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福沢諭吉小品集 / 学問の独立・第12段

在昔、徳川政府勘定所の例に、旗下の士が廩米を受取るとき、米何石何斗と書く米の字は、その竪棒を上に通さずして俗様に※と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の争論となりて、ついに勘定奉行と大学頭と直談の大事件に及びたるときに、大学頭の申し分に、日本国中文字のことは拙者一人の心得にあり、米は米の字にてよろしとの一言にて、政府中の全権と称する勘定奉行も、これがために失敗したりとの一話あり。右は事実か、あるいは好事家の作りたる奇話か、これを知るべからずといえども、林家に文権の帰したる事情は、推察するに足るべし。 今日は時勢もちがい、かかる奇話あるべきようもなしといえども、もしも幸にして学事会の設立もあらば、その権力は昔日の林家の如くならんこと、我が輩の祈るところなり。また、学事会なるものが、かく文事の一方について全権を有するその代りには、これをして断じて政事に関するを得せしめず、如何なる場合においても、学校教育の事務に関する者をして、かねて政事の権をとらしむるが如きは、ほとんどこれを禁制として、政権より見れば、学者はいわゆる長袖の身分たらんこと、これまた我が輩の祈るところにして、これを要するに、学問をもって政事の針路に干渉せず、政事をもって学問の方向を妨げず、政事と学権と両立して、両ながら、その処を得せしめなば、政を施すにも易く、学を勉むるにも易くして、双方の便利、これより大なるものなかるべしと信ずるものなり。

書き下し

在昔、徳川政府勘定所の例に、旗下の士が廩米を受取るとき、米何石何斗と書く米の字は、その竪棒を上に通さずして俗様に※と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の争論となりて、ついに勘定奉行と大学頭と直談の大事件に及びたるときに、大学頭の申し分に、日本国中文字のことは拙者一人の心得にあり、米は米の字にてよろしとの一言にて、政府中の全権と称する勘定奉行も、これがために失敗したりとの一話あり。右は事実か、あるいは好事家の作りたる奇話か、これを知るべからずといえども、林家に文権の帰したる事情は、推察するに足るべし。 今日は時勢もちがい、かかる奇話あるべきようもなしといえども、もしも幸にして学事会の設立もあらば、その権力は昔日の林家の如くならんこと、我が輩の祈るところなり。また、学事会なるものが、かく文事の一方について全権を有するその代りには、これをして断じて政事に関するを得せしめず、如何なる場合においても、学校教育の事務に関する者をして、かねて政事の権をとらしむるが如きは、ほとんどこれを禁制として、政権より見れば、学者はいわゆる長袖の身分たらんこと、これまた我が輩の祈るところにして、これを要するに、学問をもって政事の針路に干渉せず、政事をもって学問の方向を妨げず、政事と学権と両立して、両ながら、その処を得せしめなば、政を施すにも易く、学を勉むるにも易くして、双方の便利、これより大なるものなかるべしと信ずるものなり。

現代語訳

昔、徳川政府の勘定所の例で、旗本が俸禄の米を受け取るとき、米何石何斗と書く米の字を、縦棒を上まで通さずに俗な様式で書くのが決まりだったのに、あるとき、林大学頭が出した受取書に、楷書で普通に米と書いたので、勘定所の俗吏たちが、どうしてこれを許せようかと、成規に背くとして却下したところ、林家でも納得せず、その家の用人と勘定所の俗吏とが一場の争いになり、ついに勘定奉行と大学頭が直談判するほどの大事件になったとき、大学頭の言い分は、日本国中の文字のことは拙者一人の心得にある、米は米の字でよい、との一言で、政府の全権と称する勘定奉行も、これのために失敗したという一話があります。これは事実か、あるいは好事家の作った奇談か、知ることはできませんが、林家に文権が帰した事情は推察するに足ります。 今日は時勢も違い、このような奇談がありようもありませんが、もし幸いにして学事会の設立があれば、その権力はかつての林家のようになることを、私は祈ります。また、学事会がこのように文事の一方について全権を持つ代わりに、これには断じて政事に関与させず、どのような場合でも、学校教育の事務に関わる者が、あわせて政事の権を取ることは、ほとんど禁制として、政権から見れば、学者はいわゆる長袖の身分であることも、また私の祈るところで、要するに、学問をもって政事の針路に干渉せず、政事をもって学問の方向を妨げず、政事と学権とが両立して、双方がそれぞれ所を得るなら、政を施すのにも易く、学を勉めるのにも易く、双方の便利はこれより大きいものはないと信じます。

解説

勘定所とのやりとりという逸話を引き、文字や学問の権威を専門家が持つことの意義を語ります。事実かは分からないと福沢自身が断っており、読む側も逸話の扱いに慎重になれます。学者は文事の全権を持つ代わりに、政事に関与しないという互いの不可侵が要点で、役割分担の線を明確にする契約のような発想です。部門間で権限と責任を対にして設計する場面に通じます。

この章句が説くこと

林大学頭の逸話文権学事会長袖の身分不干渉政事と学権の両立

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