福沢諭吉小品集 / 学問の独立・第5段
徳川の儒臣林大学頭は、世々大学頭にして、その身分は、老中、若年寄の次にして旗下の上席なれども、徳川の施政上に釐毫の権力を持たず、あるいは国家の大事にあたりては、大政府より諮詢のこともあれども、ただ顧問にとどまるのみ。けだしその然るゆえんは、武人の政府、文を軽んずるの幣などとて、嘆息する者もありしかども、我が輩の所見はまったくこれに反し、政府の文武にかかわらず、子弟の教育を司る学者をして政事に参与せしむるは国の大害にして、徳川の制度・慣行こそ当を得たるものと信ずるなり。 当時もしも大学頭をして実際の行政官たらしめんか、林家の党類はなはだ多くして、いずれも論説には富む者なれば、政府の中にたちまち林家の一政党をなし、而してその党類の力、よく全国を圧倒するには足らずして、かえって反対の敵を生じ、林家支配の官立学校にて政談の主義はかくの如し、これを実際に施したる政府の針路は云々と称すれば、都下の家塾はむろん、地方にも藩立・私立の学校も盛なれば、あるいは林家に従属し、あるいはこれに反対し、学問の談論よりただちに政治の主義に推し及ぼして、ただに中央政府中の不和のみならず、あるいは全国の変乱にいたるも計るべからざりしに、徳川政府の始終、かつてその弊害を見ざりしは、ひっきょうするに、教育の学者をして常に政治社外にあらしめたるの功徳といわざるをえざるなり。 人、あるいはいわく、学問と政治とはもとより異なり、異なるがゆえに、学問所に政談を禁じて、多く政治の書を読ましめざるなり、その制法・規則さえ定まれば、二者の分界明白にして人を誤ることなし、との説あれども、ただ説にいうべくして、教育の実際に行わるべからざるの言なり。たとい、いかなる法則を設けて学問所を検束するも、いやしくもその教育を支配する学頭にして行政部内の人なれば、教育を受くる学生を禁じて政治の心なからしめんとするは、難易を問わずしてまずそのよくすべからざるを知るべし。
書き下し
徳川の儒臣林大学頭は、世々大学頭にして、その身分は、老中、若年寄の次にして旗下の上席なれども、徳川の施政上に釐毫の権力を持たず、あるいは国家の大事にあたりては、大政府より諮詢のこともあれども、ただ顧問にとどまるのみ。けだしその然るゆえんは、武人の政府、文を軽んずるの幣などとて、嘆息する者もありしかども、我が輩の所見はまったくこれに反し、政府の文武にかかわらず、子弟の教育を司る学者をして政事に参与せしむるは国の大害にして、徳川の制度・慣行こそ当を得たるものと信ずるなり。 当時もしも大学頭をして実際の行政官たらしめんか、林家の党類はなはだ多くして、いずれも論説には富む者なれば、政府の中にたちまち林家の一政党をなし、而してその党類の力、よく全国を圧倒するには足らずして、かえって反対の敵を生じ、林家支配の官立学校にて政談の主義はかくの如し、これを実際に施したる政府の針路は云々と称すれば、都下の家塾はむろん、地方にも藩立・私立の学校も盛なれば、あるいは林家に従属し、あるいはこれに反対し、学問の談論よりただちに政治の主義に推し及ぼして、ただに中央政府中の不和のみならず、あるいは全国の変乱にいたるも計るべからざりしに、徳川政府の始終、かつてその弊害を見ざりしは、ひっきょうするに、教育の学者をして常に政治社外にあらしめたるの功徳といわざるをえざるなり。 人、あるいはいわく、学問と政治とはもとより異なり、異なるがゆえに、学問所に政談を禁じて、多く政治の書を読ましめざるなり、その制法・規則さえ定まれば、二者の分界明白にして人を誤ることなし、との説あれども、ただ説にいうべくして、教育の実際に行わるべからざるの言なり。たとい、いかなる法則を設けて学問所を検束するも、いやしくもその教育を支配する学頭にして行政部内の人なれば、教育を受くる学生を禁じて政治の心なからしめんとするは、難易を問わずしてまずそのよくすべからざるを知るべし。
現代語訳
