導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

福沢諭吉小品集 / 蘭学事始再版序・第2段

此時に当り迂老は江戸に住居し、独り目下の有様を見聞して、我国文運の命脈甚だ覚束なしと思ひ、明治元年のことなり、月日は忘れたり、小川町なる杉田廉卿氏の宅を訪ひ、天下騒然復た文を語る者なし、然るに君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書なり、今是を失ふては後世子孫我洋学の歴史を知るに由なく、且は先人の千辛万苦して我々後進の為めにせられたる其偉業鴻恩を空ふするものなり、就ては方今の騒乱中に此書を出版したりとて見る者もなかる可しと雖も、一度び木に上するときは保存の道これより安全なるなし、実に心細き時勢なれば売弘などは出来ざるものと覚悟して出版然る可し、其費用の如きは迂老が斯道の為め又先人へ報恩の為めに資く可しとて、持参したる数円金を出し懇談に及びしかば、主人も迂老の志を悦びいよ/\上木と決し、其頃は固より活版とてはなく、先づ草稿を校正して版下に廻はし、桜の版に彫刻することなれば、彼れ是れ手間取り、発兌は翌明治二年正月のことなりき。即ち今の版本蘭学事始上下二巻、是れなり。爾後不幸にして廉卿氏は世を早ふせられ、版本も世間に多からず。然るに今回は全国医学会に於て或は其再版ある可しと云ふ。迂老の喜び喩へんに物なし。数千部の再版書を普く天下の有志者に分布するは即ち蘭学事始の万歳にして、啻に先人の功労を日本国中に発揚するのみならず、東洋の一国たる大日本の百数十年前、学者社会には既に西洋文明の胚胎するものあり、今日の進歩偶然に非ずとの事実を、世界万国の人に示すに足る可し。内外の士人この書を読で単に医学上の一小紀事とする勿れ。明治二十三年四月一日、後学福沢諭吉謹誌。

書き下し

此時に当り迂老は江戸に住居し、独り目下の有様を見聞して、我国文運の命脈甚だ覚束なしと思ひ、明治元年のことなり、月日は忘れたり、小川町なる杉田廉卿氏の宅を訪ひ、天下騒然復た文を語る者なし、然るに君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書なり、今是を失ふては後世子孫我洋学の歴史を知るに由なく、且は先人の千辛万苦して我々後進の為めにせられたる其偉業鴻恩を空ふするものなり、就ては方今の騒乱中に此書を出版したりとて見る者もなかる可しと雖も、一度び木に上するときは保存の道これより安全なるなし、実に心細き時勢なれば売弘などは出来ざるものと覚悟して出版然る可し、其費用の如きは迂老が斯道の為め又先人へ報恩の為めに資く可しとて、持参したる数円金を出し懇談に及びしかば、主人も迂老の志を悦びいよ/\上木と決し、其頃は固より活版とてはなく、先づ草稿を校正して版下に廻はし、桜の版に彫刻することなれば、彼れ是れ手間取り、発兌は翌明治二年正月のことなりき。即ち今の版本蘭学事始上下二巻、是れなり。爾後不幸にして廉卿氏は世を早ふせられ、版本も世間に多からず。然るに今回は全国医学会に於て或は其再版ある可しと云ふ。迂老の喜び喩へんに物なし。数千部の再版書を普く天下の有志者に分布するは即ち蘭学事始の万歳にして、啻に先人の功労を日本国中に発揚するのみならず、東洋の一国たる大日本の百数十年前、学者社会には既に西洋文明の胚胎するものあり、今日の進歩偶然に非ずとの事実を、世界万国の人に示すに足る可し。内外の士人この書を読で単に医学上の一小紀事とする勿れ。明治二十三年四月一日、後学福沢諭吉謹誌。

現代語訳

このとき、この老人は江戸に住んでおり、ひとり目下の有様を見聞きして、わが国の文運の命脈はまことに心もとないと思い、明治元年のことですが、月日は忘れました、小川町にある杉田廉卿氏の家を訪ねて言いました。天下は騒然として、もう文を語る者はいません。しかしあなたの家の蘭学事始は、私たち学者社会の宝の書です。今これを失っては、後世の子孫がわが洋学の歴史を知るすべがなくなり、また、先人が千辛万苦して私たち後進のためになさった偉業と大恩を無にすることになります。ついては今のこの騒乱の中でこの書を出版しても、見る者はいないでしょうけれども、一度版木に彫っておけば、保存の道としてこれより安全なものはありません。まことに心細い時勢ですから、売り広めることはできないものと覚悟して、出版するのがよいでしょう。その費用は、この老人が斯道のため、また先人への報恩のために出しましょうと、持参した数円の金を出して懇談したところ、主人もこの老人の志を喜び、いよいよ出版と決めました。その頃はもとより活版はなく、まず草稿を校正して版下に回し、桜の板に彫刻することでしたので、あれこれ手間取り、発行は翌明治二年の正月のことでした。これが今の版本の蘭学事始上下二巻です。その後、不幸にして廉卿氏は早く亡くなられ、版本も世間に多くありませんでした。ところが今回は、全国医学会で再版をなさるとのことです。この老人の喜びは譬えようもありません。数千部の再版を広く天下の有志に配るのは、すなわち蘭学事始の万歳であり、ただ先人の功労を日本国中に顕彰するだけでなく、東洋の一国である大日本に百数十年前、学者社会にはすでに西洋文明の芽生えがあり、今日の進歩は偶然ではないという事実を、世界万国の人に示すに足るでしょう。国内外の人々よ、この書を読んで、ただ医学上の小さな記事と思わないでください。明治二十三年四月一日、後学の福沢諭吉が謹んで記す。

解説

戊辰戦争の混乱の中でも、福沢は自費を出して『蘭学事始』を出版し、史料を守りました。売れなくてもよい、保存こそ大事という判断は、のちの世に歴史を渡す責任感の表れです。結びでは、西洋文明の芽は偶然でなく、先人の積み重ねから生まれたと世界に示すべきだと述べます。短期の損得でなく、長期の資産を守る仕事の見本として読めます。人は目先の売れ行きでなく、残す価値で動ける。そんな一例として読めます。

この章句が説くこと

騒乱の中の出版杉田廉卿保存の道報恩再版先人の功労

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円 本を見る