして、かねてまた諸氏の父兄にもこの意を通達せしめんと欲するものなり。 そもそも余は旧中津藩の士族にして、少小の時より藩士同様に漢書を学び、年二十歳ばかりにして始めて洋学に志したるは、今を去ることおよそ三十余年前なり。この時に洋書を読みはじめたるは、何の目的をもってしたるか、今において自から解すること能わず。 当時、世に洋学者なきにあらざれども、たいてい皆、医術研究のためにする者にして、前途の目的もあることなれども、余が如きはもと医家の子にあらず、また自分に医師たらんと欲する志もなし。ただわけもなく医学塾にいて、医学生とともに荷蘭の医書を講じ、物理を研究したるのみにして、かつこの洋学を勉むればこれによりて誉れを郷党朋友に得るかというに、決して然らざるのみならず、かえって公衆の怒に触るるくらいの時勢にして、はなはだ楽しからず。あるいはこれによりて身に利することあるやというに、これまた思いも寄らず。すでに誉れなく、また利益なし、何のために辛苦勤学したるやと尋ねらるれば、ただ今にても返答に困る次第なれども、一歩を進めて考うれば説なきにあらず。 すなわち余は日本の士族の子にして、士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具えたるは疑もなき事実にして、その気風とはただ出来難き事を好んでこれを勤むるの心、これなり。当時横文読むの業はきわめてむつかしきことにして、容易に出来難き学問なりしがゆえに、これを勤めたることならん。あるいは洋学ならで、ほかに何か困難なる事業もありて、偶然に思いつきたらば、その方に身を委ねたるやも知るべからず。
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福翁自伝・王政維新・授業料の濫觴扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
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福翁自伝・王政維新・教育の方針は数理と独立(1)畢竟私がこの日本に洋学を盛にして、如何でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、恰も東道の主人と為り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来私の教育主義は自然の原則に重きを置て、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営は都てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重苟も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚至極にし所謂独立の点に安心するようにしたいものだと、先ず土台を定めて、一心不乱に唯この主義にのみ心を用いたと云うその訳けは、古来東洋西洋相対してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造な相違である。双方共々に道徳の教もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒の情に濃なるも、その大本を尋れば自から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外に逸することは叶わず、独立の外に依る所なしと云うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽く視て居る。是れでは差向き国を開て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕一寸した話の端にもその必要を語り、或は演説に説き或は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々工風して躬行実践を勉め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何に拘らず物の数理に迂闊ならず、気品高尚にして能く独立の趣意を全うする者ありと聞けば、是れが老余の一大楽事です。
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福翁自伝・王政維新・日本国中唯慶應義塾のみ此方がこの通りに落付払て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云う気風は何処かに流行して、上野の騒動が済むと奥州の戦争と為り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛になりました。顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛が分らぬ位、況して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中苟も書を読で居る処は唯慶應義塾ばかりと云う有様で、その時に私が塾の者に語たことがある。昔し/\拿破翁の乱に和蘭国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度地方まで悉く取られて仕舞て、国旗を挙げる場所がなくなった。所が、世界中纔に一箇処を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に飜々して和蘭王国は曾て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
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