徳川の儒臣である林大学頭は、代々大学頭であり、その身分は老中、若年寄の次で旗本の上席でしたが、徳川の施政においてわずかの権力も持たず、国家の大事に際して大政府から諮問があることもありましたが、ただ顧問にとどまるだけでした。そうなっていたのは、武人の政府が文を軽んじる弊害だと嘆く者もいましたが、私の考えはまったくこれに反して、政府が文であれ武であれ、子弟の教育を司る学者を政事に参加させるのは国の大害であり、徳川の制度と慣行こそ当を得たものだと信じています。 当時もし大学頭を実際の行政官にしていたら、林家の党類はとても多く、みな議論の豊かな者たちですから、政府の中にたちまち林家の一つの政党をなし、しかもその党類の力が全国を圧倒するには足りず、かえって反対の敵を生み、林家が管理する官立学校で政談の主義はこのようなものだ、これを実際に施した政府の針路は云々と言われるでしょう。都の家塾はもちろん、地方にも藩立や私立の学校が盛んでしたから、あるいは林家に従い、あるいは反対し、学問の議論から直ちに政治の主義へ推し及ぼして、ただ中央政府の不和だけでなく、全国の変乱にまで至るかもしれなかったのに、徳川政府がその始終、そのような弊害を見なかったのは、結局、教育の学者を常に政治の外に置いたことの功徳といわざるをえません。 ある人は言います。学問と政治はもとより異なるから、異なるがゆえに、学問所で政談を禁じ、政治の書を多く読ませないのだ、その制度や規則さえ定まれば、二者の境目は明白で、人を誤らせることはない、と。しかしそれは口で言えても、教育の実際には行えない言葉です。たとえどのような法則を設けて学問所を取り締まっても、その教育を支配する学頭が行政部内の人であれば、教育を受ける学生に政治の心を持たせまいと禁じることは、難しいかどうかを問う以前に、できないことが分かるでしょう。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第4段これを要するに、政治は活溌にして動くものなり、学問は沈深にして静なるものなり。静者をして動者と歩をともにせしめんとす、その際に幣を見るなからんとするも得べからず。たとえば、青年の学生にして漫に政治を談じ、または政談の新聞紙等を読みて世間に喋々するは、我が輩も好まざるところにして、これをとどむるはすなわち静者をして静ならしめ、学者のために学者の本色を得せしめんとするの趣意なれども、もしもこれをとどむる者が行政官吏の手より出ずるときは、学者のためにするにかねてまた、行政の便利のためにするの嫌疑なきを得ず。 然るに行政の性質はもっとも活溌にして、随時に変化すべきがゆえに、一時、静を命ずるも、また時として動を勧むるなきを期すべからず。あるいは他の動者に反対して静を守るの極端は、己れ自から静の境界をこえて、反動の態に移るなきを期すべからず。ひっきょう、学問と政治と相密着するの余弊ならん。我が輩がその分離を祈るゆえんなり。 学問と政治と密着せしむるの不利は、ひとり我が輩の発明に非ず。古来、我が日本国において、その理由趣旨を明言したる者こそなけれども、実際においてその趣旨の行われたるは不思議なりというべし。往古の事はしばらくさしおき、徳川の時代において中央政府はむろん、三百藩にも儒臣なる者を置き、子弟の教育を司るの慣行にして、これを尊敬せざるには非ず、藩主なおかつ儒臣に対しては師と称するほどのことにして、栄誉少なからずといえども、そのこれを尊ぶや、ただ学問上に限るのみにして、政治に関してはかつて儒臣の喙をいれしめず、はなはだしきはこれを長袖の身分と称して、神官、僧侶、医師の輩と同一視して、政庁に入れざるのみならず、他士族と歯するを許さざるの風なりき。
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第10段右等は維新前後の大事変なれども、大変の時勢はしばらくさしおき、平時といえども、世の政談の熱度、次第に増進すれば、その気はおのずから学校に波及して、校中多少の熱を催おすべきは、自然の勢においてまぬかれ難きことならん。全国の学校を行政官に支配し、また行政官の手をもってその教授を司どり、かえりみて各地方の政治家を見れば、時の政府と意見を殊にして、これに反対する者あるの場合においては、その反対の働は、単に政治の事項にとどまらずして、行政部内にある諸学校にまで及ぼして、本来無辜の学問に対して無縁の政敵を出現するにいたるべし。 すでに今日にありても、学校の教員等を採用するに、その政治の主義いかんを問うて、何々政党に縁ある者は用い難しと、きわめて窮窟なることをいう者あれば、また一方には小学の教員を雇うに、何某はいずれの政談演説会に聴衆の喝采を得たる人物なれば、少しくその給料を豊にしてこれを遇すべしとて、学識の深浅を問わずして、小政談の巧拙をもって品評を下す者あり。双方ともに政治の熱心をもって学校を弄ぶものというべし、双方ともに学問のために敵を求むるものというべし。 元来学問は、他の武芸または美術等にひとしく、まったく政治に関係を持たず、如何なる主義の者にても、ただその学術を教授するの技倆ある者にさえあれば、教員として妨なきはずなるに、これを用うるに、その政治上の主義如何を問い、またその政談の巧拙を評するが如きは、今日こそ世人の軽々看過するところならんといえども、その実は恐るべき禍乱の徴候にして、我が輩は天下後日の世相を臆測し、日本の学問は不幸にして政治に附着して、その惨状の極度はかの趙末、旧水戸藩の覆轍に陥ることはなかるべきやと、憂苦に堪えざるなり。
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第12段在昔、徳川政府勘定所の例に、旗下の士が廩米を受取るとき、米何石何斗と書く米の字は、その竪棒を上に通さずして俗様に※と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の争論となりて、ついに勘定奉行と大学頭と直談の大事件に及びたるときに、大学頭の申し分に、日本国中文字のことは拙者一人の心得にあり、米は米の字にてよろしとの一言にて、政府中の全権と称する勘定奉行も、これがために失敗したりとの一話あり。右は事実か、あるいは好事家の作りたる奇話か、これを知るべからずといえども、林家に文権の帰したる事情は、推察するに足るべし。 今日は時勢もちがい、かかる奇話あるべきようもなしといえども、もしも幸にして学事会の設立もあらば、その権力は昔日の林家の如くならんこと、我が輩の祈るところなり。また、学事会なるものが、かく文事の一方について全権を有するその代りには、これをして断じて政事に関するを得せしめず、如何なる場合においても、学校教育の事務に関する者をして、かねて政事の権をとらしむるが如きは、ほとんどこれを禁制として、政権より見れば、学者はいわゆる長袖の身分たらんこと、これまた我が輩の祈るところにして、これを要するに、学問をもって政事の針路に干渉せず、政事をもって学問の方向を妨げず、政事と学権と両立して、両ながら、その処を得せしめなば、政を施すにも易く、学を勉むるにも易くして、双方の便利、これより大なるものなかるべしと信ずるものなり。
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第7段これに反して、支那の趙宋において学者の朋党、近世日本の水戸藩において正党奸党の騒乱の如きは、いずれも皆、教育家にして国の行政にあずかり、学校の朋党をもって政治に及ぼし、政治の党派論をもって学校の生徒を煽動し、ついにその余毒を一国の社会に及ぼしたるの悪例なり。教育の首領たる者が学校の生徒を左右するにあたりては、もとよりその首領の意見次第にて、他の学校と主義を殊にして、学派の同じからざることもあらん、はなはだしきは相互に敵視することもあらんといえども、政事に関係せざる間はただ学問上の敵対にして、武術の流儀を殊にし、書画の風を殊にするものにひとしく、毫も世の妨害たらざるのみならず、かえって競争の方便たるべしといえども、いやしくもその学派をして政治上の性質を帯びしむるときは、沈静の色はたちまち変じて苛烈活動の働を現わし、その禍のいたるところ、実に測量すべからざるものあり。経世家のあくまでも注意用心すべきところのものなり。 我が国においても数年の後には国会を開設するとのことにして、世上には往々政党の沙汰もあり。国会開設の後には、いずれ公然たる党派の政治となることならんか。かつて日本に先例もなきことなれば、開設後の事情は今より臆測すべからざるところなれども、政事の主義については、色々に仲間をわかちてずいぶん喧しきことならん。あるいは政府が随時に交代すること、西洋諸国の例の如くならんか。たとえあるいは交代せざるにもせよ、また交代するにもせよ、政の針路は随時に変更せざるをえず。然る時にあたりて、全国の学校はその時の政府の文部省に附属し、教場の教員にいたるまでも政府の官吏にして、政府の針路一変すれば学風もまた一変するが如き有様にては、天下文運の不幸これより大なるはなし。
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第6段あるいは生徒を教訓警戒して、政談に喋々するなかれ、世上に何々を談ずる者あり、何々に熱心する者あり、はなはだ心得違なればこれにならうなかれと禁ずれば、その禁止の言葉の中におのずから他の党派に反対してこれを嫌忌するの意味を含有するがゆえに、たといこれを禁じ了るも、その学生の一類は、かの禁止の言中、おのずから政治の意味あるを知る者なれば、ただ口にこそ政を談ぜざれども、その成跡はあたかも政談を談ぜざるの政党たるべきのみ。 元来政治の主義・針路を殊にするは、異宗旨の如きものにして、たとえば今、法華宗の僧侶が衆人に向いて、念仏を唱うるなかれというのみにて、あえて自家の題目を唱えよと勧むるには非ざるも、その念仏を禁ずるの際に、法華宗に教化せんとするの意味は十分に見るべきが如し。結局、学校の生徒をして政治社外に教育せんとするには、その首領なる者が、真実に行政の外にありて、中心より無偏・無党なるに非ざれば、かなわざることと知るべし。真実に念仏を禁じて仏法の念なからしめんと欲せば、念仏も禁じ題目も禁ずるか、または念仏も題目も、ともに嫌忌せずして勝手に唱えしめ、ただ一身の自家宗教を信ぜずして、これを放却するの外に方略あるべからず。 首領の心事と地位と、実に偏党なきにおいては、その学校に何の書を読み何事を談ずるも、なんらの害をもなさざるのみならず、学問の本色において、社会の現事に拘泥することなくして、目的を永遠の利害に期するときは、その読書談論は、かえって傍観者の品格をもって、大いに他の実業家を警しむるの大効を奏するに足るべし。前にいえる林家及びその他の儒流、なお上りて徳川の初代にありては天海僧正の如き、かつて幕政に関せずして、かえって時として大いに政機を助けたるは、決して偶然に非ざるなり。
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福沢諭吉小品集・学問の独立・第3段もとより学問の事なれば、行政官の学校に学ぶも、またいずれの学問所に学ぶも同様なるべきに似たれども、政治社会の実際において然らざるものあり。けだし国の政事は、前にもいえる如く、今日の人事にあたりて臨機応変の処分あるべきものにして、たとえば饑饉には救恤の備えをなし、外患には兵馬を用意し、紙幣下落すれば金銀貨を求め、貿易の盛衰をみては関税を上下する等、俗言これを評すれば掛引の忙わしきものなるがゆえに、もしも国の学校を行政の部内に入るるときは、その学風もまた、おのずからこの掛引のために左右せらるるなきを期すべからず。掛引は日夜の臨機応変にして、政略上にもっとも大切なる部分なれば、政治家の常に怠るべからざる事なれども、学問は一日一夜の学問に非ず、容易に変易すべからざるなり。 もとより今の文部省の学制とても、決して政治に関係するに非ず。その学校の教則の如き、我が輩の見るところにおいて大なる異論あるなし。徳育を重んじ智育を貴び、その術学、たいがい皆、西洋文明の元素にとりて、体育養生の法にいたるまでも遺すところなきは、美なりというべしといえども、いかんせん、この美なる学制を施行する者が、行政官の吏人たるのみならず、ただちに生徒に接して教授する者もまた吏人にして、かつ学校教場の細事務と一般の気風とは学則中に記すべきにも非ざれば、その気風精神のよりて生ずる源は、これを目下の行政上にとらざるをえず。而してその行政なるものは、全体の性質において遠年に持続すべきものに非ず。また、持続してよろしからざるものなれば、政治の針路の変化するにしたがいて、学校の気風精神もまた変化せざるをえず。学問の本色に背くものというべし。
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